泉鏡花の「Mind Tree」(2)- 中学時代、異国の美少女が登場する小説を毎日愛読。15歳受験に失敗。友人宅で尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読む。17歳で上京するも1年間放浪生活


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中学時代、異国の美少女が登場する小説を毎日愛読(森鴎外の『即興詩人』『舞姫』)

▶(1)からの続き:鏡太郎11歳、金沢高等小学校(今の中学校に相当)に入学しましたが、家の経済的な問題から、その年の内に一致教会派の真愛学校(翌年に北陸英和学校に改称)に転入しています。アメリカ人宣教師ポートルが校長となって運営していたミッション・スクールでした。先生もしていた校長の娘ミス・ポートル(娘でなく校長の妹とも)は、教鞭を執る先生として鏡太郎に英語などを教えたようです。ちょうどこの頃、鏡太郎の愛読書は、森鴎外の『即興詩人』で、毎日のように手にとり読んでいたといいます。『即興詩人』はデンマーク童話作家として世界的に知られることになるアンデルセンを世に知らしめた長編小説で(原書1835年刊。これを座右の書とした鴎外は10年かけて翻訳)、南国イタリアの名勝を舞台にしたロマンチックな恋愛小説です。また美少女エリスが登場する同じく鴎外の『舞姫』にも心躍らせていたようです。愛読する小説に登場する年上の美しい異国の女性のイメージと、彼方に逝ってしまった母の面影が、生身のポートル嬢に転移し、鏡太郎の憧憬の対象となり(実際にも鏡太郎をとても可愛がった)、異国の言語である英語の勉強にも熱が入ります。

15歳、受験に失敗。友人宅で、偶然、尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読む

15歳の時、金沢専門学校(後の第四高等学校、金沢大学)を受験します。が、英語はほぼ完璧ながら数学が極度に悪く落第。英語が抜群にできたため、父・清次の師匠(九代目水野源六)の兄・井波他次郎が営んでいた井波塾(英語・漢文・数学の寄宿舎制の専門塾)で、英語の代稽古を引き受け若い生徒たちに教えるようになります。先生といえど寄宿舎制だったため自由に外出できず、こっそり抜け出し貸本屋に走ったといいます。試験勉強から解放された鏡太郎は、猛烈に読書をしはじめました。異国の美少女ものなどを読み漁っていた鏡太郎に大きな転機が訪れます。
貧乏長屋の2階にあった友人のもとに遊びに行った時のことでした(友人も英語が得意でそこを借りて英語を教えていた)。友人の机の上に置いてあった本を取りあげてつらつら読んでいると、鏡太郎はその物語世界にとっぷりと入りこんでいたのです。その物語は『二人比丘尼色懺悔』(雅俗折衷の斬新な文体で一躍流行作家になるきっかけとなった小説)。著者は、尾崎紅葉でした。戦国時代を背景にし没した同じ若武者を恋した2人の女性が偶然邂逅する物語と、隣家からもれ聞こえる機織りの音がシンクロし、鏡太郎は幽玄の境地に誘いこまれました。鏡太郎の心の内に宿っていたのは、母の面影であり、幼少期にいつも見ていた「草双紙」に描かれた黒髪の美しい日本人女性でした。『二人比丘尼色懺悔』の物語は、鏡太郎の「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”を染めあげて日本美と、「近代文学」の新たな表現スタイルを”共振”させたようです。
ちなみにこれより3年前、明治18年(鏡太郎12歳の時)、坪内逍遥が『小説神髄』を発表。人間心理を客観的に描写することが「近代小説」であるとしました(江戸時代の勧善懲悪の物語を否定。小説は第一に人情を描き、第二に世態風俗を描写すべきとした。『当世書生気質』は坪内は自ら実践し著したものだが、二葉亭四迷にその不徹底さを批判されている。これも坪内逍遥自身、幼少期に草草紙・読本など江戸文学や俳諧に深く親み、自らの「心の樹」の重要な成分にしていたことで、それを完全に断ち切ることができなかったことを証している。妻も近くの根津遊郭の娼妓だった。曲折を経てシェイクスピア全集の翻訳に向う。早稲田大学演劇博物館はその偉業を讃えたもの)。
鏡太郎が、尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んだ頃、近代文学はまだ夜明け頃だったのです。

「温泉芸者」になった伯母と従姉たちから貸本のための援助を受ける

鏡太郎が貸本を濫読することができ、文学への思いを繋げることができたのは、伯母(亡くなった母の姉)の中田千代と2人の従姉(いとこ)たちのお陰でもありました。伯母の千代は夫の中田惣が亡くなってから、辰ノ口温泉で芸者置屋を開業。2人の従姉(いとこ)は、辰ノ口の「温泉芸者」でした。金沢から松任を経て小松へ向う途中にある辰ノ口温泉は、明治のはじめ頃には6軒程の鉱泉旅館があり、加賀の温泉地と並ぶほどに賑わっていたといいます。伯母と従姉たちは化粧料のなかから、鏡太郎が本を読めるようにと貸本の見料を援助していたのでした。
『二人比丘尼色懺悔』を読んで衝撃を受けた翌年の夏(明治23年。鏡太郎16歳)、伯母を訪ねていた鏡太郎はまたもや偶然に尾崎紅葉の作品を目にしたのです。それは伯母の家にあった読売新聞を鏡太郎が手にした時でした。紙上に尾崎紅葉の新作『夏痩』が掲載されていたのです(当時は、新聞が部数獲得競争のため、人気のある、あるいは新進気鋭の作家の新作を掲載していた)。『二人比丘尼色懺悔』を読みすでに尾崎紅葉を崇拝しはじめていた鏡太郎にとって、『夏痩』は決定打となり鏡太郎はいてもたってもいられなくなります。「八文字」と題する習作を書き、続いて数点習作をものしていきます。鏡太郎の「マインド・ツリー(心の樹)」の枝の先々には、みるみるうちに若い”言の葉”がつきはじめていったのです。

