ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「Mind Tree」(3)- 「偉人の生涯を編集」する文学的悪戯が、文学的出発点に


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好んで読み返していた「短編小説」。最初の短篇小説の執筆には6年かかる

▶(2)からの続き:ボルヘスは「短編小説」のスナイパー、名手です。それはボルヘスの読書スタイルの傾向と習慣の結実でもあります。ボルヘスがつねに読み、好んで読み返していたのは「短編小説」で、長編小説は義務感にかられたので読んでいたといいます。研ぎすまされ磨かれた言葉の使用と節約術はボルヘスを感嘆させ、もしその短編が見事な起承転結をもっていればボルヘスを驚喜させました。キップリング、チェスタートン、エドガー・アラン・ポー、ヘンリー・ジェームズ、ホーソンコンラッド、スティーブンソン、レーン版の『千夜一夜物語』の作品は、ボルヘスの宇宙のとりまきになり、欠かせない心の友になりました。
そんなボルヘスも長い間、短編小説は自身の手にあまるものだとおもっていたといいます。28歳に3〜4カ月かかって書きあげた短篇『男たちは戦った』は、うけも悪く自意識過剰の産物でした。言葉を削ぎ落としすっきりした内容と構成をもった最初の短編『バラ色の街角の男』(1933年)に到達するまで結局6年余もかかっています(すでに34歳になっていました)。この短編は後にボルヘスの著作物に入るようになっていますが、それでも作家として自信に満ち溢れた出世作というものでもありません。しかしその間に時は熟してきていました。『バラ色の街角の男』を書きあげた同年から翌年にかけ、ボルヘスは「批評」紙に『汚辱の世界史』という短篇ともエッセーともつかない文を寄稿するようになります。じつはボルヘスが作家として真の出発と考えるものはこの時の奇妙な内容をもった一連の文だったのです。

「偉人の生涯を編集」する文学的悪戯が、文学的出発点に

この『汚辱の世界史』は、6年以上にわたってボルヘスが懊悩呻吟(おうのうしんぎん)してきた短篇小説の方法ではなく、世界の有名な人物の生涯(自伝)を読み、なんとそれを気のおもむくままに改竄(かいざん)し、勝手にボルヘスが手を入れ潤色したものだったのです。芝居でいうならば脚本ではなく、「脚色」のようなもので、さらにいえば、脚本を一方的に捏造(ねつぞう)し、疑似エッセー風に仕立て上げるといった風で、まったく(文学的な)悪戯とすらいえる代物でした。しかしそこには自由な解釈があれば、偉人を手玉にした空想もあり、完全に「編集された生涯」が展開されたのでした(とはいえどんな自伝でもおよそ編集されていない自伝など存在せず、淡々として日常や気ばらしに何処そこに行ったとか、思春期の悪魔的なことなど詳細に書かれることなどなく、ウィキペディアでも世界史上に残る作品が著されるまでの貴重で苦難の作家の一年はせいぜい一行に圧縮されます。映画の脚本の1頁がスクリーン上の1分のように。数百頁にのぼる本格的な自伝であっても、編集されていない自伝など存在しません。人はエピソード記憶の集合体でもありますから)。そして『汚辱の世界史』はもともと後に本に纏めようと書いていたものではなく、雑誌での読み切りものだったのです。そのため偉人の生涯という全体の構図があるなかで自由闊達に想像を膨らませて書きなぐった『汚辱の世界史』は、後にボルヘスが現実とフィクションをないまぜにした虚々実々の世界を生み出す原型の一つとなりました。

36歳、収入がなくなり不眠症に悩まされる

『汚辱の世界史』で展開させた方法論は、豊かな学識に裏打ちされた内容と文体で、存在しない書物を書評するボルヘス一流のエッセイ文の源流となる短篇「アル・ムターシムを求めて」を予見させました。「アル・ムターシムを求めて」はボルヘスが蓄積してきた知識にかたちを与える実践でもありました。秀逸なアイデアが与えられれば、ボルヘスの「マインド・ツリー(心の樹)」は受精する準備は整いはじめていたのです。37歳(1936年)の時、2冊目の著作『永遠の歴史』(時間と形而上学についてのエッセイ集)が出版されます(小さな専門書出版社だったということもあり『永遠の歴史』は、その年末までに売れた冊数はわずか37部だった)。しかし活発に受精する枝葉とは裏腹に、ボルヘスの「心の樹」の陰はじょじょに大きくなっていたのです。『永遠の歴史』が出版される頃には、「心の樹」の日陰はあまりにも大きく深くなり、日溜まりは消えてなくなっていました。
じつはその1年前、編集に携わっていた「批評(クリティカ)」紙の仕事を終えていたため、36歳の時まったく収入が無くなってしまったのです。この時期ボルヘスははじめて不眠症にかかり、かなり悩まされるようになっています。父の方も数年前から視力をほとんど失い、さらに心臓病を患い働ける状態でなくなっています。世界恐慌の余波がアルゼンチンにも押し寄せ、年金による生活も容易ではない状況です。ボルヘスは再び編集の仕事を探そうとします。なんとか見つけた仕事は「エル・オガール」という絵入りの雑誌の編集で、外国の書籍や作家を取りあげる欄を担当することになりました。この職を得たことで、ボルヘスの樹勢が再び活気づきました。

