カート・コバーンの「Mind Tree」(4)- 町中の壁にグラフィティを書きなぐった。ニルヴァーナ誕生へ


「Mind Tree」(3)と(4)が逆になっています。
 この上に(3)があります。

街中の壁にグラフィティを書きなぐる

▶(3)からの続き:この頃、カートはバンド以外ですでに地元の顔になっていました。少年の頃、絵がうまかったカートだっただけに、銀行の建物などアバディーン中の腹のたつ壁はすべて、カートにとって白いキャンバスになっていたのです。カートは誰よりもうまくグラフィティを書きなぐっていました。ドジをふんで捕まったカートは、30日の執行猶予付きの刑と罰金180ドルをくらい、いったん優しいお兄さんになります。YMCAのアバディーン支部の管理人や子供の水泳教室のインストラクターとして働いています。しかし音楽を中断してしまったこともあいまって、情緒的に不安的になり、ヘロインに手をつけはじめてしまいます。反射的な神経病のチック症状(体がピクッと動く)がではじめたのもこの頃です。

古家で亀と暮らす

危険を察知した母は、小さな古家を借りてカートを住まわせます(母はタフ・ラブ・プログラムを学びカートに厳しく対していたが、それを断念する)。古家でカートは水槽に入れた亀とともに暮らしはじめます。しかし音楽こそ、カートにとって最良の治療でした。再びクリスと集まり練習を再開しはじめると、スイッチが入ったようにカートの中で何かが大きく動きはじめました。カートはワシントン州の州都オリンピアに出掛けて行って新しいバンドのだす生音を熱心に聴きはじめます。ラジオ局KAOSが流す曲を聴いたり、音楽ファンジン「オプション」誌を隅から隅まで読みだしたのもこの頃です。カートの夢はかたちをとりはじめ、一番人気のレーベル「K」からレコードをリリースすることとなります。

曲「ラブ・バズ」が生まれる。「ニルヴァーナ」誕生

カートとクリスが組んだバンド「セル・アウト」では、カートはドラムでした。けれどもベースマンとカートが喧嘩しすぐに解散。カートとクリスは再度バンドを組みます。今度はカートがギターとヴォーカルで、アーロン・バークハードが加わります。そのかたちがカートの中にあった「マインド・イメージ」とピタッとはまります。ニルヴァーナの最初のシングル「ラブ・バズ」(アレンジ曲)や「スパンク・スルー」「フロイド・ザ・リバー」「エアロ・ツェッペリン」「ジプシーズ・トランプス・アンド・シーヴズ」はこの時に誕生しました。バンド名の方は何度も変更し、ようやく「ニルヴァーナ」におちつきました。
もっとも古屋の方は、家賃不払いで追い出され、恋人になったトレーシーのワンルーム・アパートに転がり込みます。古道具屋で安物の家具や透明な人体解剖プラモデル、タブロイド紙からカートが切り抜いた記事を貼り付けたシュールな絵や聖像、虫の死骸、医学書の切り抜き写真で埋めつくされた。カートのペットのようになっていたプラスチックの猿、猫や鼠、兎、それに仲良しの亀も一緒だった。

バンドのメンバーへの給料は、麻酔剤の亜酸化窒素だった

この頃、ノース・ウェストでかなり定期的にギグしはじめています。バークハードが辞めデイル・クローヴァーが参加。歯科医院の掃除夫として働きながら、カートは医院から麻酔剤の亜酸化窒素をこっそり手に入れ、バンドのメンバーにレコーディング・セッションの給料として支払っていました。新たなデモ・テープはカートが思いつくかぎりのインディペンデント・レーベルに郵送されたり知り合いを通じてまわされます。C/Zレーベルがニルヴァーナの最初の曲をシリーズ企画ものに入れました。バンドのメンバーが入れ替わり立ち代わりしながらも、地方の「バックラッシュ」誌の編集者がニルヴァーナについての最初の記事を書きます。するとサブポップのスタッフが何度もニルヴァーナを見に足を運び、シングルの打診をしてきました。オリジナル曲でなくクリスが好きだったショッキング・ブルーの曲「ラブ・バズ」のアレンジでシングルをという要請だったため、当初は反対しましたが結局、妥協しレコーディングすることになります。ニルヴァーナのバンド活動が忙しくなっていくのはこの頃からです。

「人間関係」を築くすぐれたレッスン

カート22歳(1989)の時、ニルヴァーナとして初めてイギリスでライブをおこないました。ライブは、次いでベルリン、スイス(カートが病気でキャンセル)、ローマでおこなわれましたが、カートの神経は破壊寸前になり、もうバンド活動を辞めると泣きだしてしまいます。カートは演出としてギターを壊すのではなく、怒りと不満から楽器を壊すようになっていきます。カートは仲間にくだくだ注文をつけるタイプだったこともあり、ドラマーとはうまくいかなくなり、ハードコア・バンドのスクリームからデイブ・グルールがドラマーとして迎え入れられています。が、これが功を奏します。経緯(いきさつ)でデイブはカートのアパートに住むことになります。この共同生活が、カートにとって「人間関係」を築くすぐれたレッスンになったのです。
病的なほど内向的になってしまっていたカートが、自分の殻から(カートと亀の共同生活から)這い出した時、折しも、ニルヴァーナはゲフィン・レコードと結ぶことになりました。大手キャピトルは3倍もの1億円以上の契約金を提示しましたが、ニルヴァーナは仲間のソニック・ユースが交わした契約事項(バンドが干渉を受けないで活動ができる契約)を選んだのです。
また一方で、カートは冷静でした。10年余前の70年代後半、燃え上がったパンク・バンドが、あっという間に砕け散ったことは脳裏に刻まれてもいたのです。レコードのあり方、曲の打ち出し方にも、カートは考えをもっていました。それは新しいサウンドは、もはや一枚のアルバムではなく、4分以内のサウンドであらわさなければならないというものでした。つまり「シングル」こそバンドのコアのスピリットを映し出すもので、アルバムはもはやその一曲をあれこれ<言い直したもの>に過ぎない、という考え方でした。トータルな「アルバム」指向から、エッセンスの「シングル」指向を時代の空気としてカートは感じ取っていたのです。

シングルの時代「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット

シングル曲「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は、まさにニルヴァーナのエッセンスを映し出した曲でした。この曲がラジオ局でかかりはじめると火がつきました。あちこちのラジオ局でこの1曲だけがエコーのように何度も何度も流されました。そしてMTVがそのエコーを津波のように増幅させたのです。シングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は、ジャンルを超越し、しかもそれを包括する力があったといわれていわれています。ジャンルを越え、境界線を消し去った曲でした。それはカートの「マインド・ツリー(心の樹)」のあり様そのままでした。幼少に、少年期に、そして青年期に聴いていた音楽が、カートのなかで響き合い、溶け合っていたといっていいかもしれません。
スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は、オルタナティブ・ロックのラジオ局だけでなく、メタル・ロック、ハード・ロックの局でも流されつづけました。それは前代未聞のことでした。2枚目のアルバム『ネヴァーマインド』は発売されると地球規模で爆発的に売れ出し、マイケル・ジャクソンの最新アルバム『デンジャラス』を抜き去って一位に踊りでて、成層圏に突入するほどの勢いでした。しかし、リアルでデンジャラスなことが、その後(5年後)にカートの身に起こったのをわれわれは知っています。