スタンリー・キューブリックの「Mind Tree」(3)- 取り憑かれる気質と「カメラの動き」


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エイゼンシュテインの映画理論と撮影技術との出会い

▶(2)からの続き:「ルック」誌(オフィスは五番街にあった)の編集部は、夜間学校へ通い励むキューブリックを見込み、日中できる仕事を依頼します。キューブリックは編集助手として戸外で必要な写真を撮影するようになりました。こうして写真について実践的なことを多く学んでいたキューブリックに、第二の「映画」との出会いが。写真部のテクニカル・ディレクターだったアーサー・ロスタインが滅法映画が好きで、ロスタインは若きキューブリックに収集していた映画の本を貸し与えました。そのなかにセルゲイ・エイゼンシュテインの映画理論と撮影技術に関する書籍があったのです。
キューブリックの映画への思いは、理論と撮影技術の知識に裏打ちされ、映画製作は「マインド・イメージ」に完全に映し込まれるようになります。仕事でペアを組んでいたスコロートに自分は将来映画を製作をすると打ち明けていたことからもそれはわかります。その時スコロートはキューブリックは映画監督をするようなタイプではないと感じ、あまり気にもしなかったと後に打ち明けています。キューブリックは、物静かで、体つきも細く、オーソン・ウェルズジョン・フォードといったハリウッド映画の監督のイメージとはあまりにもかけ離れていたためでした。グラフ・ジャーナリズムの世界ですら、キューブリックは大人しすぎ、謙虚にすぎるとおもわれていて、そんな青年がどのように映画の道を切り開いていくのか、誰にも予感できなかったにちがいありません。ほどなくするとキューブリックの映画への夢は「ルック」誌のスタッフに知れ渡っていました。
その一方、キューブリックは長年憧れていた飛行への夢を実現するため、自家用飛行操縦士免許を取得しています(19歳)。キューブリックはこうだと照準を決めたら持続的、継続的にやり抜いていく資質をもっていることは、この免許取得の一件からも推測できます。同じように、キューブリックは「ルック」誌の給料の一部を映画製作の資金にしようと貯金しもしています。

「取り憑かれる気質」

キューブリックには何かに「取り憑かれる気質」があるようです。映画「アレクサンドル・ネフスキー」(1938製作)を見た時、あるシーンで流されていたプロコフィエフの音楽の虜になり、サウンドトラックを買ったことがありました。キューブリックは一日何十回と、同じ曲をかけ続け、ついに妹のバーバラが怒り狂ってしまったことがあります。実際、バーバラは我慢ならずそのレコードを壊しています。また古典文学作品の筋書きを寄せ集めた本をいつも持ち歩いていた時なども、ドストエフスキーに取り憑かれ、ブロードウェイで行き交う人に唐突に「ドストエフスキーをどう思う?」と少し狂ってるほどの感じで喋りかけていたそうです。
22歳(1950年)の時、キューブリックは「ルック」誌のフォトジャーナリストを”卒業”します。キューブリックは、ニューヨーク芸術映画専門の映画館やニューヨーク近代美術館MoMA)の映画上映会、実験映画を上映するシネマ16などを絶えず訪れ映画を観ています。この頃、映画製作のための教育機関はまだ設立されておらず、映画プロダクションが東海岸のニューヨークに本拠地を置くこともまだほとんどない頃でした。しかし、キューブリックが映画製作者になろうという夢はゆるぎませんでした。キューブリックは独学で映画製作を学ぼうと決心しています。

「映画カメラマン」からスタート

キューブリックは高校時代にハーマン先生から共に映画を教えられたシンガーと、映画製作にむけて共闘することになります。その頃シンガーは、ニュース映画「ザ・マーチ・オブ・タイム」を製作するタイム社で雑用係として働きはじめていました。シンガーに刺激を受けつつキューブリック、2人で「短編映画」をつくりはじめます。役割分担はシンガーが監督で、キューブリックが映画カメラマンでした。写真撮影の技術をもち、映画カメラのノウハウを得ていたキューブリックは、映画監督ではなく「映画カメラマン」からスタートしたのです。
この頃、キューブリックの夢は、「映画製作」であって、「映画監督」ではなかったのです。「映画監督」が、撮影の指示を出し、編集作業もし、映画に対して全権をもつことができるとわかったのは、すべてシンガーを通して、シンガーが「役割モデル」となり、触媒となったからでした。そこではじめてキューブリックは、自分がめざそうとしているのが「映画監督」だということを認識したのです。

