ビョークの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 「ビョーク」という名前は、「樺の木」という意味

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はじめに

グローバルな音楽シーンの中でも際立った存在になって久しいアイスランド出身の女性ミュージシャン、ビョーク。ファースト・アルバム『デビュー』(1993年)発表以降、『ホモジェニック』『ヴェスパタイン』といった実験精神溢れたサウンド面だけでなく、独特なコスチュームとメイクアップ、さらにはミュージックビデオ、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主演、写真家荒木経惟川久保玲らとの様々なコラボレーションなど、つねにその冒険的な取り組みは話題を振りまいてきました。
ビョークは28歳で「デビュー」した途端、そのソプラノ・ヴォイスと多彩な音楽スタイルで一気に世界的に知れ渡り、才能が開花したようにみえますが、それ以前のおよそ8年間、人気インディーズバンド「ザ・シュガーキューブス」のメンバーとして活動していました。またビョークがイギリスで吹き荒れたパンク・ムーブメントに呼応してバンドを結成したのは14歳の時。さらにアイスランドの古い民話や童話などを歌って最初にソロ・デビューしたのは、12歳の時でした。そしてさらにビョークの音楽の源流は時を越えて遡ることができます。その”根っ子”はアイスランド島の「自然」といってもいいかもしれません。
2008年に発表したアルバム『Nattura』は、母国アイスランドの自然環境保護キャンペーン「Nattura」のために書き下ろされたものでした。ビョークの心のうちには何があるのか、ビョークをかたちづくったのは何なのか、ビョークはどのように世界の歌姫になっていったのか、一緒にビョークの”ライフ・ステージ”をみてみましょう。

労働組合のリーダー」の父と「社会活動家」の母

ビョーク(Björk Guðmundsdóttir:ビョーク・グズムンズドッティル)は1965年11月21日、アイスランドの首都、レイキャビクで誕生しています。父グズムンドル・グンナルソンは電気技師でした。後に労働組合のリーダー(a union leader )となって皆を統率していくので、気難しいエンジニア・タイプではなかったようです。母ヒルドゥル・ホイクスドッティルは自伝ではたんに会社員となっていたりしますが、その一方で地元の論争の的になっている水力発電開発に反対する「社会活動家(activist)」でした。「労働組合のリーダー」と「社会活動家」の間に生まれ落ちた少女がビョークでした。社会や環境に対する両親の厳しい姿勢は、ビョークのスピリットに少なからぬ影響を与えることになります。
しかしこの両親の考えや姿勢が一体となって、幼少期から少女ビョークに影響を与えたわけではありませんでした。ビョークがわずか2歳(1歳とも)の時に、両親は離婚しているからです。もっとも父か母のどちらかに完全に引き取られたというのではなく(円満に別れたということらしい)、ビョークは父と母の家を行ったり来たりして幼年期を過ごしたといいます。幼少のことなので基本的には母の所が多かったとおもわれます。

離婚した母はボヘミアン的暮らしをつづけた

1960年代半ばに20歳を迎えていた母は、世界を席巻したボヘミアン的な感性の持ち主だったようです。ビョークはかつて母はフェミニストでヒッピーで、反逆者でもあったと語っていましたが、ヒッピーの世界的流行は当時孤島のアイスランドにまでは押し寄せておらず、母ヒルドゥルは後に自分はヒッピーではなかったと語っています。ただミュージシャンや詩人、ボヘミアンたちとともにアパートを借りて住んでいたといい、当時のアイスランドではかなり変わった生活スタイルだったことは間違いありません。アメリカのヒッピーは都会でなければ自然の中に入り込むようにして暮らした者も多くいました。
しかしここアイスランドでは、川で水浴びをしたり裸で陽光の下で瞑想をしたり、生い茂る樹木の下で眠るような「環境」にはありません。父と別れてからミュージシャンや詩人やボヘミアンとともに一緒にアパートで暮らしていた母ヒルドゥルは、アメリカでいうところのヒッピーでなくとも、ヒッピー的な感覚のアイスランド的なあらわれの中で生活していたといっていいでしょう。母ヒルドゥル離婚後、数年後に(ビョーク4歳の時)再婚することになります。相手は「ポップス」というローカルバンドのギタリスト、サイヴァル・アルナソンというミュージシャンでした。このサイヴァルがビョークの義父になりますが、義父の存在が幼少期から”魂”に響いていた音楽への関心を決定的にしました。サイヴァルの家にはレイキャビクのロックシーンの仲間がよく集まっていたといいます。ジャム・セッションになるとビョークは目を丸くして興味深かげにその光景をみつめていました。

