ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「Mind Tree」(4)- 39歳、厄年のように禍いがふってくる。最初の短編集『八岐の園』の刊行。気がつけば43歳

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39歳、厄年のように禍いがふってくる。1カ月、生死の境を彷徨う

▶(3)からの続き:ボルヘスはこの頃、映画も多く観ていました。「スル(「南」の意味)」誌と「エル・オガール」誌に文芸記事だけでなく、映画評(チャップリンジョン・フォード、スターンバーグやヒッチコックらについて)も数多く執筆しています(1938年まで)。ボルヘスは音楽にはまったく興味も知識もないぶん(古いタンゴ数曲とブラームスの幾らかを除いて)、映画がボルヘスの関心を呼び起こしていました。ボルヘスは映画から、独特の時間処理の方法、表面的要素(映像)の巧みな接続、それに心理的な深みを避ける方法やらプロット展開を吸収していきます。後年(60歳頃から)、失明してからも映画館に通うほどでした。最もその時には登場人物の対話を聴くのを楽しんでいましたが。
そしてビオイ・カサレスと「デスティエンポ」誌を(6頁のタブロイド版。3号まで)発行したり周りの出来事に集中していた頃父が亡くなります(39歳の時)。またこの年は、まるで厄年のようにボルヘスに災難が降りかかりました。クリスマスイブの日、開けられてあった窓に頭をあて、直後の治療が不十分で敗血症になったため、1カ月のもの間、生死の境を彷徨うことになったのです。入院中、母がC.S.ルイスの『沈黙の惑星を離れて』を読み聞かせると、その世界が分かるがゆえにボルヘスは泣くばかりだったといいます。

最初の短編集『八岐の園』の刊行。気がつけばはや43歳

41歳の時、ボルヘスは2つの重要な物語を「スル」誌に発表します。「<ドン・キホーテ>の著者、ピエール・メナール」と「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」で、ともに『八岐(やまた)の園』(41歳の時に発表)の中核になるもので、大きな怪我から復帰直後で、何かを書く能力は失われていないか手探り状態の中で短篇小説を書きすすめたものでした。「ピエール・メナール」の方は、エッセーと物語の中間地点に成立したものだったといいます。人生とはまさに何があるかわかりません。怪我の功名といえるように、頭の怪我が無ければ、このタイミングでいつもとは毛色の違う2篇が書かれることはなかったにちがいありません。またアルゼンチンで独創的にして最も重要な物語作家と認められるのは、さらに後になっていたかもしれません。
「トレーン」はボルヘスの物語の中で最も実験的な作品。物語で現実を批評するという野心的な試みをします。語り手となる批評家は、書き言葉にはもはや何かを<模倣>する力しかないことを、小説のかたちを借りながら語りだします。ボルヘスは虚構がもたらす幻想だけでなく、架空の産物が”実在感”をもって読者の心の内に立ちあらわれる方法をつくりだしたのです。「トレーン」を書いている頃、ボルヘスは図書館員だった実体験を背景にした「完全なる図書館」も書きあげています。あらゆる言語で記されたすべての知識が収まる場所は、ボルヘスにとって最も絶望に満ちたものでした。悪夢のような無限のヴィジョンへの入口をボルヘスは図書館にみました。
そして重要な短篇を編んだ作品集『八岐の園』こそ、20世紀にスペイン語で書かれた最も重要な作品ともいわれてるようになるのです。ここでおこなわれた実験的な方法は、戦後の小説に大きな影響を与えることになります(日本の作家も意識的にも無意識的にもかなりの割合でボルヘスの影響圏内にあるといわれます)。その新たな方法とは、文学が文学をテーマ(形而上学的、メタ文学)にするというものでした。ボルヘスはそれを可能にするために推理小説のプロットを大胆に利用しています。しかし、こうした実験的な物語は、当時の社会主義リアリズムの作品ばかりに熱をあげていた南米の人々にアピールすることはありません。『八岐の園』が刊行されても、相変わらずボルヘスの評判は「スル」誌の仲間うちだけだったといいます。ボルヘスの日常は、何も変わりませんでした。家と図書館とカフェを行ったり来たりの日々はまだまだ続きます。
カフェではボルヘスは常連の作家たちとジャーナリズムや文学談義に花を咲かせますが、ボルヘスはほとんどの場合、聞き役にまわり自分の作品のことをしゃしゃり出て語ることはなかったといいます。ボルヘスは一対一の会話を好む方だったのです。何人もの人の中にはいると、いつも心ここにあらずのような落ち着かない感じがありました。

