エドガー・アラン・ポーの「Mind Tree」(2)- 詩人としての魂が動きだす

14歳、「詩人」としての魂が起きだす

▶(1)からの続き:ポーは物語作家になる前に、運命的に「詩人」としての類い稀なる芽をだします。14歳の時、ポーは「詩人」としての生を受けたといわれています。その時、何が起こったのでしょう。学校で唯一の友人スタナードの家にポーが初めて行った時のことでした。彼の母親の美しく気品ある容姿に胸をうたれ、亡き母の面影が「幻視」され、何度か訪ねるうちにポーの「マインド・イメージ」に、スタナードの母と亡き母が溶け合って「水の妖精」と化すのでした。が、その母親もすでに病弱だったのです。翌年に死去し、ポーは慟哭します。ポーは毎日のように夫人の墓を訪れ、墓石を抱きしめながら霊魂に語りかけていたといいます。スタナード夫人の面影は、後に「ヘレンの君」という詩となっています。この時、ポーにとって詩とは、誰かの詩を読むものではなく、自身の魂の奥底から謳うものになったのです。「魂の詩人」の運命の幕が切って落とされました。

長編詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』を著したバイロンを崇拝

アメリカに戻ってきてからも義父アランの会社は経営不振が続きます。義父が自宅も売却した頃、折しも義父の叔父が死去、全財産がアランに遺され、再び義父は豪邸を購入し上流階級として振る舞いはじめます。アメリカはヨーロッパと異なり貴族階級がないため、お金のみが上流階級を生み出します。義父はポーを将来、外交官か行政官にさせようと、学校を退学させ家庭教師を雇い、ヴァージニア大学へ入学させる準備をします。そんな義父の思いは裏腹に、ポーの詩への想いはつのる一方でした。ポーは『チャイルド・ハロルドの巡礼』を著した詩人バイロンの熱烈な崇拝者になります。バイロンはポーの実父と同じくバイロンの父も失踪し、ポーが少し前に暮らした英国を彷徨した詩人でした。バイロンの憂愁と悲嘆は、ポーの魂に触れていたのです。テニスンの詩がそれに続き、さらにコールリッジ、グレイ、ミルトン、ドライデン、ゴールドスミスらの詩もポーを惹き付け詩的感性を深めていきます。ポーの住むリッチモンドは多くの文芸雑誌や文学書が流入してくる文化都市だったことも幸いしました。
もっともポーは詩ばかり読んでいたわけではありません。16歳の頃には、ポーは乗馬をこなしフリュートもロマンチックに奏でる姿から、<ヴァージニアの貴公子>と呼ばれるようになっていました。物静かな性格ではあったものの美少年だったポーは、リッチモンド若い女性たちのハートを射抜くことはわけもなかったようです。しかし実際には、その頃もポーの魂は憂愁と悲嘆の内にあり、近所に住んでいた美少女エルマイラ・ロイスターの存在がポーを救いだしたのです。2人は内緒で婚約までします。

古典文学、ドイツロマン派に入れ込んだ「笑わずの殿下」

入学したヴァージニア大学で、ポーは、ホメーロス、ツキディデス、ウェルギリウス、ヘシオドスら古典文学を学び、近代文学ではドイツ・ロマン派のホフマン、シュレーゲル、ノヴァーリスティーク、それにゲーテやシラーを読み込んでいきます。ギリシア語、ラテン語、フランス語はとくに優秀でした。ポーは図書館に足繁く通い、とくにシャルル・ロランの『古代史』や『ローマ史』、ボルテールの『異常な物語』に魅了されます。ポーの「マインド・ツリー(心の樹)」は、『チャイルド・ハロルドの巡礼』で学んだ孤絶の運命を芯にして、数多の詩や文学を養分として成長していきました。
当初はキャンパス・ライフは楽しいものだったようです。が、同室の者と喧嘩し独りで寮生活(しかも不吉の13号室)するようになってからは「笑わずの殿下」とあだ名され(外見は見栄から立派に装っていた。ポーの仏語翻訳者ボードレールもこれを継いでいる)、憂鬱さは濃くなっていきます。しかも恋人エルマイラに宛てたポーの手紙は彼女の父によって全て破り捨てられていて、別の男に嫁がせられていたのです。

