ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「Mind Tree 」(2)- 青年期、7年間ものヨーロッパ滞在。ブエノスアイレスの「再発見」

9歳にして、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』をスペイン語

▶(1)からの続き:ボルヘス少年が最初にものを書くようになったのは、6歳か7歳のことでした。『ドン・キホーテ』の作者ミゲル・デ・セルバンテスを模倣した滑稽な中世物語(題して『運命の兜』)やギリシャ神話に関するハンドブックのようなもが最初だったようです。また有名なエピソードとして、9歳の時にオスカー・ワイルドの『幸福な王子』をスペイン語に翻訳したものが、人手に渡ってブエノスアイレスの日刊紙に載ったことがありました。周りの者は、その訳者の名前から父が訳したものと勘違いしていたそうです。
9歳にしてすでにボルヘスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、英語とスペイン語の「言の葉」が青々と茂りだし、独特の葉脈で、2つの「言の葉(言語)」を変換しはじめていたことがわかります。知力が高く2つの言語を知った者に生じる特性といえるでしょう。「心の樹」の中に<ミラー・ニューロン>のような大きな「鏡」が生まれ、その「鏡」をもちいて「言の葉」を別の文化体系の中に”植林”するのです。ボルヘス家では英語とスペインが同等に使われていたといいます。
13歳の時(1912年)、ボルヘスは主役をトラにした最初の短編「森の王者」を書いています。この時、ジュール・ヴェルヌの「ネモ船長」にちなんで「ネモ」と署名しています。海底で活躍したネモ船長が、今度は森の中で活躍する「マインド・イメージ」だったのでしょうか。「言の葉」が、森のように高く深く茂り出し、そのなかにいろんな生命を持ち込んで物語る力がついてきたことの反映にしがいありません。

父、視力を失い、眼の手術のため一家でジュネーブ

この頃、ボルヘス家では難事が起こっています。父ホルヘの視力が急激に落ち、仕事の書類も読むことが困難になり弁護士の仕事から退くことを考えはじめていたのです。目の手術をスイスのジューネーブでおこなうことになり、ボルヘス15歳の時、一家はヨーロッパに1年間(結局、それは7年に及ぶことになります)移住することを決意します。この移住には、ボルヘスの教育レベルをあげる意図も含まれていました。ヨーロッパは第一次世界大戦前夜で、各地できな臭い状況になってきていました。
それでもボルヘス少年はジュネーブに着くと、学校に備えフランス語をみっちり習わされました。フランス語の家庭教師が就き、語学学校にも通っています。ようやく近くの男子校に通うまでになりましたが、フランス語の試験を落とし克服しようとフランス文学を読み出します。ユゴーモーパッサンフロベール、ゾラなどを原書で次々と読んでいきました。この頃、英語版でドストエフスキーの『罪と罰』も読んでいます。

アルゼンチンの詩人の本、カーライルとチェスタトンを原書で読む

眼が治ることを期待し、父はジュネーブに多くの蔵書を持ち込んでいました。後のボルヘスに影響を与えるアルゼンチンの2人の詩人の詩集も、アルゼンチンから遠く離れたジュネーブで最初に読んだようです。その詩人とはイラリオ・アスカスビ(19世紀にアルゼンチンの国民文学の概念を生みだした)とレオポルド・ルゴーネスでした。また後にボルヘスのお気に入りとなったトマス・カーライルとG.K.チェスタトンもこの地で読み出しています。とくにブラウン神父を生み出したイギリスの作家チェスタトンの著作は、ボルヘスが30代に入っても再三読み返していて、このチェスタトンの短編小説のスタイルがボルヘスの短編のスタイルに大きな影響を与えました。ボルヘスにとって生涯を通じての重要な英語圏作家は、G.K.チェスタトンとスティーブンスン、そしてキプリングでした。

