YOSHIKI(X JAPAN/Violet UK)の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 4歳で「ピアノ」を弾きたいと言い出す。長期の喘息入院中、ベッドの上で父が持参した「偉人伝」を飽かず読む。ベートーヴェンが佳樹の「英雄」に


人気ブログランキングへ

はじめに:「YOSHIKI」の「荒魂」と「和魂」

X JAPAN」のリーダーにして、プロデューサー、ドラマー、ピアニスト、作詞・作曲家として、また自身のプロジェクトViolet UKのリーダーとして、平成11年に催された「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の奉祝曲や、愛知万博の公式イメージソングの制作、またS.K.I.N.やV2、glove extremeなどのスーパーグループやユニットの結成と活動、米国グラミー賞投票権をもつ一方、さまざまな遺児救済活動や「YOSHIKI基金」など、「音楽」を通じたYOSHIKIの活動、そして遺児たちへの支援活動は多面的にわたっています。ハードロックやヘヴィメタルから、ジャズのインプロビゼーション音楽理論クラシック音楽オーケストレーションへと、やむことのない音楽への探求。そして「荒魂」と「和魂」をあわせもったようなその双面と、そのリーダーシップとマルチレヴェルな音楽能力。
YOSHIKI」の「マインド・ツリー(心の樹)」は、いったいどうなっているのでしょう。今回は、闘争的で破壊的な阿修羅の腕の如き過激なドラミングと(「荒魂」)と、美しい旋律を奏でるピアニストの如来の如き運指ータッチ(「和魂」)が、どのように「YOSHIKI」という一人の人間から繰り出されるのか、以前から不思議におもっていたこともあり、「マインド・ツリー(心の樹)」のアプローチをかけてみました。伝記本『YOSHIKI/佳樹』小松成美 角川書店 2009年刊)などをご覧になった方はおよそ通じてられることかもしれませんが、あらためて拙文を読んで頂くと、いかに「林佳樹」としての幼少期の環境と出来事、体験、記憶が、その後の「YOSHIKI」を生み出す源泉になったかがみてとれるとおもいます。頸椎椎間板ヘルニアや神経循環無力症を発症しても、「諦めない」スピリットは何処からきているのか。「YOSHIKI」の内には、「心の樹」として幼少期の「林佳樹」が宿っているのです。「林佳樹」とはどんな子供だったのか。「佳樹」の「心の樹」はどんな姿形をしていたのか、一緒にみてみましょう。

千葉県の南房総、館山にある老舗の呉服店に生まれる

YOSHIKI(本名:林佳樹;以下、青年期まで、佳樹と記す)は、1965年11月20日、千葉県館山市に生まれています。世界的ダイバーのジャック・マイヨールがこの地に別荘を持つほどに愛したグランブルーの海の彼方には、霊峰の富士山を眺望することができます。その素晴らしい光景からも、南房総というローカル色よりも、後の「X-JAPAN」という大きなネーミングにあらわれるかのように、どこかで全日本すらも射程にするような広大なイメージと空気に包まれた土地柄といってもいいかもしれません。事実、江戸時代の戯作ものの代表作『南総里見八犬伝滝沢馬琴著)は、この地を舞台にしているほどです(関八州の各地で世に生まれた八剣士が因縁に導かれ南総の里見家に集結する勧善懲悪の物語)。
佳樹の生まれ育った家は、青い海原(鏡ケ浦)から歩いて10分程、内陸に入った所、館山駅からも近く、中心街から少しばかり離れた、町の喧噪が聞こえない程の一角にありました。家といってもそこは林家の家業の老舗の呉服店が1階にあるビルの中でした。ウィキペディアでも佳樹が生まれた家は裕福な呉服屋と記され、誕生日ごとに新しい楽器を買い与えられた音楽的に恵まれた環境に育ったとなっていますが、誕生日ごとに新しい楽器を買い与えられたことを別にすれば、日本中の音楽的環境が良い裕福な呉服屋からYOSHIKIが生まれるような気もしてしまいます、が実際そんなことが起こらないことは誰にも分かります。林家は裕福な呉服屋ではありましたが、専門スタッフを何人も抱える京都の老舗呉服店とはことなり、着物を着た母が接客におわれる家族経営だったといいます。
その忙しさから子供のことは、お手伝いさんに任されていた部分も多かったようです。保育園もお手伝いさんに送り迎えしてもらっていました。週末でなければお手伝いさんと過ごすことが多かったといいます。喘息で咳き込むため、お手伝いさんがいなければ、とかく一人になることが多く、そんな時はいつも一人遊びに耽っていたようです。ぐずついたり我が侭を通しお手伝いさんや両親をあまり困らせない子供だったといいます。ただひとたび発作が起きると数日の間、苦しみを絶えながら安静にしいなくてはならないため、忙しい両親も気が気ではなかったようです。
この呉服店を営む林家には、なにか特別な(家庭)環境があったのでしょうか。何が違っていたのでしょう。佳樹が誕生日ごとに新しい楽器を買い与えられたのも、彼の音楽的才能を両親が感じ取り、認めてからのことでした。誕生日ごとに新しい楽器を買い与えれば音楽が上達すればどんな子供も才能あるミュージシャンになってしまいます。でもそんなことはあり得ないことは子供をもった親ならばよくわかることです。たとえ誕生日ごとに新しい楽器を買っても、他の玩具と同様、子供にとってはすぐに飽きてしまうものに違いありません。

