デイヴィッド・リンチの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 父は米国農務省の研究者、樹木の病気や昆虫に関する実験をしていた。広大な森の入口のような場所へ頻繁に引っ越す


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はじめに:「夢」のこと

映画『ツイン・ピークス』や『ブルー・ベルベッド』、そして『イレイザー・ヘッド』『エレファント・マン』から『ロスト・ハイウェイ』にいたるまで、映画監督デイヴィッド・リンチは、観る者の心を掻き乱す異様な気色の映画を次々に生み出してきました。しかしその異様さは、つねに平凡な日常の縁や裏側にすでに潜んでいるものばかりなのです。その感覚はすでに少年時代から培われていて、事実、無限の記憶的断片や感覚的印象(イメージ)、場所的感覚や感触まで自身の<少年期>から反射させているのです。デイヴィッド・リンチもまた、多くの映画監督と同様、少年時代に映画監督になろうという”夢”などもっていませんでした。14歳の時に、デイヴィッド・リンチが全力を込めて突き進んだのは「画家」だったのです。「マインド・ツリー(心の樹)」をお読み頂いている方は、そろそろお気づきのことと思いますが、少年少女時代の「夢」はあまり堅牢にもたなくてもよい、ということなのです。名を成したスポーツ選手や著名人が、少年少女に向って、「夢」を持って、それを実現するために最善の努力をしよう、と熱く語りすぎ、「夢」は心と身体の成長とともに”変化”したり他の関心をもっていることと”重なったり、結びついたり”することを、真正面から語る人をまず見た事がありません。生涯同じ「夢」を持ち続け、それを成し遂げた人の言葉は、重く、貴重なものが込められてはいますが、「夢」は心や感性の成長とともに、「(再)発見」したり、変化し成長するものだということを、併せて少年少女、青年諸君に語るべきなのだと思うのです。
このデイヴィッド・リンチの「マインド・ツリー」でもわかるように、世界的な映画監督になったリンチでも子供の頃は、自分が大人になったら何になれるのかなにも見えずー2ブロック向こう側のことはまったく関心がなかったー14歳の時に、はじめて潜在的な絵への関心が、友人の画家だった父と出会うことによって自覚できるようになっていったのです。この年頃では、映画などまだ関心の埒外で、映画産業だけですらさまざまな仕事があることを知ることは義務教育の学校に半ば閉じられている少年少女が知り得ることはまず稀でしょう。さらに言えば、「夢」とは、いっけん偶然に思い込んだものを、直感的に思いつく職業の中から選んで言葉に出すわけですが、そのじつかなりの割合で、それまでに感受した自身の願望をあらわしてはいます。そして重要なことは、「夢」は<編集>されうるもので、社会・経済・技術の変化が急なこの時代、一途な「夢」実現願望は、若者に希望を失わせ、落胆させ、閉塞させるばかりになります。
「何々になるのが夢」といった場合、その夢を思い浮かべてから、ようやく実現させようとやっ気になるまでに5〜10年はたっているでしょう。その間に、その「夢」の仕事は、すっかり活力を無くし、仕事のあてすらなくなってしまっているケースもかなり生じているはずです。デイヴィッド・リンチが画家の「夢」から、映画の世界に向かう契機となったのは、じつは少年の頃から彼に潜在していたある”欲動”でした。その”欲動”は、リンチ自身の「心の樹」の”根っ子”から、魂の<根源>から発せられているものだったのです。このあたりはまた別のところで記しますが、そこが「夢」の<編集>ポイントになってくる場所なのです。それではデイヴィッド・リンチの「夢」の<編集>ポイントは何処にあったのか、一緒にみてみましょう。まずは少年デイヴィッドの「夢」が蒸(む)してくるところからはじめます。

