美空ひばりの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 横浜・磯子区の「屋根なし市場」に生まれる。「歌声」は父と「山谷」に暮らす祖母から継ぐ。3歳で「小倉百人一首」をほぼ暗誦


はじめに:「昭和」のシンボル、その根源へ

日本歌謡史上最大のスターであり、「昭和」そのもののシンボル「美空ひばり」。「美空ひばり」は、まさに「昭和」が終焉した1989年に、名曲『川の流れのように』を発表したその年(前年に東京ドームで「不死鳥コンサート」開催)、「昭和」の道連れのように没しています。生涯通算のレコーディング曲が約1500曲(オリジナル517曲。ちなみにビートルズの公式発表曲数は213曲)、158本の映画に出演、全国津々浦々を巡った数多くの公演に、歌舞伎座への出演や「美空ひばり劇場」など数多くのTV番組への出演。女性として初めて「国民栄誉賞」の受賞。平成の世になっても「美空ひばり」は、”歌謡曲史上の奇跡”として語られるだけでなく、日本人の”魂振り”をする存在でありつづけています。
横浜・磯子区の「屋根なし市場」の小さな魚屋に生まれた加藤和枝が、どのように世紀の歌姫「美空ひばり」になったのか。また「美空ひばり」はどのようにして、終戦後の多くの日本人の心情と共振できる存在となりえたのでしょう。
美空ひばり」という巨大樹は、<一卵性双生児>と言われた母との一蓮托生の関係だけでなく、巨きな縄文杉の如く、その根を日本の大地に下し、その幼少期に驚くべきほどに「日本」の調べと歌謡を「耳」で吸収していたのです。3歳にしてほとんどの「小倉百人一首」を暗誦していたといわれ、「美空ひばり」の遥かな水源になっています。
それでは一緒に「美空ひばり」の”昭和の奇跡”ともいわれる<才能>が、どのようにひとりの小さな女の子に「発現」したのかみてみましょう。

横浜・磯子区、「屋根なし市場」にある魚屋「魚増」に生まれる

美空ひばり(本名:加藤和枝;以下、幼少時も「ひばり」と記す)は、昭和12年(1937年)、5月29日に、横浜市磯子区滝頭町で生まれています。父・加藤増吉が「魚増」という魚屋を営みだして3年目のことでした。ひばりが生まれて2カ月後に盧溝橋事件を引き金に日中戦争が勃発しますが、まだこの頃は、4年後にハワイ真珠湾攻撃を起こし、そのわずか数年後、東京と同様、横浜一帯も焦土と化し、広い青空が炎で赤黒く焼け焦げてしまおうとは、まだ誰にも想像しえない時期でした。
魚屋「魚増」は、滝頭にある「屋根なし市場」にありました。増吉が故郷の栃木県の河内郡豊岡村という農村から出てきた頃には、滝頭のある磯子一帯はまだ埋め立ての新開地でした(大正2年完成。市営の魚市場や刑務所も建てられた)。16歳の時、海のない栃木から東京を越え潮の香り漂う横浜市の南、磯子区くんだりまではるばる来たのは、大きな海が好きだったのかも知れません。ただ磯子区まで流れていく前に、ボクシングにいれこんでいます。アマチュアのボクシング・チャンピオンになったほどです。その一方で、お洒落好にも気を配り、ギターを弾け、唄がなんともうまかったといいます。
そんな増吉は、巡り巡って磯子区滝頭にある魚屋「山新」に奉公するようになり、6年後に暖簾分けしてもらっています。「屋根なし市場」で増吉は、男前と気風(きっぷ)のよさで知られ、町内会のちょっとした芸人で、人気者でした(ふだんは大人しい性格で無口ですが、お酒が入ると賑やかになるタイプ)。市場でいちばんの道楽者の増吉は、ギターを手にすれば花柳で身につけた都々逸や端唄を玄人なみの節まわしで唄えたといいます。そんな増吉が自らの城「魚増」をもった翌年(23歳の時)、遠い親戚筋にあたる諏訪喜美枝(本名:諏訪キミ)と見合いで結婚。この喜美枝が増吉の芸魂に輪をかけて唄と芸事が大好きな女性だったのです。「美空ひばり」が誕生する前から、滝頭庶民に愛された「屋根なし市場」には、唄とちょっとした芸事で横溢していたのです(魚屋「魚増」は、清水次郎長親分の増吉を先頭に、店の若い衆は、増吉に森の石松や小政と呼ばれていました)。