なぜ、4歳になった佳樹は、自分から「ピアノ」を弾きたいと言い出したのか

伝記本『YOSHIKI/佳樹』には、佳樹が4歳の時、突然、「ピアノ」を弾きたいと言い出し、父が新しいアップライトピアノを購入した時の様子が描かれています。家にはピアノがないのに、なぜ佳樹がピアノを弾きたがったのか、その訳を家のすぐ近くにあるピアノ教室から響いていたピアノの音色にちがいないと両親がおもったという話がつづきます。両親にとってはそれ以外に思い当たる節はないと。ピアノ教室は子供の足で歩いて2分くらいの所にあり、静かな住宅地にピアノの音色が谺(こだま)していたようです。そしておそらくはその影響もあったにちがいありません(逆にピアノの音をうるさいと感じる子供や親も数多くいるため、防音材が施されたりしますが)。4歳の佳樹にピアノの音や旋律が心地良いと思わせたもの(胎児期から4歳まで、およそ5年もの間ずっとピアノの音をキャッチしていたはずです)、その聴覚的土壌をじょじょに形成させていたものがもっと身近に、家の中にあったのです。
それは今や呉服店の主におさまっていた父の存在でした。父は少年期から音楽(とくにクラシックやジャズ)に興味を持ち、運動神経も抜群だったこともあり、青年になるまでにはその運動センスも活かせる「ダンス」を得意とするようになっていました。10代の後半には、タップダンスの本格的なレッスンを受けプロのダンサーになり、東京都内にあるダンスホールに出演する人気ダンサーになっています(映画会社からスカウトも受けている)。しかし好きなダンスをするのは、家業の呉服店を継ぐまでと決めていたといわれ、23歳で結婚し家業を継いだため、プロダンサーのキャリアを終わらせたのでした。その翌年に、長男の佳樹が生まれています(佳樹の引き締まったほっそりした身体つきは、コンテンポラリーダンサーの勅使河原三郎を彷彿とさせます。そしてステージでは上半身を素肌にした荒ぶるダンサーにみえる時もあります。「荒魂」が自ら音を発して顕現するかのようでもあります)。
佳樹は幼い時分からずっと父が大好きだったと語っているので、父の部屋かリヴィングからは父が好きなダンス音楽やクラシック音楽がよく流れていたにちがいありません。なぜなら少年佳樹がピアノを習いはじめると、瞬く間に耳にした音の鍵盤を探すことができ、旋律も容易に覚えてしまいピアノ教室の先生を驚かせているからです。父は子供たちの前で、鮮やかなタップダンスを披露して喜ばせているので、好きだった音楽も子供たち聞かせるためでなく、自分で聴いて楽しんでいたにちがいありません。そうした「音楽」を佳樹は、「言葉」を覚えるように身体や記憶に浸透させていったのです。そうしてピアニストに必要な高度な「耳」が無意識のうちに準備されたわけです。物心がつきだした4歳の時、多くの音楽や楽器のなかから初めに反応したのが「ピアノ」であり、近所一帯の空気を振動させていた「ピアノ」の音が誘発させたともいえるのではないでしょうか。

R.ストーンズ創始者ブライアン・ジョーンズとの類似。「知的な反抗児」

ちなみにローリング・ストーンズ創始者ブライアン・ジョーンズの場合、幼い時に喉頭炎を悪化させて神経性の喘息もちになり家では絶えず「音楽」が流れていました。母はピアノの先生で、エンジニアだった父はピアノを趣味にし教会でオルガンを弾き合唱団も率いています。ブライアン・ジョーンズ自身は、6歳から母の下でピアノを習い楽譜を初見するだけで弾けるようになり、ぐんぐん腕が上がるとピアノ教師のレッスンも受けるようになり、自在にヴァリエーションを楽しむようになります。クラシックの音楽家になるのではないかと両親は思っていたといいます。ピアノで優れた「耳」を装備することができたブライアンは、よく知られているように次々に様々な楽器にチャレンジし、マスターしていきます。その一方で、喘息のため皆と外を駆け回るような遊びができなく、一人で遊ぶ時は自動車の玩具を衝突させ(ここまでは小さな子供はよくやるが)、マッチで火をつけて爆破させ炎上させるなど型破りな遊びをしはじめていたのです。スポーツをする意欲はまるでなく、長じてスリルのある飛び込み(ダイビング)を好むようになりました。そして小学校、中学校と成績はよくその面では模範的でしたが、強烈な自我と独立心から皆と均一な「制服」を着ることに抵抗を感じ、権威に対する「反抗」が嵩じ、名門の中学校(グラマースクール)では創立以来初めての「知的な反抗児」と呼ぶに相応しい優秀なワルになっていったのです。
後述するようにそれはまさに佳樹のそれとまったくよく似ているのです。そして2人の例からでも分かるように、学校での優秀さは、規律と秩序を第一にする学校という権威のシステムと相容れない場合もあり、何らかの形で猛烈に自己の独自性をアピールするか反乱するか爆発してしまうことがあるということです。それが目に見えない形をとらなくても、幼少時の環境と気質、体験などが相絡まって成長するにつれ個々人それぞれの顔をのぞかせるようになっていきます。

