オスカー・ワイルドの「Mind Tree」(2)- 20歳、オックスフォード大学へ。俗物と化した英国貴族との対決

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マハフィー教授から美的感覚、会話術、そしてホモセクシャルの世界を教えられる

▶(1)からの続き:ポートラ・ロイヤル・スクールを卒業したオスカーは、兄もいるダブリンにあるトリニティ・コレッジに入学します(奨学金を受ける)。兄ウィリアムは派手な行動でキャンパスで知らぬ者はいない存在でしたが、オスカーはそんな兄を俗物的として軽蔑すらしています。オスカーは兄とは異なる「美」への道へと一気にすすみだします。
その道へオスカーを導いた人物がトリニティ・コレッジにいました。オスカーの「マインド・ツリー(心の樹)」に決定的な影響を及ぼすことになる人物です。オスカーの担任教授のマハフィー教授です。後のオックスフォード時代のオスカーの美的感覚(部屋を骨董品やブルー・チャイナで飾った)を入念に教え込んだだけでなく、会話術にも磨きをかけ、オスカーのポテンシャルをたかめたのがこのマハフィー教授でした。オスカーの古典に関する能力は飛躍的にあがり、ギリシア語で「バークレイ・ゴールド・メダル」を獲得するまでになります(19歳の時)。オスカーはヘレニズムの世界(ギリシア・ローマ文化思想)をギリシア語を直接介して学ぶ力がありました。また教授は葉巻(シガー)や銀器、アンティーク家具に精通していただけでなく、ギリシアプラトニズムにも精通し、オスカーを<ホモセクシャルの世界>に導いたのではないかと推測されている人物でもあります(オスカーは後のオックスフォード時代ギリシアやローマを旅行していますが、この時の同行者がマハフィー教授)。オスカーの「マインド・イメージ」に、唯美主義やダンディズムが確かに描かれるようになったのもこのトリニティ・コレッジ時代のことでした。

20歳、オックスフォード大学へ。俗物と化した英国貴族との対決

20歳の時(1874)、オックスフォード大学の入学試験に合格します。入学までの期間、イタリアのジェノアとパリを見聞し、オックスフォード大モードレン・コレッジに入学します。が、インランドの名門貴族の子弟やヴィクトリア女王の子供が通う超エリートのオックスフォード大では、オスカーのようなダブリンの名士の子息は下にみられるばかりで、そのたキャンパスの貴族的雰囲気はワイルドにショックを与えました。名門貴族の子弟は当時「アイドル・クラス」と呼ばれ、オックスフォード大は名目上「紳士養成の場」として存在しているのが現状でした(大学はそもそも就職を目的に入学するものではなく、政府や諸機関から要請があり仕事に就くのがふつうであった)。
しかしオスカーのみるところ、中世騎士道精神の遺産であるノブレス・オブリージュ(高貴なる者の社会への義務)はもはや失われ、「アイドル・クラス」たちは遊びほうけ堕落の極みにいました。
そのため「アイドル・クラス」を垂れ流しているイングランドの上流階級に対し、真の貴族趣味、美学とは何かという疑問がオスカーのなかに沸き起こり、それが格式だけに安住する彼らに対する挑発的で挑戦的意識となっていったのです。俗物の塊の貴族クィーンズベリー侯爵との対立は、この延長線上になるものでした。
マハフィー教授から美的感覚を「転写」されていたワイルドは、目の前の現実をふまえ、冷静に自分を分析しセルフ・イノベーションに踏み出します。まずアイルランド訛りを消し、イングランド・アクセントを習得し、イングランド上流階級にいったん<同化>しようとしたのです。するとモラルよりマナーを上位におき、ギリシア・ローマ文化思想や唯美主義を吸収し、ダンディズムの萌芽を放ちはじめていたオスカーは、たちまちのうちに仲間の注目をあつめる存在になったのです。ウィットや逆説、そして豊富な警句で人を魅了するマハフィー教授から習った<話術>が彼らを惹き付けたのです。スポーツに親しむ習わしがあるイギリス紳士のフィールドで、スポーツ音痴のオスカーはなんら咎(とが)められることはなく皆から評価されました。
この頃、オスカーは自分の部屋を飾ることを趣味にしていました。
セーブル製のブルー・チャイナの大きな花瓶を置き、いつも百合の花(ラファエロ前派の画家たちが好んだ花)を活けていたといいます。ワイルドの美的、芸術生活につねに刺激を与えていたのは美術評論家のジョン・ラスキンと、ラスキンの後継者で美術評論家でウォルター・ペイターでした(両人ともオックスフォードの教授)。

借金までして買った宝石や洋服。何度も起こされた訴訟

オックスフォード時代の間、「アイドル・クラス」の連中の向こうを張ったワイルドの消費(癖)は予想をはるかにこえるものだったようです。病が悪化していた父がオスカー23歳の時に亡くなり、ワイルド家の財政は悪化していましたが、オスカーの消費は収まりません。オスカーは借金までして気にいった宝石や洋服を買いつづけ、返済できず訴訟を何度も起こされています。しかしオスカーの消費は、借金を踏み倒そうというものでなくあっけらかんとしたものだったといいます。その状況を受けて別荘を売却した母がオスカーを信じ借金分を送りつづけていたからでもあったでしょう。オスカーの当面めざすところは、美的生活と創作、社交界だったので、それにともなう消費(=出費、必要経費)は華美なサロンを催していた母も承知だったのでしょう。
そんななかオスカーは、オックスフォード大学から最高レベルの賞である「ニューディケイド賞」を授与されただけでなく、最終学年の卒業試験も首席でパスします。オスカーの消費は、自身の「マインド・ツリー(心の樹)」が欲する「花」のようなもので、造化の花でなく、自身の部屋に活けた百合の花のように本物の花だけを咲かせるオスカーにとって「事業仕分け」するわけにはいかなかったのです。

卒業後、オスカー好みの「サロン」、「テームズ・ハウス」をつくる

オックスフォードを卒業したオスカーは、「テームズ・ハウス」と称する「サロン」をつくります。友人のフランク・マイルズとロンドンのテームズ河畔に家を借り、<オスカー好み>で「サロン」仕立てにしたものでした。幼少期から見てきた母ジェーンの「サロン」の”オスカー版”でした。ダンディズムの天才オスカー・ワイルドも、その「マインド・イメージ」は、母やマハフィー教授、ウォルター・ペイターやラスキンらの多くの人たちの影響のもとに花開いたことがよくわかります。その唯美的な装飾は多くの一流のお客を驚嘆させたといいます。プリンス・オブ・ウェールズや女優リリー・ラングトリーやサラ・ベルナールも「テームズ・ハウス」を訪れています。ワイルドはマハフィー教授に会話術を教えてもらったように、サラ・ベルナールから発声を教えてもらっています。トップ女優だったサラ・ベルナールはこの頃あまりに旺盛な浪費がたたり破産状態だったといいますが、それでも「お金は使うためにあるのよ。どんどん使い無なさい」とオスカーを刺激しています。▶(3)に続く-未