柳田国男(1)父と母の立場が逆転していた生家

毎晩「お化けの話」など話を聞かせた父。父と母が逆転していた生家松岡家。儒学者、神官、医師、教員と転職を繰り返した父。残された祖母の蔵書 

はじめに:80歳を過ぎた晩年、自ら「柳田国男の誕生」の謎、「幼年期」に向った

遠野物語』『先祖の話』『蝸牛考』『桃太郎の誕生』『海上の道』で知られる「日本民俗学」の創始者・開拓者、柳田国男
昔話を解析し日本の文化人類学にも大きな刺激を与えた「桃太郎の誕生」を探求した柳田国男は、80歳を過ぎた晩年、なんと自ら「柳田国男の誕生」の謎に向かいました。

青年時代の「叙情詩人」、大学卒業後の「農政」への問題意識と取り組み、「農村」や「穀物倉庫」のこと、「山人」研究や「郷土研究」、名もなき庶民「常民」文化、民間伝承の歴史研究、「魂の行方」や「霊魂」のこと、「先祖の話」など、そのすべてへの好奇心と探求の源流にあったのは、「故郷・兵庫県神東郡辻川村」での暮らしと体験(13歳の時に一家は関東へ移住)にあったのです。

柳田国男自身、自分の「幼年期」に”特別な重要性”をもたせていました。自ら解析した「柳田国男の誕生」は、自伝『故郷七十年』となりましたが、故郷に住んで70年ではなく、故郷(にいた13年余)が、後の70年をいかに形成したか、そのことを深く自覚し問うた題名だったのです。

それでは一緒に、柳田国男の<根の国>へと向いましょう。そこには柳田家はなく、「日本一小さな家」の生家「松岡家」がみえてきます。
「日本一小さな家」とはどういう意味なのでしょう。それは物理的な家屋の小ささではなく、それが後に柳田流の民俗学の一端に映しだされるだけでなく、柳田国男の「マインド・ツリー(心の樹)」に深く刻み込まれ、柳田国男を生み出す”球根”の一つとなるのです。

柳翁は次のように記しています。
「じつは、この家の小ささ、という運命から私の民俗学への芯も源を発したといってもよいのである(自伝『故郷七十年』1957年より神戸新聞連載初出)
柳田国男の「マインド・ツリー(心の樹)」に触れえた時、私たち一人ひとりが無意識の内に「日本民俗学」の”継承者”になっていることとおもいます。

「道の国」播磨、道が交差する「辻川」の地に生まれる

柳田国男(柳田家の養嗣子となる27歳までの姓名は「松岡国男」)明治8年(1875年)7月31日、兵庫県神東郡辻川村(現在の福崎町)に松岡家の6男として生まれています(男子ばかりの8人兄弟。うち5人が成人、国男はその3番目)。辻川村は姫路城のある姫路市の北方(10キロ弱)、姫路平野の北端に位置していますが、姫路街道、丹羽街道、但馬街道、京街道をはじめ古来より「道の国」でもあった播磨の国播州をまさに映し出すような土地柄でした。

辻川村は、姫路から豊岡、城崎、丹後、銀山で有名な丹馬国生野の方へ北上する道と、畿内と西国とをつなぐ東西に走る道の重要な交差地点でした(出雲から京に向うルートにもなっていた)。長い歴史をになってきた東西・南北の2つの古い街道が、まさに十字を切って走り、多くの物資や人、情報が往来する要所だったのです。

また、国男の出生当時の地名「神東郡田原村辻川」の「田原」は、農耕に因んだ名で、「田原村辻川」とは、まさしく<定着型農耕社会>と<交易社会>とが歴史的に折り重なる象徴的な名前でした。
そしてこの”土地柄とその環境=郷土・原郷”が、後に柳田国男自身も発言しているように柳田国男の「民族学」を生み出し、形づくる上で重要なバックグラウンドになるのです。


父と母が逆転していた松岡家。
毎晩「お化けの話」やいろんな話を聞かせた父

柳田国男のまるで楠(クス)の老樹のように深く枝葉を繁らせた「心の樹」の”土壌”は、郷土「田原村辻川」であり、父・母、そして祖母、兄弟たち(それにともなう「家」の構造)、そして後述するように地元の大庄屋・三木家でもありました。
国男13歳の時、一家は関東に移住したにもかかわらず、柳田国男という”大樹”は、”郷土の土壌”にこそ根を張っていたことは、柳田国男の自伝『故郷七十年』からも伝わってきます。膨大な学問研究を成し遂げていった”根気”すら、原郷への想いや、郷土での暮らしや幼少期の体験こそが”核”になっていたようです。

柳田国男の”根っ子”は何処にどのように張り巡らされ、”根気”は何に由来しているのか、まずは、父親の松岡操柳田国男の生名は松岡国男。「松岡」は27歳までの姓)へとつながる”根っ子”からです。