ピアノの先生を驚かせた飲み込みの早さ。5歳の時、「ピアノスト」になる決心をしたという

ブライアン・ジョーンズの場合、家にピアノがありましたが、佳樹の家にはピアノはありませんでした(すぐに父が真新しいアップライトピアノを購入しますが)。両親もピアノを教えることはできなかったため、佳樹に近所にあるピアノ教室に通わせます。生徒は佳樹ともう一人だけが男の子でしたが、佳樹は2、3歳、年上年上の女の子たちよりも数段早く上達していったといいます。先生が驚いたのは、初めて聴く曲であってもメロディを聴けばすぐに同じように鍵盤を押さえ音を出すことができたことです。そして旋律も瞬く間に覚え込むことができ、先生から強制されることなくピアノの練習に熱中していったのです。繰り返し同じ旋律を弾くことを心底楽しんでいたといいます。喘息の苦しさがある時でも、否、それがあるからこそ、それを忘れるために鍵盤の前から離れようとしなかったといいます。気づけば知らないメロディを自ら生み出そうと夢中になっていったといいます。5歳の時、小学校にまだ入学する前でした、佳樹はある決意をしたと記憶しています。それは将来「ピアニスト」になる決意だったといいます。

入院中、ベッドの上で「偉人伝」を飽かず読む。ベートーヴェンが佳樹の「英雄」に

館山市立北条小学校に入学した佳樹は、ますますピアノの演奏に没頭していきました。小学1年生の時すでに、有名なクラシック音楽に挑戦しはじめています。同時に、自ら曲をつくるようになり五線譜に記しはじめています。ところが喘息が再び悪化してしまうのです。病院のベッドで寝ていなくてはならない時、父が毎日のように、ピアノに向えない佳樹に数冊の本を選んでは持ってきてくれました。いろんな本がありましたが、佳樹が好んで読むようになった本の一群があったといいます。「偉人伝」(子供用に書かれたもの)でした。ベートーヴェンシューベルトエジソンキュリー夫人リンカーンといった偉人の伝記を、佳樹は飽きることなく繰り返し読んだといいます。とりわけピアノの即興演奏の名手だったベートーヴェンが、持病の難聴を悪化させ、後に聴力を失っても作曲を続けたベートーヴェン(ちなみにベートーヴェンの父はケルン選帝侯の宮廷歌手で後に楽長となる)は、闘病中の佳樹の「英雄」となり、生きる上での指針となったのです。「諦めないスピリット」が、佳樹の「マインド・ツリー(心の樹)」に注入されていきました。退院しても外出が禁止されていて、ひとりピアノを弾いたり、教科書に目を通したり本を読んて過ごしていたといいます。
実際に学校の方は2年生の時、出席日数が足りない程で進級もできない可能性もありましたが、成績も良く勉強に遅れが出ていないことが考慮され、なんとか3年生になることができました。父は佳樹の体調を気づかってしばしば車で小学校まで送ってくれたり、下校時に門の前で待っていてくれたのですが、その時の車が豪勢な外車リンカーン・コンチネンタルだったので他の子供たちは目を丸くするばかりだったといいます。林家にとって、佳樹にとって父は頼もしい存在でした。車好きなだけでなく、自分が興味を抱いたもの、欲しいものはすべて手に入れてしまうような人だったようです。それは自分のためだけでなく、家族の望みを叶えるためだったりもしました。といってそれはつねにモノだったわけでなく、子供たちと釣りに出掛けたり、愛車を駆って行川(なめがわ)アイランドに行ったり、そうした家族の時間も大切にしていたといいます。行川アイランドでのフラミンゴのショーは佳樹のお気に入りになります。まるで動く「音符」のように、フラミンゴが群れになって鮮やかに動く光景をずっと眺めていたといいます。そして10歳頃(小学4年生)、佳樹にさらに興味深い変化が訪れるのです。
▶(2)に続く-未

YOSHIKI/佳樹
YOSHIKI/佳樹小松 成美

角川グループパブリッシング 2009-05-25
売り上げランキング : 25340


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

YOSHIKI—わたしはあきらめない
YOSHIKI—わたしはあきらめないNHK「わたしはあきらめない」制作班

KTC中央出版 2003-01
売り上げランキング : 7337


Amazonで詳しく見る
by G-Tools