父は米国農務省所属の研究者で、樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていた

デイヴィッド・リンチ(David Keith Lynch)は、1946年1月20日アメリカ北西部のカナダと接する「宝の州ーTreasure State」と呼称されるモンタナ州のその西端に位置するミズーラ(モンタナ州で2番目に大きな街で、現在人口約5万7000人)で生まれています。誕生してわずか2カ月後に、リンチ家はアイダホ州サンドポイントに引っ越しているので、デイヴィッド・リンチ自身が言うようにモンタナ州ミズーラは、単に”生まれた”土地だけと言っていますが、後に40代半ばになって自身の履歴を「イーグル・スカウト、ミズーラ、モンタナ」と圧縮して指し示すと刻印されたように浮き出すのです。このモンタナ州ミズーラは父や祖父母が生まれた場所であり、また米国農務省所属の研究者だった父ドナルド・リンチが研究職をおそらくこの地からはじめていて、デイヴィッドも父方の叔父母も近くの人口200人程の小さな村でドラッグストアを営み、リンチ一族にとって縁(ゆかり)のある土地だったようです。少年デイヴィッドは、モンタナに連れて行かれた時、その叔父母の店の隣が、夫婦ともに風景画を描く家で、訪ねる機会があれば一緒に絵を描いていたといいます。
デイヴィッドが大好きな絵と、蟻や昆虫といった生命(いのち)を発生させる深淵な森をひかえた土地柄が、少年デイヴィッドの世界観を生み出す”土壌”であり”地形”になったことは疑いようもありません。デイヴィッドは子供の頃、母方の祖父母(曾祖父母はフィンランドからの移民)が住んでいたニューヨークのブルックリンを訪れた時、地下鉄がホームに入ってくる時の轟音や風や匂いのすべてが恐怖に感じたといいます。少年デイヴィッドの「マインド・ツリー(心の樹)」の地形には、”土壌”のない都会のそれは魂と身体の安定を失する場でしかなかったのです(デイヴィッドは青年になっても都会が怖かったという)。映画『ロスト・ハイウェイ』や『マルホランド・ドライブ』に登場する都会で生まれ育った主人公たちが、いかに魂の場所と安定を欠きやすいか、<暗闇と混沌>の中で迷いはててしまうのか、その悪夢をデイヴィッド・リンチは描くのです。

州境のない広大な森の入口のような場所へ頻繁に引っ越していた

父ドナルドはつねに樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていて、自由に使っていい広大な森が実験用に国から用意されていたのです。その森はモンタナ州やその西のアイダホ州、さらにその西側に広がるワシントン州にあったのでしょう。広大な森は、州境など関係なくひろがっていますから。父ドナルドは多くはその森のあちこちにある入口の土地に、幾度となく転勤することになります。モンタナ州からワシントン州スポーケンへ、ついでノースダコタ州ダラムアイダホ州ボイシへ。デイヴィッドが14歳の時には、一家は今度は東海岸ヴァージニア州アレクサンドリアへ引っ越していました。東海岸ヴァージニア州アレクサンドリア(初代大統領ジョージ・ワシントンの故郷とも言われる町で、ポトマック河畔に広がっている。アメリカの首都ワシントンD.C.は、ポトマック河畔に沿って北方約10キロにある)でも、父ドナルドはいつも林野部の職員が被る灰色がかった緑色のテンガロン・ハットで職場まで、車やバスに乗ることなく数キロ歩いて行っていました。当時デイヴィッドはそんな父の姿が恥ずかしかったが、後にそれはすごく渋いことだとおもうようになったといいます。
父ドナルドは若い頃、このヴァージニア州に南接するノース・カロライナ州にあるアメリカでは抜群の知名度を誇るデューク大学に通っていました(リチャード・ニクソン元大統領や、「フォーチュン」誌編集長リック・カークランド、GM最高経営責任者リチャード・ワゴナーら、匆々たる人物が卒業している)。このデューク大学で父ドナルドは、デイヴィッドの母になるエドウィナ(ニックネームはサニー)に出会っています。母は卒業後に英語の先生として勤めた後、結婚し専業主婦になっていますが、1940〜50年代ほとんどの家庭で母は家にいるのがふつうでした。

