ジェイムズ・ジョイス「Mind Tree」(3)-『ユリシーズ』出版まで

パリ→スイス→トリエステへ。ベルリッツ語学学校で教える

▶(2)からの続き:『スティーブン・ヒアロウ(Stephen Hero)』は少年期から青年期、そして芸術家として自覚し、パリに旅立つまでを振り返った内容の自叙伝的小説でした。後の『若き日の芸術家の肖像』として知られる作品よりもさらに自己の経験に即したリアルな内容のものでだったことは確かです。数千ページにもなったとされる本作品をジョイスは破棄します。偶然なのか、最後の一章だけが残って後に『スティーブン・ヒアロウ』として知られるものになります。このことからもいかにジョイスが”魂の成長”を自覚的に描き込んでいたかがわかります。そしてそれは自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の成長を自らの手で自らを描く、という方法であったのです。多かれ少なかれ作家は主人公に自らを語らせますが、自らの「魂の成長史」を極めて自覚的に書き綴ったことで本書はイギリス文学史上特筆される作品となっています。またそこに描き込まれた「意識の流れ」の記述方法は後の『ユリシーズ』で完成するものでした。
ダブリンへの一時帰郷はもう一つ重要な出来事をジョイスにもたらしました。後に妻となるノーラ・バーナクルとの出会いです。ノーラは地方の学校を卒業しダブリンに就職のために出て来ていた女性で、ジョイスにとって理想的な女性でした。明るく実際的な性格にくわえ、貧しい家計を耐えながら切り盛りでき、孤高の精神の持ち主ジョイスのことを理解し、ジョイスが落ち着いて創作に没頭できるような家庭をつくってくれました(あのジョイスを家庭的な人間にしてくれたのです!)。ジョイスにとって出来過ぎの女性といえるでしょう。ジョイスの「マインド・ツリー」の大きな支えになったことは間違いありません。1904年秋、若い妻ノーラ・バーナクルを連れ、26歳のジョイスは再びパリへ旅立ちました。これ以降、ジョイスは以下の2度の短期の帰国を除いて、永久にダブリンから去ることになりました。「ヴォルタ」という映画館開設のためと『ダブリン市民』の出版交渉がそれでした。

10年間続けた語学学校教師と個人教授

パリを経由し二人は早々、ベルリッツ語学学校の仕事の口があるスイス・チューリッヒへ向かいました。しかし仲介人の手落ちでスクールの空席はなく、オーストリアとイタリア国境の町トリエステに向かいました。実際に仕事の口があったのはトリエステから数マイル先の山間の町ポーラでした。翌年、子供ができたジョイストリエステに戻り語学の教師をさらに懸命になって続けます。時間が少しとれれば『ダブリン市民』と『若き日の芸術家の肖像』を毎日こつこつと書き続けていきました。
ベルリッツ・スクールでは授業時間は長く給料は少なかったため、ジョイスはスクール以外に商人階級の大人たちに個人教授の仕事もせざるをえませんでした。夕方にカフェで一杯のブドー酒を飲みごく親しい仲間と文学を語り合うのを気晴らしにしていたようです。友人との談笑の最中でも突然のひらめきを書き込めるようにいつも小さな紙束をポケットにしのばせていたといいます。こうした状態がほぼ10年間続きます。時間も限られていたことに加え、ジョイスは驚くほど遅筆だったといわれています。一語一語に言葉の配列順所にいたるまで吟味し、何度も何度も書き直していきました。1日かかって2行程の時もあったようです。

米国の詩人エズラ・パウンドからのコンタクト

毎日長時間の語学教師には飽いてしまっていましたがトリエステでの生活は、のどかで楽しいものだったと後にジョイスは述懐しています。ベルリッツに職の空きが出たことを知るとジョイスは二歳年下の弟スタニスロースをくどいて呼び寄せました。子供のいるジョイスは結局、弟に財政的な厄介をかけてしまいましたが。『ダブリン市民』の出版は遅々としてすすまず精神的に疲れ、別の土地での仕事を探し、1906年7月から翌年3月までローマで銀行の通信係として働きます。しかしローマの水はジョイスに合わず、再びトリエステに戻ります。1907年には娘が誕生。トリエステの新聞がジャーナリストとしてジョイスを認め、アイルランドの政治問題に関する3つの論文を掲載(イタリア語で書く)しました。同年、最初の詩集でジョイス最初の著作『室内楽』がロンドンの商業出版社エルキン・マシューズ社から出版されます。ちょうどその時、イマジスト運動の最初の詩選集の編集に際してロンドンに来ていた米国の詩人エズラ・パウンドが、『室内楽』の中の一篇を採録したいとコンタクトしてきました。パウンドはイェイツからジョイスのことを聞いていたのです。

