マドンナの「Mind Tree」(4)- 「ダンサ−」から「歌も歌えるダンサー」へ自己イメージを変換する


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「ダンサ−」から「歌も歌えるダンサー」へ自己イメージを変換する

▶(3)からの続き:パール・ラングのダンス・カンパニーを去ることに決めたマドンナ(20歳の時)でしたが、依然ダンサーの道を模索しています。自宅で稽古をし単発的にダンスのレッスンも受けています。グラフィティ・アーティストのノリス・バロウズ、ミュージシャンのダン・ギルロイと付き合い一時的に同棲していたのもこの頃です。
マドンナはフランス人歌手のパトリック・ヘルナンデスのステージで踊る仕事をみつけます。実際パリに行きましたが現地に入り待機している間にその企画は流れてしまいます。しかし、パリでマドンナは、自身の「マインド・イメージ」をチェンジするきっかけをつかむことになります。それは「ダンサ−」から「歌も歌えるダンサー」への自己イメージの変換でした。21歳の時でした。マドンナはムーラン・ルージュの本場のショーガールを目撃し、ユーロディスコのエッセンスも吸収していきます。カフェで大いに人脈づくりをし、社交を楽しみましたが、キャリアはまったく進行しないままに帰国しています。
アメリカに戻ったマドンナは、早速、行動開始します。オーディション情報誌「バック・ステージ」を手に入れ、「ダンスができて無報酬で働くことをいとわない情熱的な女性求む」の広告に反応しました。それは映画のキャスト応募の広告でした。履歴書を2ページ書き上げ射止めたのはB級映画「マドンナ in 生贄(いきにえ)」(スティーブン・ジョン・ルウィッキ監督)の役でした。途中で座礁してしまうことはすでにパリでも経験済みだったので、マドンナはへこたれることなく自己イメージにかたちを与えていきます(この映画は撮影途中で予算がつき、完成したのはマドンナが有名になってからのことでした)。

22歳の時、ミュージシャンとして目覚めはじめる。「バンドのメンバー」に

22歳の時(1980年)、マドンナはミュージシャンとして「目覚め」つつありました。「ダンサ−」から「歌も歌えるダンサー」への自己イメージの変換の実践です。マンハッタンのイースト・リバーの東部クィーンズ地区の荒れ果てた古いシナゴーグで恋人のダン・ギルロイとその兄弟たちと暮らし始めます。そしてマドンナはダン・ギルロイが率いる「バンドのメンバー」になるのです。翌23歳の時、マドンナはゴッサム・レコードの代表者カミール・バーボンに自身を売り込みます。マドンナはカミーユをライブに誘いますが、姿をみせなかったのでオフィスに怒鳴り込むほど真剣でした。ついにカミールはマドンナのライブを見て、ストリートぽく、ざらついた声色、アグレッシブさに感じ入ります。才能があるミュージシャンを見いだしたというのではなかったといいます。マドンナの狙いと、売り出す方の狙いとがお互いの「マインド・イメージ」のなかで絡み合います。カミールは、マドンナの放つ個性とパフォーマーとしての資質に可能性を描きだしたのです。じつは音楽面に関しては、曲が少し書けてギターがそこそこ弾け、歌詞のセンスに光るものがあるという程度という評価でした。当時30歳のカミールもマドンナに劣らずエネルギッシュな女性でした。カミールは今のバンドと手を切るという条件でマネージャーになると切り出しました。こうしてマドンナはカミールと契約しました。週給100ドルだったといいます。
この頃マドンナはバンド活動を続けるため、食事にも苦慮しだし通りで男を引っ掛けて生き抜いてきていたといいます。マドンナがあまりにも治安の悪い汚い部屋で生活していたので、カミールは新しいアパートに引っ越させます。カミーユとマドンナは強力なタッグを組みました。マドンナの将来性を見いだすことができたのは、数多い音楽マネージャーのなかのわずかな女性マネージャーだったのです。お互いの「マインド・イメージ」を摺(す)り合わせることができたことが、マドンナの可能性をひろげることになったにちがいありません。

マネージャーのカミールと「バンド」が”家族代わり”に

カミールは、マドンナは外では大胆不敵に振る舞いまっていましたが、とても傷つきやすく、その矛盾がマドンナに魅力を吹き込んでいたといいます。ひどく依存的な面をみせる時があまりにも多く、カミールは母性本能をくすぐられたようになります。女らしい面が自然にでてこないのは継母との無慈悲な関係からくるものかもしれません。マドンナにはもはや「家族」といえるものはなく、カミールと「バンド」が”家族代わり”になっていました。カミールはマドンナの散らかった部屋を片付け、食事を買ってきたり、歯の治療に行かせたり、夜の電話の相手をしたりしました。早朝の4時に「眠れない」と電話してきたり、突然玄関にあらわれて映画に連れていってとねだったりするのです。またマドンナはクラブでの演奏がはけても疲れ知らずで、いつもドライブに連れていかなくては眠ろうとしなかったといいます。
カミールとマドンナは強く惹かれ合っていました。マドンナは2人の関係をさらに太くするためセクシャルな関係にもちこもうとしましたが、カミールはかわしたといいます。デモテープを幾つものレコード会社に持ち込んでもすぐに食いついてくる所などなかなかありません。いっこうに好転しない状況にマドンナは苛立ちをみせはじめていましたが、クラブ「ジ・アンダーグラウンド」でのライブが成功すると、元ニューヨーク・ドールズデヴィッド・ヨハンセンが催す大晦日ライブにも出演。ヨハンセンはマドンナをMTVのパーティーに連れて行き、有力者たちに紹介したのです。カミールの及びもつかないところで、プロモーターやレコード会社がマドンナを引き抜こうと動きだしていたのです。

