ジェイムズ・ジョイスの「Mind Tree」(2)-「エピファニー」を記録しはじめる


語学学校「ベルリッツ」で仕事を得るために向かった町トリエステ

『ダブリン市民』に映し込んだ少年期から成年期

▶(1)から続く:ジョイスの”樹”は、1902年(20歳)にパリに留学(脱出)するまで、自身にとって醜悪で鬱陶しい”土壌”と”水”と”空気”と”光”のなかに「根」をいっけん張りながら、自身の体のように痩せた幹を少しばかり伸ばし、来る日にはいつでも、「根」ごと(しかも周りについた土をすべて払い落として)別の土壌に移植できるのを満を持して待っていました。ジョイスのその自覚において凄いのは、そのまんじりともしない鬱陶しい状況を、自身の魂に映しだし(彼はそれを『若い芸術家の肖像』として仕立てあげました)、その過程を作品にしてしまったことです。要するに、成年期や晩年に自身の「心の樹」の重要性に気づいて、それを分厚い作品に映し込み、自身の「樹」を残そうとする他の多くの作家やアーチストと異なり、ジョイスは21歳から24歳までの期間を、自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の描出に費やしたのです。短編小説集『ダブリン市民』には、ジョイスの両親から知人、知り合いや接触のあった人々があちこちに登場し、掲載された15篇は、幼年期(感覚の萌芽)、少年期(恐れの感覚)、思春期(性欲と信仰)、成年期(美学の確立)、社会生活(芸術家といしての意識の自覚)と、「心の樹」、そして「魂の成長」が順をおって描き込まれることになりました。ダブリンの土壌から、自身の”根っ子”、その根離れと根腐れさ、そして醜悪な土壌から痩せた幹ができる過程が白日の下に曝けだされたのです。

パリ時代、食うや食わずのどん底生活

1902年秋、ジョイスはやむにやまれない気分でパリへ脱出します。医学の勉強をしようという志望は早々と断念させられます。入学資格か金銭的な問題が生じたようです。そしてお決まりのコースでカルチェ・ラタンへ。生活は逼迫しだし、放浪生活が待ち受けていました。食うや食わずの毎日、一日中(時に2日間続けて)食べ物にありつけないこともよくあったようです。借金も嵩んでいきました。このどん底暮らしの最中にも、アリストテレストマス・アクィナスの「美をすべての芸術の究極」とする芸術至上主義の理論や、エリザベス朝期の詩人ベン・ジョンソンを耽読し詩法を学んでいました。

エピファニー(精神的顕示)」をインスピレーションに変換

ジョイスにとってパリでの生活は精神の旅であり、それ以外は思案の他だったのです。後の処女詩集『室内楽』はどん底に咲いた花でした。不屈の知的意志はさらに研ぎ澄まされます。スケッチ風の短い散文を書くようになったのもこの最初のパリ時代からでした。その散文は、時々やってくるつかの間の精神的顕示である「エピファニー」を書き留めたものでした。「エピファニー」とはもともと宗教上の言葉で「キリストの降臨」を意味し、何か神聖で、超自然的存在の出現や顕われを示すようになった言葉です。16歳でカトリックの信仰を捨てたジョイスに起こったのは、時折、突然沸き起こる宗教的ともいえる高揚感を、「インスピレーション」として文学の創造に変換したのです。「エピファニー」が起こる契機に対象がある場合は、その対象は「エピファニー化」され、ジョイスの言葉に置き換えられました。もし、ジョイスがその時「写真」をよくしていれば、「写真」を撮り、その対象を「エピファニー化」しえたにちがいありません。パリではちょうど同じ頃、舞台役者から身を引いたウジェーヌ・アジェがパリの路上を歩きまわっては、遺物ともいえるひと時代前の物や場所に「エピファニー」を感受して撮影していたのですから。ただジョイスの場合は、目の前をぐるぐる動く町の人々や、彼らの暮らしやその集合体の社会に対する冷厳な観察者であったからこそ、「エピファニー」は文学に移されたのでした。しかも対象が放つ醜悪さや嫌悪を原資にした「エピファニー」は、アッジェの視線とはまるで異なるものだったのです。ジョイスの著作がそうしたジョイスならではの魂と共振した「エピファニー」の大伽藍で出来上がっているからこそそれを読む他者には極めて難解なものにならざるをえなかったのです。
ダブリン時代にすでに「観察者」だったジョイスは、パリを体験することによって「冷厳な観察者ジョイス」になっていきました。ジョイスの「マインド・ツリー」は、樹皮や一様一葉すべてが「眼」となり、何事も見逃さない「観察する樹」となります。その観察すべてが養分となりジョイスの「心の樹」を精緻に成長させていったといえるでしょう。

客観的な熟視がはじまり、創作へ

半年後、母危篤の電報を受け、急遽ダブリンに帰国します。母は半年後に亡くなりました。その間医学生の友人と共同生活しながら、「ゴブリン」という新聞の発行を企てたり郊外の小学校の教師をしたり音楽コンクールに出場したりしましたが、「檻の中」へ押し込められたような精神的緊張から再びダブリンをうろつき回り、毎晩ウィスキーで泥酔す時に娼婦も買ったりしていたようです。『ユリシーズ』の冒頭に描かれている海岸に建つマーテロ塔に悪友のオリヴァー・ゴウガティーと寝泊まりしたのもこの頃でした。ただ、ダブリンの町とダブリン市民を客観的な視線で深く隅から隅までを熟視することができたのもこの時期だったのです。芸術の都パリを体験することで、さらに深くダブリンを熟視する眼が養われていたのです。その眼を通して、ダブリンが「知的麻痺(intellectual paralysis)」に罹っていることがはっきりし、その様相をダブリン市民に暴露し分からせようと企てました。ジョイスは早速に創作にとりかかりました。すでに書きためた叙情詩をまとめると、2篇の短編を書き『アイリッシュ・ホームステッド』に売り、さらに自叙伝的長編『スティーブン・ヒアロウ』に着手しました。

◉青年・成年期:Topics◉「エピファニー」とは、宗教的な意味では、キリストの降臨を意味しますが、何か神聖で、超自然的存在の出現と顕示を指します。ジョイスは『スティーブン・ヒアロウ』の中に、その様子を記しています。「その突然の到来は精妙にして束の間のものなので、極度の注意深さでエピファニーを記録することが文学者の役目である」と語ります。ジョイス最初の著作となった詩集『室内楽』は、1904年にパリに向かう前にW.B.イェイツ(ジョイスはイェイツの作品をイタリア語に翻訳もしている。個人的には良い関係だった)に紹介してもらったアーサー・シモンズに原稿を送りつけ出版の依頼をしていたものだった。実際にはあまり売れず(509部)、稿料は一銭もでなかった。『室内楽』は、天地万物の音楽が満ちているという音楽的ヴィジョンに満ちていて、「地球と空中の弦は美しい音楽をつくりだす」と最初の詩ははじまる。ジョイスは1927年に第2詩集『ポウムズ・ペニーイーチ』を出している。●ジョイスに影響を与えた作家:強い影響を及ぼした筆頭の作家はシェイクスピアで、次いでウィリアム・ブレイク(あらゆるささやかなものの中にひらめきと象徴を見る精神と方法)、スウィフト(人間に対する苦々しい風刺精神。もともとジョイスに近いものがある)、そしてフロベールのリアリズムの『ダブリン市民』への影響がある。

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