フェデリコ・フェリーニの「Mind Tree」(2)- *少年少女向けの新聞の「漫画」と「冒険小説」に夢中

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少年少女向けの新聞の「漫画」と「冒険小説」に夢中に

(1)からの続き:祖母の家で過ごした夏の出来事や「サーカス」との出会いの他に、フェリーニ少年の「心の樹」の栄養分になったものがあります。それはちょうどフェリーニが生まれた1920年頃に発売されるようになった少年少女向けの新聞「コリエーレ・ディ・ピッコリ」(1920〜30年代)に載っていたユーモラスな「漫画」でした。同じ主人公が一話一話独立した物語の中に登場する表現スタイルは、フェリーニ少年の「マインド・イメージ」に大きな影響を与えます。フェリーニの映画の多くがオムニバス(断片)形式から成っているのは、少年時代に熱中した「漫画」の表現スタイルの影響に寄っているといわれています。また同じ頃、子供向けのエミリオ・サルガーリの「冒険小説」にも熱中しています。独りで何時間でも絵を描きつづけていた大人しいフェリーニ少年もこの「冒険小説」には血沸き肉踊ったようで、珍しく海賊ごっこをして遊んでいたといいます。内気ではにかみ屋だったフェリーニ少年がじょじょに外の世界に「冒険」するようになっていきました。この時期、引っ越し好きだった父のせいで、フェリーニ家は同じ街の中で何度も住所を変えています。

あだ名は「ガンジー」。10歳、悪戯好きな性格が芽生える

映画『アマルコルド』に登場するティッタ少年のように優しく、内気だったフェリーニは、皆から「ガンジー」という渾名(あだな)をつけられていました。後の恰幅のいいフェリーニからは想像もつきませんがこの頃は身体はがりがりに痩せて、それを見られるのが嫌で裸になって泳がないようにしていたほどでした。そんなフェリーニ少年は、町にサーカスがやって来るようになると一日中テントのそばにいるようになったといいます。
そんな大人しいフェリーニが「変身」しはじめたのは、10歳の時(1930年)でした。フェリーニジュリアス・シーザー後期中等学校(ギムナジウム)に通いだします。この頃からフェリーニ少年は、まるで自分が「漫画」の中の主人公になったかのように、いろんな悪戯に手をそめはじめます。後にフェリーニが投稿するようになるコントにしょっちゅう登場するのが、この学校で8年間机を並べることになったルイージ・ベンツィ(愛称チッタ)でした。チッタとフェリーニは他の生徒たちとにわか少年窃盗グループをつくり近所の商店をうろついては売り物をくすねるようになっていきます。そのほとんどは他愛もないバカ騒ぎの延長のようなものだったようですが、性懲りも無い悪ガキたちに大人たちは怒り心頭。それをみたチッタとフェリーニは大人たちの鼻をあかしたと悦に入ります。”商人の貴公子”の父は仕事柄家を空けることが多く、フェリーニ少年は母の目の届かない所で悪さし放題。母イーダはすっかり悪ガキになってしまった息子に手を焼いてしまっています。父はかつて自分も口八丁手八丁で鳴らした男だっただけに息子たちはほったらかしで、厳しく躾けられてきた母イーダはなんとか息子たちを躾ようとやっきになります。後にフェリーニは、子供たちを自分の思い通りに支配せず、その成長をじっと見守って育ててくれた父に共感を示しています。

「観察」する習慣を身につける。「マルクス兄弟」の映画に魅了される

学校では何も覚えていないという程、ほとんど勉強らしい勉強をしなかったフェリーニですが、校内や学校の外でさまざまなものを「観察」する習慣を身につけたようです。それは学校でならばうっとうしい先生のカリカチュアを描くために、通りでならばユーモア・コントを描くために。深く「観察」している間は、こちらは黙っていることになるので、視覚だけでなく他の感覚も研ぎすまされるようになります。向かいの家もれくる匂いだとか、遠くの鐘の音を聞き分けたり、過ぎゆく「時」の沈黙すら感じとるようになります。
リミニの町には映画館が一軒ありました。フェリーニはそこそこ通っていたようです(足繁く通ったのはやはりサーカス)。フェリーニチャップリンよりもキートンの方が好きでした。当時大人気だったグレタ・ガルボゲーリー・クーパーハンフリー・ボガードらトップスターには目もくれず(実際その手に映画や演技は耐えられなかったという)、キートンでなければローレル&ハーディを観たりしています。でも身体に稲妻が走ったように感激したのは「マルクス兄弟」の映画でした。「マルクス兄弟」はずっとフェリーニの<精神的なゴッドファーザー>だったと語っています。

フェリーニはいつも「人間(ひと)」を描いていた

悪戯好きはさておいてもフェリーニの漫画の腕は年々あがっていっていました。漫画のほとんどはフェリーニの目がとまった人を描いたものでした。少年期を遡っても、フェリーニ少年の心を魅了してきたのは、祖母の家の土地の人々やサーカスの道化師たちで、やはり「人間(ひと)」でした。フェリーニの「マインド・イメージ」に定着したものは、それがどんなに幻想的で神秘的なものであろうと、およそ「人間(ひと)」がいない「イメージ」ではありえませんでした。逆に、フェリーニの幻想空間といわれている代表的な「イメージ」は(『8 1/2』でも『アマルコルド』でも『フェリーニのローマ』でも)、大勢の「人間(ひと)」で溢れかえっています。それはまさに「サーカス」の舞台そのものです。それは間違いなくフェリーニに深く沈潜していた「マインド・イメージ」が要請した「イメージ」なのです。
16歳の時に、フェリーニ少年が描いた(風刺)漫画も、「人間(ひと)」で満ちています。滅多に行くこともないリミニの街から15キロも山奥に入った所で催された少年キャンプの時でも、フェリーニが描いたのは少年歩兵団の風刺漫画でした。山岳や自然の風景を描くことはまずありません。学校でもいつも描いていたのは教師たちでした。フェリーニの描く人物は風刺的であってユーモラスでした。フェリーニの独特の人物描写能力と(風刺)漫画は、やがて噂となってリミニの町中にひろがっていきました。でフェリーニの漫画の噂が、の姿をカラフルな漫画に仕立てている。や中で催されたに参加し、キャンプ中に少年歩兵団の風刺漫画を何点かますが、フェリーニはこのキャンプ中に描いた仕上げています。▶(3)に続く-近日up