17歳で東京に上京。1年間の放浪生活、知り合いの下宿を転々とする

鏡太郎のなかで尾崎紅葉への憧れと文学への思いはつのるばかりでした。尾崎紅葉の門に入ることを大決心しますが、実際にはなんの算段もない無謀な上京だったようです。身内も縁者も、小説家という食べていけるあてのない身の程知らずの考えを矯正しようとしますが、もはやつける薬はありませんでした。この頃、いくら新聞紙上に載っていようが小説を読むことは堕落のはじまり(役者と同様)とおもう者も多くいたのです。結局、鏡太郎を説得することはできず、父の師匠(九代目水野源六)の妻が東京支店を設けるため、職人さんと上京することを聞き、その一行に鏡太郎を同行させたのでした(一行3人旅となる)。
3日間の旅を終え、新橋駅に降り立った鏡太郎は、予想をはるかに超えた東京の巨大な街並みに圧倒され、すぐにでも尾崎紅葉先生の家を尋ねようという当初の思いは挫(くじ)かれてしまいます。それからなんと1年もの間、萎えた気持ちを奮い起こすことができず、鏡太郎は東京を彷徨うことになります。最初は、泉家とは旧知の間柄の知人の医学生の狭い下宿に投宿していました。後にこの医学生の従兄弟や友人たちの所に泊めてもらうようになります(夜具一つも持たず、短くて数日、長くて3カ月、転々とした)。知人の医学生は、湯島の医学校・済生学舎(明治時代の代表的私立医学校;無試験で入学できたのでバンカラ書生たちの溜まり場にもなっていた学校)に通っていたので、鏡太郎が泊まり歩いたのは、当時の書生が多く集っていた神田と本郷、湯島がおもでした。時に麻布や浅草、神田の裏長屋や遠くは鎌倉の妙長寺だったこともあったといいます。知り合った何人もが下宿代を踏み倒して逃げ出していったので、鏡太郎は人質のようにとり残され詰問された時もあったようです。作家となって世に出ていた谷崎潤一郎も、下宿代が払えず本郷の下宿から逃亡したように、この時期、若い書生が下宿をすることは経済的に容易いものではありませんでした。
鏡太郎が驚いたことの一つに、東京の日常語がなんとも美しく感じられたことがありました。言葉を交わす女性の声に母の声を懐かしんだようです。実際、母は9歳まで東京に暮らしていました。その東京の日常の言葉の奥に息づく東京人の感情や機微、そしておおきくは東京の世相風俗、生まれ変わりゆく都の姿、取り残された社会の闇に怨嗟、水底に漂うような江戸情緒の名残りに出会ったのでした。
1年が過ぎ去る頃(明治24年秋)、鏡太郎は夢破れ、もはや帰郷するしかないと考えていたようです。そして思わぬ繋がりを契機に、尾崎紅葉に会えることになるのです。鏡太郎が知り合いになっていた医学生の一人が、芝浜松町にある樺山家の親類の家に寄宿していることを耳にしたのです。樺山家とは、尾崎紅葉の結婚相手の父・医師樺山玄周の家で、鏡太郎は最後の一縷の望みにかけ一目でも会えればと、その医学生を通じ紅葉の親類の者に紹介状を書いてもらいました。

23歳だった尾崎紅葉の門下生になる。共通した感性とは

鏡太郎が初めて尾崎紅葉(住居は、牛込横寺町)に会いに出向いた時、尾崎紅葉はまだわずか23歳、結婚したばかりでした。すでにこの時までに、尾崎紅葉は大学予備門で知り合った仲間たちと硯友社を立ち上げ、雑誌『我楽多文庫』を発刊、新人のための雑誌(「小文学」「江戸紫」「千紫万紅」)を刊行しはじめていたのです。その時、尾崎紅葉は、まだ一介の学生でした(東京帝国大学法科入学、翌年に同大学文科大学和文科に転入、明治23年に退学。22年に『二人比丘尼色懺悔』を刊行し一躍脚光を浴びていた。同年22年に大学在学中のまま読売新聞に入社し、『伽羅枕』を読売新聞に連載)。
鏡太郎の思いの中で尾崎紅葉一筋だったのは、流行作家にのぼりつめようとしていた尾崎紅葉にたんにあやかろうとしたのではなく、鏡太郎の「心の樹」に映しだされていた女性観と強く共振するものがあったためでした。尾崎紅葉のそれは、井原西鶴を彷彿とさせる風俗描写を背景に、いにしえの女性観と女性美を描きながらも、その文体は戯作文学の域を超越し、華麗にして今日的でした。そのため「洋装せる元禄文学(国木田独歩評)」と評されることもあったといいます。実際に尾崎紅葉は優れた英語の語学力で、英米の大衆小説を読みこなし、自作の成分にしていたのです。それは自身高い英語力がある一方、美しい<母なるもの>と「母性思慕」を通じ、江戸の美と感性と共振してしまう鏡太郎の別の姿でもあったのです。
初めて出会った翌日から、鏡太郎は尾崎紅葉の門下生としてー実質的には尾崎家の玄関番としてー4年間もの間、過ごすのです。
▶(3)に続く-未

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