トマス・ド・クインシーとハイネに夢中になる

トマス・ド・クインシーとハインリヒ・ハイネボルヘスを魅了しっぱなしでした。夢と記憶を暗示的にあらわしたド・クインシーの『英国阿片吸引者の告白』を忘れるわけにはいきません。そしてドイツ・ロマン派の詩人ハイネの詩は、ボルヘスの「マインド・イメージ」に新たな次元を開示します。それは母国語をもちいた詩人になりたい、という強い思いでした。18歳の時、ボルヘスはドイツ語で初めて散文を読むようになります。グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』でした。この幻想的で途方もない小説はボルヘスを夢中にさせました。そしてショウペンハウアーの『意思と表象としての世界』に新たな知覚の感覚を感じ取り、ニーチェに心を震わせられています。

スペインの前衛文学グループ「ウルトライスタ」に加わる

アルゼンチンにとって植民地時代の宗主国スペインは旅行には不向きな国です。実際、子孫である者が相当数いますが、彼らはスペイン人の子孫であるこことを認めようとしないのです。ボルヘス一家はアルゼンチンに帰国する前にこのスペインに1年滞在しています。ボルヘスは小さな村で僧侶からラテン語を勉強した後、セビリアに出た時、ボルヘスは前衛文学グループ「ウルトライスタ」に出会います。「ウルトライスタ」はダダや未来派の影響を受けた文学グループで、マドリードではその創始者ラファエル・カンシーノス=アセンスと友情を結びます。ボルヘスは、「ウルトライスタ」に加わり、ウォルト・ホイットマンになりきったボルヘス少年の詩がはじめてこの地で活字になっています。この時期は、ボルヘスは、博覧強記のカンシーノスの弟子といえるほど影響を受けています。カンシーノスは後にゲーテドストエフスキースペイン語訳を手がけるほどの文学に生きた人物でした。カンシーノスを師とした後の批評家ギリェルモ・デ・トーレは後にボルヘスの妹ノラと結婚しています。ボルヘスはスペイン滞在中にエッセー集と自由詩集(何篇かは雑誌に掲載された)を書きますが、出版社を見つけることもできずスペインを発つ前に破棄しています。

長い間故郷から離れていたために故郷を深く意識するよう

22歳の時、ボルヘスは7年間に及ぶヨーロッパの滞在を終え、ブエノスアイレスに帰郷します。そして、ブエノスアイレスの変貌ぶりはボルヘスを驚嘆させました。ブエノスアイレスはパンパと呼ばれる西方の大草原にどこまでも伸びる大都市になっていたのです。ボルヘスの「マインド・ツリー(心の樹)」に大きな衝撃と影響を与えました。ボルヘスは、鳥になった様な感覚で変貌した街並を確かめ、ブエノスアイレスを「再発見」します。ブエノスアイレスの街角は、ボルヘスにとって”卵”を産み落とすに格好の巣になります。むこう2年間、ボルヘスのなかに多くの詩が胚胎し、詩集『ブエノスアイレスの熱狂』として産み落とされまた。妹の木版画で表紙を飾り、300部ばかりが印刷されました。詩集はその題とは裏腹に、人通りのない寂しい街角や夕日、バークリー風の形而上学や先祖のこと、初恋が詠われました。後にボルヘスはその後の著作はこの詩集で取りあげた主題の変奏と展開にしかすぎないと語っています。この時ボルヘスは詩集を本屋には置かず、伝統ある文芸雑誌「ノソトロス」の編集に持ち込みます。そして訝(いぶか)る編集長に編集部に出入りする人の外套のポケットに詩集をそっと入れてもらう約束を取り付けたのでした。何人かがその詩を読み何人かが批評を書いたそうです。
当時ボルヘスはアルゼンチンの「ウルトライスモの父」とみなされていましたが、アルゼンチンの詩人たちはスペインで発生したウルトライスモとは異なる方向に向っていました。前衛文学的に新奇を衒(てら)うものせはなく、「ここ」と「いま」を超越した詩だったようです。またアルゼンチンの作家マセドニオ・フェルナンデスは、ボルヘスの思考に大きな影響を与えはじめ、ボルヘスをさらに文学の世界に飛翔させていきます。ボルヘスの「心の樹」にこそ、あの枝、この枝に、新たな”卵”を迎える「巣」がつくられはじめました。▶(3)に続く