ブロンディのデボラ・ハリーに影響を受ける

1980年代初期になってもメインストリームの音楽界では女性アーチストの成功例はまだわずかでした(フリームーブメントに湧いた70年代でも挑発的な女性リードヴォーカルはポップス界ではなかなか受け入れられなかった)。この頃、マドンナの「役割モデル」は、ブロンディのデボラ・ハリーとプリテンダーズのクリッシーでした。「カメラがデボラ・ハリーに恋してる」と言われるほどセクシーで、自立したイメージ、自分で曲を書き、自分のスタイルをもち、自分の力で進化していくデボラ・ハリーからは大きな影響を受けていました。レコード会社のお仕着せではないデボラ・ハリーは、マドンナにとって世界一番カッコイイ人にみえたといいます。マドンナはまだ歌も今一つでカメラ映りもいいといえる段階にはなかったのですが、それでも何度も勇気づけられたといいます。

10代の女の子グループの追っかけがあらわれる。女性の反感がなかった。

カミールの戦略はプロのメンバーでバンドをつくりあげることでした(ドラマーはマドンナと関係を持ち解雇。旧知のスティーブ・ブレイにするためのマドンナの策略だった)。デモテープづくりの段階ではロックとダンスミュージックの間を揺れ動きサウンドが定まらなかったのですが、クラブや大学の学生会館のパーティで定期的に演奏するようになると、14歳の女の子グループの追っかけがあらわれだしたのです。デビュー当時のファンはティーンエイジャーの少女たちでした。気取りのない歌詞の内容とわかりやすい言葉、女性たちの身近なテーマで語りかけたマドンナの音楽と衣装は、女性の反感を買うことなく、むしろマドンナの自由な精神に憧れだしたのです。
マドンナはステージを、ひとり快楽にふけっている女性を観客がのぞき見ているように仕立てあげていました。ステージは、マドンナの「マインド・イメージ」を映し出したもので、つまり心の中を投影させたステージングだったのです(一種のナルシシズムも入っていましたが)。セクシャルなしぐさや服装はを追っかけの少女たちにアピールし、彼女たちはすぐにマドンナのような網タイツとパンプスで自身を装いだしたのです。
初アルバムのリリース後、売り上げは順調でしたが、マドンナはもう一段階上を狙いました。デビッド・ボウイのファンだったマドンナは、ボウイの斬新なアルバム『レッツ・ダンス』の立役者ナイル・ロジャースに目をつけます。ワーナー・ブラザーズの役員たちとともにマドンナのステージに観たナイル・ロジャースは、ステージで展開されている歌と踊りがブラックミュージックの伝統からくるもので、ひとりの白人娘がそれを復活させていると見抜いたのです。

他人の曲「ライク・ア・ヴァージン」に、どう「マインド・イメージ」を投影させたか

マドンナの初期ヒット曲「ライク・ア・ヴァージン」は、作詞家としてまだ名をなしていなかったトムとビリーのコンビがつくりだしたものでした(リンダ・ロンシュタットやパット・ベネターの曲でヒット作はだしていたが)。ビリー自身の辛い離婚の経験とその後の奇跡の出会いを歌詞にこめていたものでした。売り込み先で断られ続けましたが、ワーナーの幹部がひらめきマドンナにぴったり合う曲だとその曲を買い取ったのです。マドンナですら当初悪趣味と感じた曲でしたが、以前から関心があった「処女と娼婦」のテーマは、自分の「マインド・イメージ」を映し出しているとして、ナイル・ロジャースの反対を押し切ってこの曲をアルバムに入れました。「処女を失うことは女の子にとって一番大切なことなの。世の中の女の子すべてにかかわることなんだから」と。ここでもマドンナは、女性たちの身近なテーマで語りかけたのでした。ちなみに「ライク・ア・ヴァージン」のレコード・ジャケットには、自分が履いたデニムジーンズ股をクローズアップさせた写真を用いています。フロントジッパーがついたジーンズを履いた女性が家に来ると、イエスの聖心像を布で覆い隠すほどの敬虔なカトリック教徒だった母、その幼少期の記憶も重ねられています。他人がつくった曲にもかかわらず、こうした 点からも自己の「マインド・イメージ」を曲にしっかりと投影(リフレクション)させることができることのもマドンナの強みかもしれません。その「マインド・イメージ」は、それを聴く観客たちにも投影され、観客たちも彼女ら自身のそれぞれの「マインド・イメージ」をマドンナに投影させていくのです。
マドンナの「マインド・ツリー(心の樹)」が、写真集『Sex』の頃に大きな亀裂をみせますが、3つの「マインド・イメージ」の融合で成立してきたマドンナの「心の樹」は決して倒れることはありませんでした。▶