アルコールとトランプ賭博で大借金、退学

ポーは陰鬱になった「心の樹」を外気に触れさそいと、近くの山へ度々散策しますが、外界の樹のように、自身の「心の樹」を静かに立てることはできません。愛を乞い死を恐れる「心の樹」は、ますます内壁を厚くし孤絶し、廃墟のような樹と化します。アルコールの一気飲みの味をおぼえたポーは、トランプ賭博(ルーやセブンナップ)にものめりこみます。義父からは充分な学資の送金がなく困窮しはじめ、学生生活は相当に追いつめられていきます。そして精神は錯乱しはじめます。授業にも向かわず、賭博でも負け続け、総額2000ドルもの借金にふくれあがっていました(入学金は60ドル)。とうとう義父の耳にも悪い噂が届き、ポーは学校を辞めます。賭博の負け分は自ら返済しなくてはならず、ポーは義父のエリス・アラン商会の会計の仕事をさせられます。

22歳の処女詩集『タマレーン、その他の詩』

衝動的に家出したポーはボストンへと放浪します。ボストンでは芝居小屋でしがない役者をやっていた噂もありますが、実際には詩を出版する印刷業者を探していたようです。その後、生活の糧を得るためエドガー=A・ペリーという偽名で米国陸軍に正式に入隊(ボストン港内の独立砦での職務)。その年の夏、19歳のカルヴィン・トマスと知り合い、22歳の時、14歳頃から書きためていた詩をまとめ、処女詩集『タマレーン、その他の詩』として出版しました。著者名は「一ボストン人」だけでした。
養母が亡くなりポーは一旦リッチモンドに帰郷。その折に義父アランはポーが希望していたウェスト・ポイント陸軍士官学校への入学を許可してくれます。入学までの待機期間中、ポーはボルチモアの今は亡き祖父ポー将軍の家に預けられた兄に会いに。しかしそこは貧民街で、兄ウィリアムがポー将軍の年老いた寝たきりの祖母とその娘マライア・クレム、彼女の子供でアル中患者のヘンリーとヴァージニア(後にポーの妻となる)と、陰惨な生活をしていました。肺結核を患っていた兄は骸骨のように痩せ細っていました(二年後に死去)。
ポーの第二詩集は、こんな時期に偶然にも出版されます。叔父が『ヤンキー・アンド・リテラリー・ガゼット』の主筆と知古で、叔父からその主筆に原稿が渡り論説欄で紹介され、最終的にボルチモアの出版社から『アル・アーラーフ、タマレーン、および小詩集』と題されて出版されました。「アル・アーラーフ」はデンマーク天文学者チコ・ブラーエが発見した星の名前です。天文学への関心がポーのうちに、まず詩としてあらわれました。

困窮、そしてウェスト・ポイント陸軍士官学校

またこの直後ウェスト・ポイント陸軍士官学校の入学試験に合格したポーを待ち受けていたのは、想像以上に厳しい軍事教練で、本の1冊も自室に持ち込むのは禁止されていました。朝6時起床、日が暮れるまで永遠と教練が続き、ポーは義務怠慢で軍法会議にかけられます。晴れて放校となったポーはニューヨークへ。ニューヨークにはウェスト・ポイント士官学校に出入りしていた出版業者エラム・ブリス社があり、ポーの詩才に関心を寄せていて、ことは運びポーの第三詩集を出版(印刷部数250)することになります。しかしまったく売れず評判にもなりませんでした。▶(3)につづく


◉少年期:Topics◉米国のリッチモンドに帰郷したポーは、「英語・古典学校」に通学(11歳の時)。オウィディウスカエサルホラティウスキケロらをラテン語で、ホメーロス、クセノフォンらをギリシア語で読みはじめている。ダブリン出身でアイルランド人の校長からはフランス語、ラテン語、朗読法と演説(スピーチ)を学ぶ。ポーの詩を読んだ校長は高く評価している。外国語の成績が抜群だったポーの苦手科目は数学と地理だった。少年期、ポーは友人もでき(けれども一人だけ)学校生活では活動的で元気な面もあったが、もの静かな面もあった。非社交的な性格はすでにあらわれていて、互いの家庭で夕食をともにするような付き合いは避けていた。

ヴァージニア大学とは◉当時アメリカ哲学協会会長でもあり、科学者、建築家、政治思想家でもあった米国大統領ジェファーソンが肝入りで創設した大学。当時は新設大学だったので、経済的裏付けがあれば誰でも入学可能だった。ポーが入学した年の入学者数は177人だった。ポーは古典語のギリシア語とラテン語、近代語としてフランス語とドイツ語、イタリア語、スペイン語も学ぶ一方、古代地理、美文学、修辞学を受講した。学生の自主的研究や学科の自由選択が標榜され、米国大統領ジェファーソンはこの大学に学者を養成するだけでなく民主主義を理想とする国家の基礎になるものを求めた。