シド・ヴィシャスの「Mind Tree」(2)- 15歳、服飾工場で裁断師の見習工になる

義父の死去と、母の悲しみの共有

▶(1)からの続き:ずっと鍵っ子だったシドが7歳の時に母アンが恋に落ちます。相手は中流階級出の知的な男クリストファー・ベヴァリーでした。2人は結婚します。ところが母アンはここで心が折れる程の不運に見舞われてしまいます。結婚してからわずか数週間後、夫クリストファーは癌の宣告を受け、翌年はずっと病床に伏し、そのまま亡くなってしまったのです。あまりのつらさと悲しみのあまりアンは、身を引きずるように深夜に亡き夫の墓を何度も訪れています。後にシドが、エドガー・アラン・ポーの小説をよく読むようになったのも、母アンのこうした気質が無意識のうちに影響したのかもしれません。きっとシドも母の深い悲しみと苦しみを心の底で共有していたにちがいありません。アンは亡き夫の苗字ベヴァリーをシドにつけ、それ以降シドの名前は、ジョン・ライドンが「シド・ヴィシャス」と勝手に命名するまでは、「サイモン・ベヴァリー」だったのです。その意味からもシドは、母の気持ちを自身の内に深く共有せずにいられなかったはずです。

目立たない性格と、くりだされた凶暴さ

アンはこの頃、バーのマネージャーをしていましたが、亡き夫の高齢の祖母の面倒をみるため、夫の故郷タンブリッジ・ウェルズに移り住みフラットを借ります。シドは三たび転校することになりましたが、亡き夫の祖母がシドの面倒をよくみてくれました。転校先の学校では、嘘か誠かシドの成績はオールAに近かったといいいます。聡明でサッカーも得意でしたが、他の生徒の輪に入れなかったようで、感情を表にださず目立たない男の子だったそうです。家ではいつもイタチ(フェレットという名前)と一緒に遊んでいました。シドはたびたび唯一の友達のフェレットを鞄に隠して学校に連れていっていました。11歳頃も、シドはまだ友達ができず独りきりでいました。
しかしその裏でシドは危ない奴という噂がたちはじめていたのです。シドは激情にかられると歯止めがきかなくなり、どんなに強い相手でも蹴りと拳パンチをみまってボコボコにするようになっていたのです。そのため周りに広まっていた「ガーリック・ブレス(ニンニク臭)」というあだ名をシドが耳にすることはありませんでした(イビサ料理を母子供とも好きでニンニクをいつも使っていた)。そんなことを言ってシドをからかえば逆鱗にふれ顔面が鼻血にまみれるだけではすまなかったからです。この頃にあらわれた凶暴さが伝説となって後の「シド・ヴィシャス(凶暴)」という名前が生まれたという人もいまずが、命名したジョン・ライドンは、「サイモンにとって最も遠いイメージの名前をつけただけ」と後に語っています。

本好きだったシド・ヴィシャス。よく知っていた街の「歴史」

凶暴でない時のシドは、かなりの本好きで、エドガー・アラン・ポーはよく読んでいたといいます。またコミックでは『イーグル』のファンだったそうです。再びロンドンに戻ってからは、学校での勉強もほとんどしなくなりますが、街の中の「歴史」には詳しかったといいます。週末に母と一緒に自転車でサイクリングに出掛けると、その場所にどんな歴史があるか母に語って聞かせ、母はびっくりしたと語っています。シドは聞いたことや学んだことは、スポンジみたいに吸収する力があったようで、家や学校以外でいろんなことを覚えていったにちがいありません。

15歳の時、服飾の工場で裁断師の見習工として働く

15歳の時(1972年)、義務教育を終えると、母アンの反対をおしきるようにシドは職を探そうとします。シドが見つけた働き口は、ダックスという衣料メーカーの服飾工場でした。スラックスの裁断師の見習工として雇われ、ポケットを裁断するのがシドの仕事でした。シドは母に似てファッションにこだわりがありましたが、スラックスのポケットを裁断することには、こだわりはありません。というよりやる気がでなかったはずです。なぜならシドは自分がつまらないとおもったものは、もの心ついた頃からやる気になれなかったからです。そのためシドはそのシンプルな仕事で、裁断するサイズを何度も間違えてしまいます。何度注意しても同じミスを繰り返すので、とうとうクビになってしまいます。シドの性格から、わざとクビになるようにやったともいわれています。
服飾工場をクビになったシドは、カレッジへの進学を希望したので母アンも喜び、賛成します。シドは、「アート」と「写真」に興味をもちだしていました。「学ぶ」意欲がでてきたシドに自身もアート好きだった母は後押しします。シドはハクニー・テクニカル・カレッジに通いはじめました。3つ上の従兄デヴィッドもそこに通っていました。シドはこのカレッジで、<運命的な出会い>をします。アイルランド移民で、1歳年上のジョン・ライドンとの出会いでした。シドはこの頃には、母や妹が呼ぶ「サイモン」ではなく、「ジョン」と呼ぶようになっていました。「サイモン」は出生証明書ではシドの実際のファースト・ネームなのですが、英国では「サイモン」という名前はどこか気取った感じがあり(日本の名前で言えば、浩幸君とか修治君とかのイメージでしょうか)、シドはそう呼ばれることに自身の”魂”が押さえ込まれるような感じをもっていたのです。「ジョン」は、元来、シドのミドル・ネームで、この名前の響きは自身の”魂”を剥き出しに生きれるような感じがもてたのです。英国では「ジョン」といえば、だいたい”やんちゃ”で”ワイルド”なイメージがあり、「ジョン」となったシドは、感情を表にださない物静かで目立たない男の子から、ストリートを彷徨するワルな少年に、自分をイメージ・チェンジしていたのです。しかしこの「ジョン」という呼び名の寿命もあとわずかでした。

シドが憧れた「ジギー・スターダスト」

この頃「アート」と「写真」に興味をもっていたシドが、首ったけになったのは、「ジギー・スターダスト」でした。「ジギー・スターダスト」は、デビッド・ボウイがつくりだしたボウイの分身のエイリアン・キャラクターですが、そのアーティスティックな衣装とメイク、ヘアスタイル、そしてそのステージ・パフォーマンスを撮った「写真」は、シドの「マインド・イメージ」にかたちを与え色づけしました。「ジギー・スターダスト」のポスターや切り抜きが貼られたベッドルームで毎晩夢見るようになります。夢の中に入りこんだシドは「ジギー・スターダスト」のレコードを購入し、行けるコンサートはすべていくようになりました。マーク・ボランを真似た巨きなちりちりパーマをからかわれていたシドは、「ジギー・スターダスト」風カットに切り替えただけでなく、大量に購入したファッション誌を参考にし(同時期、音楽雑誌も定期的に購入しはじめています)、衣装や格好をすべてつくり替えました。カラフルで派手に装い、足の指にマニキュアをし、フェミニンなルックスをし、ヘア・フロントを真っ赤に染め、ワセリンで形を決めてオーブンに頭を入れて焼いてできあがりです。ついこの前までは、仲良かった黒人の少年に影響され、おおきなサウンド・システムから流れるレゲエのリズムに合った、ルーズな感じの衣装への好みは、すっかり過去のものになりました。▶(3)に続く