マーク・ボランの「Mind Tree」(2)- 14歳頃に学校をドロップ・アウト。コーヒー・バーでの皿洗いとモッズ・ファッション

チャック・ベリー、リトル・リチャード、エディ・コクランが大好きに

▶(1)からの続き:マークは次第に、ラジオから流れてくるロックン・ロールが大好きになっていきます。チャック・ベリー、リトル・リチャード、エディ・コクランの陽気で刺激的なサウンドの虜になります。その一方で、頭の中に沸き上がるイメージとアイデアをどうしてよいものやわからず、マークは粘土をこねくりまわしながら遊ぶようになっていました。なんとか形になった粘土細工を、マークは「絵」だといって寝室に持ち込んで、そのいびつな形を楽しんで「とても素敵だろう」とばかり言うので、父は何か危ないものを感じたのでしょうか、マーク8歳の時に、子供用のドラム・キットを買い与えています。といって父はマークの音楽熱に理解があったわけではありませんでした。

9歳の時、エルビス・プレスリーの虜になる。誕生日にギターを買ってもらう

9歳の頃(1956年)、マークはラジオから流れだしたある曲に痺れてしまいます。「ハートブレイク・ホテル」。歌っていたのはエルビス・プレスリーでした。マークはプレスリーに憧れるようになっていきます。「ハートブレイク・ホテル」(1956年リリース)はプレスリー6枚目のシングルで、シングルチャートで初めてナンバー1を獲得した記念すべき曲です(2カ月独走した。プレスリー初のシングルリリースは1954年)。1956年は、瞬く間に世界中にプレスリーサウンドがラジオやレコードを通して溢れ出し、世界中の若者に大きな影響を与えた年でもありました。
「ハートブレイク・ホテル」がヒットチャート1位になってから9月30日のマークの誕生日までおよそ半年間に、プレスリーはシングル「ハウンド・ドッグ」をリリース。マークはいてもたってもいられなくなったにちがいありません。9歳の誕生日、ついにマークは念願のギターを父に買ってもらいます。ギターをあちこちいじくって”発情”している間にも、「ラブ・ミー・テンダー」が聞こえてきたはずです。そして、翌57年には「監獄ロック」などリリース。どの曲も何カ月も1位を独占し、マイクの中でプレスリーの存在感は圧倒的なものになっていきます。

11歳、学校の友達と3人バンドを結成

11歳の時、ウィリアムズ・ワーズワースセカンダリー・スクールに入学します。マークのギターの腕はどんどん上達していきました。早速に音楽好きな友達ができ、3人組のバンド「スージー&ザ・フラフープス」をつくりました。ここではマークはベースを担当しています。ヴォーカルをとっていたのはヘレン・シャピロという女の子で、2年後になんとソロ歌手としてデビューし、シングル「子供じゃないの」はヒット曲になっています。シャピロはその後、60年代の英国のTV番組で子役スターになっていきます。同じバンドにいたヘレン・シャピロがまだ若いうちに音楽で成功したことも、10代のマークに相当の刺激になっています。すでにこの頃に、マークはロックン・ロールだけでなく、ファッションにも夢中になりはじめています。この時期ファッションもエルビス・プレスリーからの影響でしたが、次第に自分なりのアイデアも取り込んでいきます。

「モッズ」のはしりのファッション。カーナビー・ストリートの遊び人

13歳頃なるとマークは、モッズ発祥の地といわれるカーナビー・ストリート界隈ではちょっと名の知れた大人びた遊び人になっていきます。ロックン・ロールが好きでしたが、革ジャンにジーンズのロッカー・ファッションではなく、マークは「モッズ・ムーブメント」を予感させるファッションでいつもキメテいました。モッズ・ファッションとはヘアはモッズカットで、スタイリッシュにきめた細身の三つボタン・スーツにモッズコート(実際にはミリタリーパーカーM51で1951年に米軍に採用されたもの)、さらには深夜営業のクラブに集まってダンスしたので移動手段のスクーター(ベスパやランブレッタ)もファッションのいち要素でした。マークはスクーターは乗っていなかったようですが、コンサートやテレビ・スタジオに頻繁に出入りする目立つマークは姿は、「アバウト・タウン」誌のカメラマンの目にとまり、ファッション・ページもモデルとしてマークを起用しはじめたのです。「キング・オブ・モッズ」として紹介されたこともあったようです。紳士服のモデルとなってフリーマンズのカタログにも載ったのもこの頃でした。

14歳頃には学校をドロップ・アウト。コーヒー・バーなどで皿洗いをする

一家がサウス・ロンドンのウィンブルドンに引っ越した14歳頃には、マークはほとんど学校をドロップアウトしていて、転校先のヒルクロフト・スクールもすぐに登校しなくなります。学校の代わりにいりびたっていたのは、ソーホー21というカフェで、ロックン・ロールやポップス、ブルース、ジャズを聴きまくっていました。遊びまわっていただけでなく、マークは母の勤めていたスーパーマーケットでアルバイトをしたり、バー・ウィンピーで皿洗いをしています。後に、サウス・ロンドンの洋服店エドガーズ・クロージィング・ストアで仕事をしたり、ソーホーのコーヒー・バーのトゥー・アイズの厨房でも働いています。このコーヒー・バーは音楽関係者やミュージシャン志望者が多く出入りしていて、事情通のマークは音楽業界へ入り込むきっかけになればと考えていたようです。世界的レゲエ・ミュジシャンのジミー・クリフも、17歳(1965年)でジャマイカからロンドンに出てきてこのコーヒー・バーで働いています(2年後にファースト・アルバム『ハード・ロード・トゥ・トラベル』を発表)。

「自分は絶対にスターになる」と友達に言いつづけた

15歳の時、同い年のアレンと出会います。アレンはテレビ番組「ファイブ・オクロック・クラブ」の出演者でした。2人は共同で家賃35ポンドのフラットを借りて住みだします。マークはアレンに「自分は絶対にスターになるのでマネージャーになって欲しい」と芸歴のあるアレンに頼みこみます。マークが毎日そのことを自身たっぷりに話すのでアレンはマネージャーを引き受け、カメラマンに合わせポートレイトを撮り、スタジオでアセテート盤を録音します。マークは、トビー・タイラーというアーチスト名で、エディ・エベレットの曲「ユー・アー・ノー・グッド」を吹き込んでいます。この頃、街角でギターを弾いたりするだけでなく、ゴミ箱とダンスしたり、キャデラックに話しかけたりするマークの姿があちこちで目撃されています。マンホールの歌や吠えることのできない犬の歌をつくっては歌っていたり、手紙の署名と一緒に笑顔をえがくので、皆から”スマイリー”というニックネームをつけられていたのもこの頃でした。▶(3)に続く-近日up