頻繁な引っ越しが子供に与える影響のこと。そのプラスとマイナス

頻繁な引っ越しは、多感な年頃の子供には、さまざまな影響を与えます。ほとんどの場合、皆と打ち解け新しい友達をつくるにはかなり時間がかかり、仲間でないことが気になって仕方がなくなるとデイヴィッドは語っています。少年デイヴィッドはその辺は巧みで、学校や皆にうまく溶け込むことができた、といいますがうまくいかないとずっとクラスから浮いてしまうのでその場合は子供ながら本当に大変なことだということも知り得たといいます。またデイヴィッドによれば、引っ越しにはプラスの面もあって、環境に順応する能力を磨くことができることと、もしずっと学校で仲間はずれになっているなら引っ越しによって再出発のチャンスができるのだと。そしてこれはデイヴィッド流の感覚によれば、引っ越しは自分の中のシステムにショックを与え、するとどこかのチャンネルが開き、なにかが少し目覚める可能性があるといいます。
周囲と順応でき友達は沢山でき、思い返しても楽しい思い出をいくらでも思い出すことができるデイヴィッドでしたが、一方で一人で庭に群がる虫を見ているのが好きでした。遠くから見れば綺麗な庭も、芝生の下には芋虫や地虫や蟻が無数に這い回っていたり、桜の木には脂(やに)が滲み出ていてそこにも蟻が群れていたことを知ります。まさに映画『ブルーベルベット』の冒頭で描かれた映像で、少年の頃に、デイヴィッドはどんなに美しい世界も近づき覗き込んでみると必ず蟻や虫が潜んでいることを「発見」し、その感覚を大人になるまで維持しているのです。
少年デイヴィッドがそうした感覚に鋭くなったのは、植物や昆虫の病気や生長に小さな頃からつねに接していたからでした。それは農務省勤めの研究者だった父が、つねに樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていたことの影響であり、学びであり、継がれた好奇心からだったのです。

小さい頃から絵を描くのが好きだった。庭に「発見」した生命の活気と死

デイヴィッドは小さい頃からいつも絵を描いたりそこに色を塗っていたといいます。描いていた多くは当時一番のお気に入りだったブルーニング・オートマティック水冷式サブマシンガンで、ピストルや弾薬、飛行機もよく描いていました。第二次世界大戦が終焉し、周りにはまだその感覚や空気が漂っていて、デイヴィッドは木製のライフルからヘルメットにアーミーベルト、それに飯盒(はんごう)ももっていた頃でした。絵を描くことが好きだと分かった母は、デイヴィッドに塗り絵帖を買い与えることはしませんでした。それは創造力についての母エドウィナなりの考え方で、塗り絵帖を与えてしまうとせっかくの創造力やイメージ力を限定してしまうと思ったからだといいます。その代わり、父がいろんなサイズの紙を山のように持ち帰ってきていました。林業にも関する仕事だったので、紙だけは仕事柄いくらでも手に入ったのでした。
おそらくは絵を描いていた頃のこと、デイヴィッドはクローズアップで好きなものを描いているのが好きだったので、少年デイヴィッドの世界は、2ブロックほどの範囲以内ですっぽりと収まってしまったいたといいます。実際に、その範囲以外の記憶がほとんどなく、思い起こすことができないというのです。けれどもその2ブロックの範囲内の世界は、少年デイヴィッドにとって一つの宇宙のように広大で無限でした。それは物事のディテールが虫眼鏡を通して見るかのように異様に膨らんでくるかのようにーミクロコスモスが目の前に迫り来るかのようにー少年デイヴィッドの感覚を捉えるのでした。走り回るのが仕事の子供ならば、一足で飛び越えてしまったりするような庭の片隅にしゃがんで、デイヴィッドは何時間でも過ごすことができたといいます。その庭は一皮剝けば生命の活気に満ち、いろんな世界が出現することがいったん分かれば、子供にとってもう一つのプレイランドの家の中は、少年デイヴィッドにとっては閉所恐怖症をもたらしかねない場所になっていました。それでもデイヴィッドが子供時代は、牧歌的で本当に幸福だったと思えたのも、庭の<自然>と<生命の多様性>がすぐ近くにあることを知ったからだったのです。
同時に、幸福な少年時代であったがゆえに、その庭で誰にも知られないままおこなわれている生命の腐敗や死、生き物同士の攻撃や虐殺があることを知ったデイヴィッドは、美しいものの裏側、世界の裏側のことに敏感になっていったのです。少年デイヴィッドの「マインド・ツリー(心の樹)」は、家の庭を芝生の裏側に無数に根を這わせ、さらにそこと地続きの深い森へと続いていたにちがいありません。そしてその根は、生命(いのち)が水分とともに別の生命の腐敗と死からなる養土としていることを感知してしまっていたのです。
そのため幸福な少年時代だったと同時に、少年デイヴィッドは、一方で「子供の頃は恐怖の中で暮らしていたというより苦しんでいた。こんなの普通じゃない」と感じ取っていて、自分だけがどうもどこか感性帯が違うのではないかという疑いが生じてきて、それは子供ながらほとんど確信に近いものがあったといいます。映画『イレイザーヘッド』の異様な胎児や、チーズと七面鳥の肉で人間の頭のかたちをつくりそれを粘土でくるんで蟻がやってくるのを待ってつくった「クレイ・ヘッド・ウィズ・ターキー、チーズ・アンド・アンツ」というアート作品などは、その確信の延長線上にあるものにちがいありません。デイヴィッド・リンチは自身を「アイデアやイメージに波長を合わそうと試みる”ラジオ”のようなもの」と形容していますが、自然や生命もまた何処か”向こう側”からやってくるのであり(それはデイヴィッド・リンチが映画製作において偶然や事故、ツキや直感に対しつねにオープンだということにつながる)、それに静かにチャネルを合わせようとすることが、そもそも創作のはじまりであり重要な要素なのです。サウンドやリズム、イメージの質感、色感覚に、異様にこだわるのも、空間のなかの”見えない”領域や地形を感受するからに相違ありません。