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松岡一家においては、父と母が逆転していました。夜には父・操が、国男に添い寝をしてくれる母親のような存在だったのです。
毎晩のように枕元で父は国男に、子守り唄代わりに「お化けの話」などいろんな話を聞かせていたといいます。その父・松岡操ですが、一般的に、儒学者、神官、医師、教員ウィキペディアでは儒者のみ)と、幾つも職(あるいは職歴)をもつ、いっけん多能な才をもつ人間のように紹介されることがあります。が、実際には国男が生まれた時、父は職業不定でした。

また、ウィキペディアでは、松岡家は「代々の医家」となっていますが、これは肩書きだけ揃えればそうともとれるだけの表現で、松岡家の元来の職業は「農業」であり、実際にも江戸時代の身分制では「士農工商」のうちの「農」の身分だったのです(後に、国男が東京帝国大学で農政学を専攻し、農商務省の官僚になって農政問題に取り組み、全国の農山村を歩き、「郷土研究」を創刊したり、『遠野物語』などを著してく、その”根底”にあるのは「農業」への視線であり、そこから「日本人」とは何であるか、という問題意識が生まれていくことになる。
代々の医家だけであったらこうした視線や問題意識はまずでようもない)

「第一の開国」となった「明治維新」で、松岡家に何がおこったか

なぜ、父は職業不定の状態になってしまっていたのか。「第三の開国」ともいわれる今日からみて、「第一の開国」だった「明治維新」前後に、「農業」を家業にしていた柳田国男の言葉)一家に何が起こっていったのか知ることは、本題でないにしてもかなり意義深いものがあります。そしてその時代のうねりのなかから「柳田民俗学」が芽吹いていくのです。江戸中期まで辿れる松岡家初代は、田原の土地を開墾、分家しています(松岡家初代は播磨赤松氏の後裔で、室町時代の末期に兄弟で辻川に移住してきたといわれる。松岡家は弟の方の数の多い分家—しかもどこも家が小さい—、その本家は赤穂家老大石氏と縁つづきだった)。江戸後期に入ると飢饉や米市場の激変をこうむり代を追うごとに農地は縮小し、松岡家の農業の営みは完全に行き詰まるのです(国男が誕生した時は、なんと農地は皆無だった)。「医家」としての松岡家は、手放してしまった農地に代わり、一家の生計をたてる策だったのです。
江戸後期の松岡家3代目(医者となった長男が死去し、兄の志を継いだのが二男、また松岡家2代目は博打打ちの渡世人ですでに一度家産がすっかり傾いている)が、京都で漢方医学を習得し、帰郷し辻川で開業しています。松岡家5代目の父・操は、漢方医学で身を立て、儒学(や国学も学び、明治維新を迎えるまでは辻川村の知識人として尊敬を集め、姫路の町学校の塾監として町人に儒学を教えていました。

儒学者、神官、医師、教員と、転職を繰り返した父

ところが「明治維新」で西洋式の教育方法が導入され、姫路の町学校は廃止。松岡操は職を失い、故郷辻川に戻り漢方医儒学者の仕事を再開しましたが、医師制度の大改革に巻き込まれてしまいます。医家には西洋医学の習得が義務づけられたのです漢方医は一代に限って開業が認められた)。辻川村の知識人であり医師であった父の社会的な信用は数年の間に一気に失墜してしまったのです。
家計の必要に迫られていた父・操は、幾つかの小学校で教職に就き「修身」を担当しますが、どの学校でも任期は一年前後の短期に限られていました師範学校卒が教員の必要条件となる。例外規定があり、「修身」科目だけはしっかりした儒学の知識があれば、正式の教員免許がなくとも教壇には立てたが)。この頃、父・操はかなりの神経衰弱に陥っています。時に鳥取県まで出向き漢学塾に勤めることもありましたが望郷への想いがつのり、帰郷し神社の神官の職に就くのです。しかし神官の職も1、2年程の短期でした(今日でいう短期派遣型か契約社員型)。こうして転職を繰り返した柳田国男の父・松岡操の職業欄には、儒学者、神官、医師、教員と幾つもの職が記されることになったのです。