ビョーク」という名前は、「樺の木」という意味

両親はまだ仲睦まじかった時、産まれた娘に「ビョークBjork)」という名前を与えました。アイスランドでは比較的つけられるファースト・ネームかと思いきや、アイスランドでもまずない珍しい名前だといいます。なぜなら「Bjork」とはアイスランド語で「樺の木(カバノキ)」という意味で、アイスランドには「樺の木」は実際には存在しないのです。樺の木どころか、アイスランドは2010年春の大噴火が記憶に新しいように、アイスランドという島自体が大規模な火山島で(東西約500キロ、南北約400キロ)植物の生育環境にはまったく適していない地なのです。北半球の亜寒帯から温帯にかけて広く分布するはずの「樺の木」も、アイスランド島には根をおろし生育することはありません。
日本でも「白樺(シラカバ)」として「高原の木」として知られていますが、アイスランド島の中央部にある広大な中央高地(標高400〜500メートル)は、この「高原の木」を寄せつけないほどの寒冷で、人も植物も存在しない「不毛の地」になっています。雨や雪が水分をもたらしても植物が吸収できないほど早く地下に流れこんでしまう溶岩や火山灰からできた地面のためです。両親はその「不毛の地」の中央高地に一本の木を育てたい、という思いで「ビョーク」という名前をつけたのかもしれません。
日本の写真家ホンマ・タカシがアイスランドで撮影した写真集『Hyper Ballad—Icelandic Suburban Landscapes』にはのっぺりした土地に舗装された道路、青空の下に映える白くてモダンで書き割り的な家々は、それが活動中の巨大な火山島の上にあることを忘れさらせます。また世界中の何処にでもみつけることができる郊外の風景となんら変わりありません。しかしその写真の中、自然さを強調しているかのような樹木(主にポプラ)は外部から島に持ち込まれ植林されたものなのです。そして家々の背景に広がる樹木のないのっぺりとした土地は、植物の生育にはまったく適さない土壌がただ広がるばかりです。

3歳、「サウンド・オブ・ミュージック」を全曲歌った

ビョークの音楽的センスはすでに3歳の時には明らかにあらわれています。3歳にして「サウンド・オブ・ミュージック」を全曲歌うことができたといいます。ギタリストの義父サイヴァルのジャム・セッションを興味深げに見ていたのはこの頃からだとおもわれます(再婚前から母ヒルドゥルは付き合っていたでしょうから)。ビョークの音楽への関心は次第に深まり、4歳の時には自分で曲をつくりはじめたり、5歳(7歳とも)になるとパラミュジクスコラ・レイキャビク音楽学校に通いはじめます。学校ではオーボエやリコーダー、ピアノのレッソンを受けますが、ビョークが最も関心をもったのは「歌うこと」だったといいます。ビョークが「歌うこと」に惹かれたのは、母のアパートでの音楽体験や詩の朗読にくわえ、ラジオから流れてくる「物語」を聴いたり、家族や周りの人たちと「物語」を読みあったりした体験が大きな影響を与えているようです。そのどれもが直接的に人の口を介して、人の声でビョークの耳に届いたものばかりです。
1970年代初頭、アイスランドには子供たちだけでなく、大人たちの欲求を満足させるような娯楽もほとんどなかった時代でした。テレビも1日3時間の放送(週6日)だけで、ラジオが日常にかかせない時代で、いろんな「物語」がラジオから聴こえてきたようです。その中にはアイスランドの民話やサガ(神話)も聴こえてきたにちがいありません。▶(2)に続く