市立図書館で初めての常勤の仕事に就いたボルヘス

38歳の時、ボルヘスは初めての常勤の仕事に就きました。ブエノスアイレスでは2番目にできた市立図書館の分室の一等補佐員(第一助手として)としての仕事でした。懇意なある夫妻の斡旋を通じてのものでした。未整理の蔵書を分類し目録を作成することがおもな仕事でしたが、15人もいれば充分まかなえそうな仕事になんと50人も職員がいました(最初何もわからないボルヘスが一生懸命仕事をすると、お前は皆から職をとりあげよとするのかと非難されたという)。そしてボルヘスはこの市立図書館に、これ以降9年間勤めることになります。この市立図書館時代は、ボルヘスの「マインド・ツリー(心の樹)」が数倍にも成長する重要な季節となるのです。
同僚からはボルヘスは9年間もの間、ずっと退屈者扱いされ続けました。1本だけ異種の樹が混じり込んでしまった感じでした。他の大勢の図書館員たちは、さすがアルゼンチンだけあってサッカーの話で盛り上がったかとおもえば、つづいて競馬の話になるか猥談と相場は決まっていました。ボルヘスはそうした話の輪にはまったく加わることはありませんでした。しかもそれが9年間つづいたのです。ある意味偏屈ではないとできないにちがいありません。毎日ボルヘスがやることといえば、仕事はじめの最初の1時間で仕事をかたずけ、残りの5時間を誰も来ない地下室に行って本を読むことでした。しかも天気の良い日には屋上に行ってものを書くことだってできたといいます。作家として成熟しようとしていたボルヘスにとって望んでもえられないような好環境だったのです。もっともこの間に、世間的にはボルヘスはかなり有名な作家になっていました。蔵書の整理で同じ名前に気づく者がいたり、若い女性(ボルヘスの著書のファン)が何度も勤務先のボルヘスに会いに来たりしていましたが、結局図書館員たちは誰もボルヘスのことに気づかなかったといいます。市立図書館内だけは、重要犯罪人が街に逃げこんだりするのに似て、誰もボルヘスを知らないという事態はなかなか興味深いものがあります。

勤務時間中に読書、執筆する

すべての職業にその黄金期があるように、この時代の図書館はある意味黄金期だったにちがいありません。市立図書館は南米最大ともいわれるようになる作家の揺籃期に場所を提供したのですから。ボルヘスは、後の短編集『八岐の園』に載ることになる「円環の廃墟」「死とコンパス」「バビロニアの富クジ」などすべてこの勤務時間中に書いています。それ以外にも、地下でカフカを翻訳したり雑誌への寄稿文を書き続けてもいます。充分な収入のあてのない作家にとってこれほど心強い働き場所があるでしょうか(いくらアルゼンチンの市立図書館でも今日では望めないでしょうが)。
また図書館に通勤する時間も電車で1時間程と、読書には最適で、ボルヘスは通勤時間にダンテの『神曲』やギボンの『ローマ帝国衰亡史』全6巻、『アルゼンチン共和国史』の多くの巻だけでなく、バーナード・ショウ、グルーサック、レオン・ブロワクローデルを読んだのも図書館への通勤・帰宅時間中でした。休日はウィリアム・フォークナーヴァージニア・ウルフの翻訳にあてていたといいます。カフカ風の悪夢の物語で知られる『バベルの図書館』はこの市立図書館が舞台で、デフォルメされていますがベースはこの実際にボルヘスが勤務していた図書館でした。

”アラフォー”のボルヘス。恋愛感情をどうすればいいのか悩む

ボルヘスは”アラフォー”の40歳前後になってもずっと実家で暮らしていました。この図書館時代には、「心の樹」の知的な枝ぶりはいっそう伸長し見事なまでの樹姿になっていきますが、あまりに偏ってその枝葉を成長させたために、まったく”芽”もでるそぶりもない”枝”もありました。それは「異性」に対する恋愛感情面の”心の枝葉”でした。もうそうした枝はつけないと決意し、”芽”をつぶしてでもいれば話は別ですが、ボルヘスの場合、そういうつもりもないままほったらかしにして来てしまっただけに、どう扱ってよいのやらその後、問題の種になっていきます。
▶(4)に続く