祖母が残していった『南総里見八犬伝』や百科事典の『三世相』からの影響

柳田国男の2つ目の大きな”根っ子”は、父の母・小鶴(国男の祖母)につながっています。小鶴は、医師となった松岡3代目に子供ができなかったため、隣村の医師中川家からもらい受けた養女でした。この小鶴が息子・操に、孫の国男に影響を及ぼするのです。
幼少より聡明だった小鶴は、儒仏・和学・文学に通じ、とくに「作詩」に秀でていました。しかし13歳から神経症の病に罹り、その後も完治することなく過ごしています。小鶴は、今度は同族の中川家より養子をもらい受け、子供をもうけています。そして松岡家を継いだ小鶴は、息子・操に、自己流の教育を施していきます(養子となった中川至は漢学に秀でていたが、養父と不和となり松岡家から逐われる。後に他家に入り明倫館の教授になり、生野の変で檄文を書き活躍。その功績が後に認められ士族にとりたてられた)。それは毎日一篇の詩をつくることでした。
また国男が物心つき、文字が読めるようになった時に、最も国男少年の心を虜にしたものは、小鶴が所蔵していた「本」でした。その本とは、滝沢馬琴著の『南総里見八犬伝』、昔の百科事典の『三世相』『武家百人一首』『蒙求和解』の4冊だったといいます。とくに『南総里見八犬伝』は、国男は暇にまかせていつも頁を繰って、何度も読んだといいます。この4冊は、国男が生まれる2年前に亡くなった祖母・小鶴の数多(あまた)あった蔵書のうち(祖母は晩年は自宅で寺小屋も開いていた)、家計に困った父が書物を大量に処分した後に僅かに残されたものだったのです。


小鶴は息子・操を、学があり詩を好む医者のもとで修業させ、一人暮らしの身となった自らは、息子を想う気持ちを詩集『南望篇』として纏めている。頼山陽も学んだ郷学の場・仁寿山校に通っていた頃には、この詩集が姫路藩儒学者の目にとまり藩が経済的に苦しい操の学資を支給することになり、操は藩学の好古堂に迎え入れられることになったのです。後に小鶴は請われ近村の子女に漢学を教えています。篤い法華経の信者だった小鶴は、後に国男が大いに世話になる辻川の旧家で大庄屋の三木氏と儒仏論争もしている才女でした。


せっかくの蔵書を売り払わざるをえなかった父・操は、以降「本」は<借りるもの>だと考えるようになり、それが国男少年に受け継がれていくのです。「生家に本が少なかったことが、かえって私を本好きにした」と後に柳田国男は回想していますが、そのまま父が本を借りることもなく、国男も4冊のまま止まっていたら、国男少年の好奇心はたちまち根腐れしていたにちがいありません。母も「父さんはお前のようじゃなくて、もっと勉強家だった」と国男少年をつねに刺激していました。後に国男が高校時代に「新体詩」を『文学界』に発表したり、田山花袋国木田独歩ら5人からなる『叙情詩』(民友社 1897年刊)の同人となったり、イプセン会を設けたりしていくのも、父・操や祖母・小鶴、さらには母たけの詩や文学、学問への深い関心と志向が幾重にも国男に影響してのことだったのです。
あらためて一人の「マインド・ツリー(心の樹)」は、とくに”根っ子”でつながる何本もの「マインド・ツリー」が折り重なり、木霊し、映し出され、影響し、形づくられていることが、柳田国男の例はよくあらわしているとおもわれます。その意味で、すべての「マインド・ツリー」は、つねに複数形の「マインド・ツリーズ」であるのが本来なのです。

「神社仏閣」と「自然」の中で育つ。樹木や草に「名」をつけて遊んだ

国男少年の「心の樹」をかたちづくることになるのは、生家・松岡家の人々や書物だけではありません。国男少年の幼少期の重要な舞台は、生家の周囲の此処かしこにある「神社仏閣」であり、一帯の「自然」でした。生家のすぐ裏手にある産土(うぶすな)の社・鈴の森神社や、生家から400メートル程の所にある神積寺(同寺鎮守の岩尾神社には文殊菩薩が祀られている)の大門があり、文殊祭りや「鬼追い」の行事は国男の幼心に強い印象を与えていきます。農耕神や先祖の霊として考えられていた歳(とし)(歳は古くは「米」のことを意味していていたといわれる)を祀る大歳神社もあちこちにありました。
そして鎮守の森や、庭先の八重桜や白桃、路傍の草木が国男少年の心をとらえることも日常的なことで、国男は気になった樹木や草に「名」をつけて遊ぶ子供でもありました。後に柳田国男はこうした自らの体験から、「ものに名をつける行為は昔から子供の特権である」という持論を披瀝しています。ところが樹木や草が大好きだった国男少年に、気難しい気性の母は口うるさい禁止事項を告げるのでした。その一つが、「木登りをしてはいけない」(体が弱かった国男を思ってのことかもしれないが理由は不明)でした。
▶(2)に続く-未
・参考書籍『柳田国男伝』(柳田国男研究会編著 1988年 三一書房)/『日本人の自伝ー故郷七十年』(柳田国男平凡社)/『評伝日本の経済思想—柳田国男』(藤井隆至著 日本経済評論社)/『柳田国男 その原郷』(宮崎修二朗著 朝日選書)