あてがはずれたスポーツ短篇映画

ニュース映画会社に勤めていたシンガーが、映画製作コストについて調べあげると、キューブリックは同レベルのニュース映画をかなり安く製作できる感触をつかみます。キューブリックは、「ルック」誌時代に取材したミドル級ボクサーのヴィンセント兄弟の日常と試合直前の表情を撮ったスポーツ短篇映画「試合の日」を製作しました。35ミリのモノクロ・フィルムを100フィート撮影できるカメラのアイモを使用したキューブリックは監督、カメラマン、編集者、音響担当とすべてをこなしました。音楽は近所に住む高校の友人で、ジュリアード音楽院の学生ジェラルドに依頼、19人ものミュージシャンが参加しスタジオ録音をしています。ナレーションにはCBSのベテラン・ニュースキャスターを起用する念のいれようでした。それもこれも数万ドルは稼ぎだせるとはじいたキューブリックの読みがあったからです。ところがまったくあてが外れてしまったのです。スポーツ短篇映画はこの当時まだ売買の埒外で、滑稽なボードビルの企画ものしか売れない時代だったのです。
しかし、1951年(23歳の時)、RKOが「これがアメリカだ」のシリーズの1篇として、「試合の日」をニューヨークの有名なパラマウント劇場にかけました。同時上映されたのはロバート・ミッチャム主演の新作映画「禁じられた過去」でした。こうしてキューブリックは映画の世界に身を投じていきました。数万ドルの稼ぎは夢のままに終わったものの、この第一歩がなくては、キューブリックの映画監督としての将来もまたなかったはずです。

若き映画プロデューサーとのタッグ

そんなキューブリックの才能をプロデュースする人物があらわれます。ただまだこの頃には、その人物は、朝鮮戦争で、写真部隊に所属していました。朝鮮戦争に通信隊に配属されていたシンガーが出会ったジェームズ・ハリスという若者でした。シンガーとハリスは一緒に軍事訓練用の映画をつくったり、余暇には15分ものの探偵映画をつくっていました。ある時、シンガーがキューブリックの存在と才能をハリスに話しました。写真部隊に派遣される前に、ハリスは兄弟や仲間たちと映画とテレビを配給するフラミンゴ・フィルムズという小さなベンチャー会社を立ち上げていました。退役後、ハリスはキューブリックの作品を観て、その才能と洞察力に惚れ込みます。ハリスはキューブリックにチームを組もうと提案。キューブリックが映画監督として、そしてハリスがプロデューサーとして。キューブリックとハリスはお互いの共通点を認識します。ともに獅子座で、野心に溢れ、度胸を持ち、自信家で、成功への強い意志をもっていることでした。そしてここに「ハリス=キューブリック映画会社」が誕生しました。シンガーは共同製作者としてかかわっていきます。美術監督は、キューブリック(すでに結婚していた)の妻ルースが担当していきます。ルースはカーネギー工科大学で舞台美術を学び、ニューヨーク・シティ・バレエ団など、劇やバレエの舞台デザイナーとして活動していました。

魅了された「カメラの動き」

少年期からキューブリックが「写真」に好奇心を抱いたこと、そして高校時代に美術教師から「映画」への関心を呼び起こされたこと、この両者に共通しているのは人間の目ではなく、「カメラ」の目がとらえた世界、「技術的可能世界」への関心でした。キューブリックは、脚本よりも(当初から「本」を探すのはプロデューサーのハリスの役割だった)、「カメラ」の動きや、新しい「装置」を考えだすことに関心を注ぎ、取り憑かれていきます。空中の中をあたかも浮遊するような、滑走するような視線、優雅でなめらかな映像を実現するために、リールを初めて使用したカメラを用いたのもキューブリックでした。キューブリックが、つねに魅了されたのは「カメラの動き」だったのです。それは映画撮影の革命となっていきました。少年時代にキューブリック少年を虜にしたのも、写真撮影に付帯していた「カメラの動き」だったのかもしれません。

・参照文献『映画監督スタンリー・キューブリック晶文社 ヴィンセント・ロブロット著(浜野保樹・櫻井英里子訳)