小さな出版社から「編集」をまかされる

日本が太平洋戦争を戦っている間(1943年)、ボルヘスはすでにあらゆる反小説の方法から推理小説の手法、人間の頭で考えつくかぎりの物語の手法について友人のビオイ=カサレス(『モレルの発明』の著者)とともに徹底的に話しあっていました。そしてそこからいろんなテクストが生み出されています。作者の正体が疑わしいもの、理解不能のプロット、難解なジョーク、小説の秩序を転覆しようというもの、そして物語が浸っている自己満足をパロディ化し攻撃するもの、すべてが反エリートで反文学的な戯れでした。なかでも『イシドロ・パロディの6つの難事件』(1942)は傑作とされています。
小さな出版社エメセ社と関係がはじまります。薄い短編小説叢書の編集についてエメセ社がボルヘスに意見を求めてきました。ボルヘスは自らジョイスカフカ、フォークナー、メルヴィルらの作品を翻訳して掲載し、ヘンリー・ジェームズやトマス・カーライルらの作品の序文を書いています。また、アルゼンチンで最も優れた「短編推理小説」(ビオイと共同編集)の編集を提案し、その好結果から「長編推理小説叢書」の編集もまかされます。このエメセ社は、1951年からボルヘスが亡くなるまで、ボルヘスの詩と散文の出版物のほとんどすべて引き受けるスペイン語圏の出版社となっていきます。エメセ社の仕事は、一つには図書館からの収入を補うためでもありましたが、エメセ社での編集の仕事は、女性に縁遠かったボルヘスに得難い機会になっていきます。最初の共編集者は「スル」誌の文人仲間で知名度のあるシルビナ・ブルリッチでした。シルビナはボルヘスの母とも気が合うようになり、娘のように仲睦まじくなった女性でした。ボルヘスはこれ以降も、アンソロジーなどを共編集する度に必ず「女性」と組むようになります。こうしたかたちでの女性たちとの友情はボルヘスにとって得難いものでした。

ヌーヴォー・ロマン派やポストモダン派に大きな影響を与える

1946年、日本で焼け野原が広がり闇市が溢れていた頃、後に世界的に知られることになる『伝奇集(フィクシオーネス)』(『八岐の園』と『工匠集』から成る)が出版されます。この作品は『八岐の園』だけの時よりもかなり売れ、アルゼンチン作家協会はボルヘスのために特別に栄誉大賞を創設しているほどです。それでもこの時期、ボルヘスの作品はまだ売れているといえる段階にはありません。エメセ社は小さな出版社でした。どの国でも出版物は、営利目的の商業出版社が扱うようになってその広告宣伝力にものをいわせて大部数が売れるようになるというわけです。
ボルヘスの実験的短篇小説群とボルヘスの名前が、世界に広く衝撃波となって伝わるのはサミュエル・ベケットとともにフォルメントル国際出版社賞を受賞した1960年以降と言われています。そのはるか以前に、博学の伝統につながる多種多様な引用が織り込まれた迷宮のようなテキストや実験的短篇小説をボルヘスはつくりだしていました。そのボルヘス宇宙は、ミシャル・ビュトールやアラン・ロブ=グリエらのヌーヴォー・ロマン派や、ジョン・バーストマス・ピンチョンポストモダン派に大きな影響を与えていきます。
その一方、ボルヘスの現実生活は、ファシズム的なペロン政権の匂いを指摘したため、図書館職員を降ろされ、家畜検査員をあてがわれる仕打ちを受けます(10年間つづく)。そして1955年にペロンが政権を追われると、視力を完全に失いながらボルヘス国立図書館の館長に抜擢され、翌年、ブエノスアイレス大学の英文学教授職に就いたのでした。その後のボルヘスのことは皆さんもよく知られていることとおもいます。
ボルヘスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、自身は視力を失いながらも、世界の多くの作家や「創造者」たちに「新たな視界」を開かせる触媒となり存在になります。そして世界各地にボルヘスの「創造の樹」の種は、撒かれていったのです。その樹は、虚構がもたらす幻想ではなく、”リアル”(”実在感”をもって)に読者の心の内に立ちあらわれるものでした。それこそボルヘスがつくりだした創造の「方法」だったのです。