ルー・リードの「Mind Tree」(2)- 詩人デルモア・シュワルツとの出会いと影響

父との断絶。「英文学」と「哲学」を専攻

▶(1)からの続き:19歳の時(1961年)、ルーはニューヨーク州の北部にあるシラキュース大学に入学します。ルーが専攻したのは、「英文学」と「哲学」でした。単純化できないにせよ、ルーの「マインド・ツリー(心の樹)」は、性的障害の治療とロックン・ロールの一時的な光のために、大きな「影」を投げかけるようになっていったにちがいありません。実利的な会計士だった父が長男に希むコースでなかったことは事実で、断絶した父に背を向けるような選択でした。しかし、この選択は、ルーに大きな影響を与えずにはおられませんでした。
「電気ショック療法」は、ルーのセクシャリティではなく、パーソナリティに深く影響していきました。事実、その療法はルーの性向を矯正することはできず、ルーは19歳の時はじめて男性と関係しています。その気でもないのにつきあっていたガールフレンドには罪悪感を抱いたといいます。結局、キャンパスでは自らのセクシャリティはあきらかにすることはありませんでした。

詩人のデルモア・シュワルツとの出会いと影響

ルーの「心の樹」は、アルベール・カミュの内省的でクールな散文を好むようになっていました。カミュの『異邦人』は、ルーの魂を、彼(か)の他の地へと誘いました。「心の樹」の影では、自己嫌悪と被害意識が入り交じり、イヨネスコらの不条理演劇や、瞬間のために生きることを理想としたフランスの実存主義、さらにはキルケゴール哲学やヘーゲル弁証法、そして遥か遠くギリシア哲学に触れさせもしました。
文学のコースでは、ラテン語、そしてシェイクスピアドストエフスキー、T.S.エリオットをはさみながらアメリカ現代小説を読みすすめていきました。そこでルーは、自身の「マインド・ツリー(心の樹)」に大きく影響を与える決定的な出会いをします。詩人・作家であり評論家のデルモア・シュワルツとの出会いです。後のルー・リードの楽曲の中に”自分自身”が表現されるのは、シュワルツから<自分自身について書く方法>を教えられたためでした。シュワルツの著した短篇は、自身は素のまま主人公とし、過去のエピソードをそこにプリントするような感覚でした。ルーはシュワルツから、自身の「樹液」や「魂」から詩を絞り出す姿勢や覚悟、ノウハウを伝授されたのです。それだけでなく、ネイティブ・アメリカンが得意とするうつろいやすい話法を詩のリズムにのせる方法も手ほどきされています。ルーが大学のアンソロジー用に詩を提出した数少ない学生の一人となったのは、ルーの詩の習作に付き合ったシュワルツの熱心な指導の賜物でした。シュワルツはルーにとって優れた「役割モデル」だったのです。

ジョイスの『ユリシーズ』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟

シュワルツはルーが誕生した20年余も前、当時20歳代半ばにして、詩人T.S.エリオットやエズラ・パウンド以来の才能が出現したと言われた程の若き天才詩人でした。ところがその栄光の文学的キャリアを自ら断ち、めぐりめぐってシラキュース大学の創作文学コースの講師となって最後の残り火を焚いていました。キャンパス外のバーに、20人程の弟子や生徒を引き連れ、ジェイムズ・ジョイスの創作の秘密や自身のプライベートな事などを話して聴かせています。
シュワルツは自著入りの詩集をルーに贈り、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を薦めています。後にルーが「僕がやりたいのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と同じレベルにあるロックン・ロールなんだ」と語ったのも、師シュワルツからの置き土産でした。師シュワルツは知り合ってから2年後に亡くなっていますが(48歳)、その2年間の体験はルーにとって生涯忘れえないものとなります。
ルーの楽曲では、歌詞にシンガーの体験や感覚がダイレクトに映しだされ、また結びつかないものが多くあります。それらはボブ・ディランやジョニー・ミッチェルらの楽曲とは異なっています。その理由の一つは、ドストエフスキーの小説の中で主人公が殺人を犯しその心理を描く様を、ポップ・ソングに持ち込んだために必然的に生じてきたことと(曲中の小説家という役割)、日常生活の中やストリートで、身の周りで起こったことに耳をそばだてそれを詩に描き込んだためでした(曲中のテープレコーダーという役割)。その際にルーが試みたのは、話し言葉をそのまま再現するのではなく、<話し言葉のように聞こえる何か>を曲の中に響きわたらせることでした。

ニューヨークのストリートを検証する

ルーお気に入りの作家ヒューバート・セルビー・ジュニア(代表作『ブルックリン最終出口』)は、ストリートの生の声をテープに録(と)り、編集し、タイプした斬新な作風として知られ、「テープレコーダー・リアリズム」と呼ばれていました。ニューヨークの下層階級の肉声やとりとめのない日常会話や卑語など、当時の猥雑なストリートの声は、多くのアーティストたちを刺激しはじめていました。ルーはティーンエイジャーのラブ・ソングに溢れていた音楽(歌詞)に、小説や映画、戯曲の世界ではすでに当たり前だった方法やテーマを、ポップ・ソングの中に持ち込んだのでした。ルーは後にヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムをつくるに際し、ニューヨークのストリートを検証し、マッピングしています。それは『ユリシーズ』や『ダブリン市民』でジェイムズ・ジョイスが、ダブリンの町を隈無く検証し作中に描き込んだ方法をルー流に咀嚼したものだったのです。ルーの代表曲「ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイド」もその延長にあります。▶(3)に続く-近日up