美空ひばり」の「歌声」は、父と「山谷」に住んでいた祖母からの遺伝

その「屋根なし市場」は、遥々、東京下町、「山谷」(荒川区南千住)の生粋の江戸っ子気質(かたぎ)と関東平野を貫いて(あるいは荒川から東京湾へと流れ込む<川の流れのように>)、その”根底”でつながるのです。母となる諏訪喜美枝の実家は山谷にあり、石炭卸商を生業にしていました。この「山谷」こそ、あまり語られることはありませんが、「美空ひばり」の気風(きっぷ)と「歌声」の大きな源流の一つになっている場所なのです。「美空ひばり」の「歌声」は、父・増吉と、「山谷」に暮らしていた母方の祖母・諏訪シサから受け継いでいる、と言われています(『ひばり伝ー蒼穹流謫』齋藤慎爾 講談社)。関東の農村出で魚屋で働く威勢のいい「声」と、東京下町の気風のいい「声」が二重に重なったのが「美空ひばり」の「歌声」なのです。
ひばりと母は、よく<一卵性親子>とまで言われたがために、とかく唄と芸事が大好きだった母・喜美枝との一蓮托生的関係に焦点が向きやすいのですが、「美空ひばり」とは、じつは相当の<複合樹>なのです。そして、その大樹を育んだ土壌が、滝頭であり、その”根”は遠く「山谷」やその界隈にまでつながっているのです。
「山谷」とは、喜美枝が生まれ育った土地であり、「美空ひばり」の「歌声」に”隔世遺伝”した母方の祖母・諏訪シサが暮らした土地でした。祖母シサは浪花節が好きで歌もうまかったといいます。なにより「歌声」が素晴らしかったといわれています。また歌好きだっただけでなく、喜美枝ら子供たちを連れて浅草や向島にある「劇場」によく出向いたようです。劇場では歌と芸が繰りだされる浪花興行がかかっていました。ひばりが幼い頃に覚えた「唄入り観音経」(歌い手・三門博ーみかどひろし)は、祖母シサがもっていたレコードを何度も聴いているうちに覚えたものでした。

祖母も母も唄や芸事が大好きだった。レコードやブロマイド集め

喜美枝がそんな母シサから影響を受けないわけがありません。喜美枝は小遣いのほとんどをレコードに費やし、とくに藤山一郎の「影を慕いて」や佐藤千夜子の「東京行進曲」は擦り切れるほど聴いたそうです。歌と同様、母・喜美枝は芸事も大好きで(ひばりは生涯で、168本の映画に出演している。母・子ともども芸事も大好きだった)、少女の頃からブロマイド集めにはまっていました。ポンポン船にのってきまって向う先は、浅草にあるブロマイド専門店・マルベル堂でした。ブロマイド集めのきっかけは、映画「稚児の剣法」で林長二郎(後の長谷川一夫)にぞっこんになったからで、なんと母の二枚目好みもひばりは受け継ぐのです(ひばりの結婚相手は、日活の二枚目人気スター小林旭。2年後に離婚。事実婚で、戸籍上はひばりは生涯独身)。

3歳の時、「小倉百人一首」のほとんどを暗誦できた

ひばりが覚えた最初の歌は、「小倉百人一首」の七五調の句だったといいます。満3歳の冬(1940年)には、百句のほとんどを節をつけて諳(そら)んじることができたといいます。このことが世に言う「ひばり神話」の出発点になっています。まだ文字は読めず、意味はわからないままに、すべてを「耳」で覚えていたのです。この頃、父・増吉が音頭をとって、皆を集めてよくカルタ会を開いていました。皇紀2600年の式典の年でもあり復古調の空気が漂っていましたが(翌年12月に真珠湾攻撃)、百人一首は父の趣味でもあり、誰よりも早くカルタを取ることができたといいます。大人よりも格段に「耳」からの覚えが優れていることに気づいた父は、ひばりに民謡や流行歌を玄人はだしの節まわしで、<口うつし>に教え込んでいったといいます。浪曲、端唄や都々逸(どどいつ)、それにギター演奏も、父の道楽でもあり、魚屋「魚増」は、いつも歌に満ち溢れていました。母がひばりと二人三脚になる前は、父の方がひばりの天分を「発見」し促していたのです。ひばりが母や祖母のレコードを聴くようになるまでは、父からの<口うつし>だったことが、「美空ひばり」の「耳」を深く養い、またその「歌声」に父の「声」が混じっているといわれる所以でもあります。

敗戦後、父は海軍の軍楽隊の楽器の払い下げを入手し、「青空楽団」を結成

太平洋戦争が勃発し、父が出征して家からいなくなったことで、ひばりにとって母がすべてとなっていきました。母は女手ひとつで、「魚増」とひばりを筆頭にした4人の子供たち(勢津子、益夫、武彦)を守りぬいたのです。店をいったん廃業すると再び営業認可がおりないため(戦時下の政令)、朝は子供たちを連れリヤカーで仕入れに奔走し、空襲時には母子5人、裏庭に掘った小さな防空壕にもぐりこむのでした。ひばりの「心の樹」に、修羅場を懸命に生き抜く母の姿と希みが、強く深く刻み込まれました。まるで母の「心の樹」が、焼夷弾の照明で、ひばりの心に「転写」されたかのように。
打ち続く空爆と猛火で、横浜も磯子一帯も焦土と化すなか、「屋根なし市場」はおそらく屋根が無かったことが幸いし焼け残ります。「屋根なし市場」がもし焼け残らなかったとしたら、「美空ひばり」は異なる人生を歩んでいたかもしれません。復員し奇跡的に焼け残った我が家に戻った父は、日本海軍の軍楽隊から大太鼓、小太鼓、クラリネット、トランペットが払い下げられることを聞きつけます。配給の魚を横流ししお金をつくり、手に入れれるだけ安く買い取ったのです。町内の音楽好きの青年を集め、楽団をつくるためでした(酒匂正という若いギター弾きをリーダーにした)。その楽団に「青空楽団」という名前を付けました。文字通り戦火が去った青空の下、「屋根なし市場」で結成された素人楽団が、初演奏を皆の前で披露したのは、敗戦の翌月(1945年9月8日)、滝頭の町内演芸会でのことでした。そしてそのステージに、8歳になった「ひばり」がいたのです。
▶(2)に続く-未
参考書籍:『ひばり伝ー蒼穹流謫』齋藤慎爾 講談社/『完本 美空ひばり竹中労 ちくま文庫/『姉・美空ひばりと私』佐藤勢津子 講談社

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