画家だった友達の父のスタジオを訪れ、画家の道に全力ですすむことを決意

14歳(1960年)は、少年デイヴィッドにとって一大転機の年でした。将来どうなるのだろう、どうしたら一番いいのか、あまりにも獏(ばく)として、絵を描くのが好きだということ以外なにも思いつかなかったといいます。せいぜいが父が林業関係の科学を専門にしていたので、薄ぼんやりと自分もそうなるのかなと思っていたくらいでした。ところがある日のこと、当時のガールフレンドの家の前で、友達のトビー・キーラーに偶然会ったことが少年デイヴィッドの運命を決定づけます(じつは友達のトビーはその女の子が好きで家の近くに居合わせたのだった。後にトビーはデイヴィッドから彼女を奪うことになる)。トビーはどうもデイヴィッドが絵を描くのが好きだということを知っていて、自分の父は画家なんだとデイヴィッドに教えたのです。トビーの父はアート界にその存在が広く知られる画家ではありませんでしたが人生を絵に捧げていた渋い画家で、デイヴィッドはワシントンD.C.近くのジョージタウンにスタジオを構えるトビーの父ブッシュネル・キーラーの訪ねます。少年デイヴィッドはブッシュネル・キーラーに会い、絵を見て、本当に魂に触れたといいます。まるで即答で、絵の道にすすむことを決意したほど、映画監督デイビィッド・リンチとなったいまでも、人生のなかで屈指の素晴らしい出来事だったといいます。ブッシュネルは少年デイヴィッドにロバート・ヘンリーが著した『アート・スピリット』という本を教えてくれました。芸術的生活の規範を示した内容が語られたこの本は、少年デイヴィッドにとって「聖書」となります。叔父母の店の隣で風景画を描く夫婦と一緒に絵を描き、またいつも絵を描くことが好きで好きで仕方のなかった少年デイヴィッドだったからこそ、ブッシュネル・キーラーの存在や『アート・スピリット』が少年デイヴィッドの魂に深く届いたのです。樹幹からまさに太い枝(画家へ)が生えだそうとしていた状況だったにちがいありません。

イーグル・スカウトに所属し、ジョン・F・ケンディの大統領就任式に立ち会う

またこの頃、ボーイ・スカウトに参加していた少年デイヴィッドは、勲功バッジを集めるため精力的に活動し、晴れてイーグル・スカウト(ボーイ・スカウトの中でもリーダーシップがあり優秀な者の僅か2%程しかなれない)に所属することになるのです。世間的にはこの頃、ボーイ・スカウトは徐々にどこかダサイ存在になってきていたといいます。デイヴィッドによれば、当時イーグル・スカウトですらどこか恥ずかしくなるような空気があったといいますが、勲功バッジとその狭き門は少年デイヴィッドにとって精力を出し切るべき対象であったことは間違いありません(イーグル・スカウトと同時に絵も精力を出し切るべき対象に)。優秀なイーグル・スカウトに所属できたおかげで、少年デイヴィッドは、1961年1月20日ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、ホワイト・ハウスの外の観覧席のVIP席に、他のイーグル・スカウトのメンバーとともに招待されるのです。その日は少年デイヴィッドの誕生日(15歳)でもありました。1メーター50センチ程の目の前をアイゼンハワー大統領と、これから大統領就任式に向うジョン・F・ケネディが車に乗って移動していく姿を目撃するのです。▶(2)に続く