中立国スイスで『ユリシーズ』の執筆に没頭

そして1913年(31歳)に、エズラ・パウンドの肝いりで『若き日の芸術家の肖像』が「エゴイスト」誌に掲載されました。ジョイスの名前が知られるようになると、難産だった『ダブリン市民』がとんとん拍子で同年に出版されました。その3年後には『若き日の芸術家の肖像』も世に出ました。
ところが1914に第二次世界大戦が勃発すると当時オーストリア領だったトリエステでは敵国の英語を教える環境は消失してしまいジョイスは経済的に困窮します。妻の伯父が手助けしてくれ中立国のスイスへ向かい、そこで語学教師を続けるます。このスイス・チューリッヒの地で、ジョイスは大作『ユリシーズ』の執筆に没頭しました。またロックフェラーの一人娘マコーミック夫人からの毎月の経済的贈与や英国王室からの支給(もっとも額はそれほど大きなものではなく、ジョイスが経済的にまったく困窮することなく創作に没頭できるようになったのは、後のパリ時代に「エゴイスト」社のウィーヴァー嬢が相当額を月々一定額引き出せるように贈与してからのこと)、そしてイギリス劇団を組織し少しばかりの演出をしたのもこの時期でした。1918年にアメリカの『リトル・レビュー』誌に『ユリシーズ』の一部が掲載され、世界各地の文学青年にその名を知られるようになっていきます。
戦後の1920年ジョイスは再びパリに向かいました。そこではエズラ・パウンドがパリの文学界の面々にジョイスを引き回します。ジョイスは新しいタイプの芸術家として迎えられました。そして1922年にパリのシェイクスピア書店から『ユリシーズ』がついに刊行されます。

「輪廻転生」の物語へ。『フィネガンズ・ウェイク』刊行

ユリシーズ』を超えるといわれる『フィネガンズ・ウェイク(徹夜祭)』は、「ワーク・イン・プログレス」として冒頭部分が1927年に前衛雑誌「トランジション」誌に載り、12年後の1939年に出版されます。ジョイスの死の2年前でした。この故郷アイルランドの俗謡からつけられた題名をもつ『フィネガンズ・ウェイク』は、20世紀に可能な神話、「輪廻転生」の物語です。転落と蘇生、対立と融和、個人間の対立、民族間の対立、思想的対立が循環し、「初めは終わりとなり、終わりは初めとなる」人類の壮大な叙事詩でもありました。ここに至ってジョイスの「マインド・ツリー」は、自身の「心の樹」を超えて、森全体の、さらには地球上のすべての「心の樹」を映しだす大海のごとき「鏡」の機能をあわせもった壮大な「大樹」となったのです。


◉成年期:Topics◉ジョイスは1918年(36歳)の時、ジョイス唯一の戯曲『追放人』を出版。そのタイトルにも見られるようにシチュエーションに自伝的要素を含みこんだ内容のもの。イタリアで暮らしていたアイルランド作家が妻を連れ久しぶりにダブリンに帰郷し、二重の三角関係に陥り、表面的には何事なく過ぎるが、心に恐ろしい疑惑が残りお互い別人のように感じてしまうという作品。かつてのイプセンの研究の上に作劇されたもので、後の『ユリシーズ』のように24時間以内の心理の変化を抉っている。『ユリシーズ』を出版したシェイクスピア書店(パリのオデオン街12番地)はアメリカ人ビーチ嬢が経営し、エズラ・パウンド、エリオット、ガートルド・スタイン、ヘミングウェイら新文学作家が集う場所だった。『ユリシーズ』は発売と同時に賛否両論が渦を巻き、いち早く賞賛したのはSFの創始者の一人H.G.ウェルズとアーノルド・ベネットだった。英国と米国では輸入禁止となりかえってそれがスキャンダルになり8年間で11刷を完売となった。ジョイスの眼:ジョイスはかなり前から眼疾に罹っていて、虹採炎から両目に緑内障白内障を併発し視力は、0.001程で、完全失明寸前だった。『ユリシーズ』を刊行してからのパリ時代には夫人に手を引かれなければ歩けない程で、本を読むにも強力な拡大鏡を用いていた。ドイツ軍のパリ侵入で再びスイス・チューリッヒに逃れた時に数回眼の手術を受け成功しますが1941年にスイスで亡くなります。

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