パティ・スミスの「Mind Tree」(3)- 21歳。ニューヨークへ。メイプルソープとシンクロニシティ

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学校をドロップアウト、子供を養子にだす

▶(2)からの続き:パティはグラスボロー・ステート教員大学の卒業の直前に妊娠しました。パティは学校をドロップアウトし(妊娠したため、美術の教師課程から外された)、子供を産み、養子に出すことを決意します。赤ちゃんはフィラデルフィア近郊の家に送り届けられ、その悲しみは消え去ることはありませんでした。パティは命の大切さ、そして貧乏から脱出することを探りますがすぐに答えはでてきません。この時期、パティはニュージャージーの人里離れた郊外に友人たちと移り住んでいます。その時、沈みこんだ気持ちを支えてくれたのがボブ・ディランのアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』でした。
パティの最初のシングル曲「ピス・ファクトリー」のインスピレーションとなったサウス・ジャージーのウッズベリーにあるおもちゃ工場で働き始めたのはこの直後のことでした。働けば働くほどパティの心は砕け散っていきました。パティは絶えず追放者になった感覚に襲われていたといいます。退屈な反復作業を終えれば、ディランのドキュメンタリー映画「ドント・ルック・バック」のなかで映しだされたディランの歩き方を真似、少しでも気分をあげて家路に着く日々。「汽車に乗ってニューヨークへ行くわ。私はビッグスターになるの。決してこんな消耗する小便工場なんかには戻らないわ」(「ピス・ファクトリー」より)。

アーティストの<悲劇の愛人>になることを夢見る

パティがニューヨークに発ったのは21歳の時(1967年)でした。工場で稼いだ僅かなお金と、鞄には好きなアーティストの資料をつめて。アーティストの資料を携帯したのは、ニューヨークのアーティストの<悲劇の愛人>になることを夢見ていたからでした。パティはこの頃も引き続きモディリアニと非運の愛人ジャンヌ・エピュテルヌのたちのような芸術家たちの伝記を読みふけっていたようです。ある時期自分もアーティストになろうと伝記を読んでいたのですが、彼らの愛人たちにどうしても自己を投影してしまう自分を押さえきれなかったといいます。
とにかくパティは夢見る少女でした。しかしそれはロマンチックな夢なのではなく、パティにとっては、”野望”だったようです。ニュージャージーの工場から逃げ出したものの、どうやって暮らしていけばいいのか、”野望”のほかパティには何のあてもありませんでした。パティがファースト・アルバム『HORSES/ホーシーズ』(1975年)を制作するのは、これから8年後のこと。<悲劇の愛人>を夢見る女の子が、どのように世界を驚かせることになるアルバムレコードを生み出すロック・シンガーになったのでしょう。人というのは、たった8年でこうも変わり成長するものなのでしょうか。マンハッタンの碁盤の上の点のような駒になったパティは、ニューヨークでどの動いていったのでしょうか。ニューヨークでのパティの「心の樹」の成長をさらに一緒にみていきましょう。

21歳。アーティストをめざしていたメイプルソープとの偶然の出会い

ニューヨークに着き最初に向ったのはニュージャージーの知人のアパートでした。ところがそこにいたのは微睡(まどろ)んでいたロバート・メイプルソープ(当時21歳)だったのです。この偶然の出会いは、後に伝説ともなる2人の関係を準備することになります。メイプルソープはその友達の引っ越し先を知る由もなく、パティも立ち去ります。それから数日間、パティは駅や見ず知らずの家の戸口で野宿し、なんとか五番街のブレンターノ書店で仕事をみつけます。パティが書店を仕事先に選んだのは、それまでの読書体験と影響からけっして偶然ではありません。そして再びパティは、グリニッジ・ヴィレッジで偶然につきまとわれた男を追い払おうとした時、メイプルソープを見つけたのでした。2人は、同じブレンターノ書店で(メイプルソープグリニッジ・ヴィレッジ店)働いていることを知り、急接近します。メイプルソープはパティを新しいブルックリンのアパートに移ってくるよう誘いました。
2人は似た者同士でした。2人の「マインド・ツリー(心の樹)」は、お互いがお互いを映し出す「鏡」のようでした。パティはメイプルソープにどんなことでも話すことができました。するとエコーのように答えが返ってくるのです。そしてアーティストの愛人になることを望むのではなく、自分自身がアーティストになる、メイプルソープとの会話のなかでそのことに気づかされます。パティはペンシル画を描きはじめました。メイプルソープはパティに子供の時の病気がきっかけで、それ以来苦しんできた「幻覚」を、アートに「変換」するようすすめました。「幻覚」は、不幸な体験というよりむしろ「贈り物」ととらえるアーティストの感性をパティははじめて知ります。

妹のリンダとパリへ。シンクロニシティを経験

ニューヨークに住んで2年目。1969年春、パティは画家と同棲していたアパートを出てグリニッジ・ヴィレッジのアパートへ。この頃デッサンと油絵を続けています。妹のリンダとパリへと旅します。パリは、パティの中でランボーボードレールの詩と幻想で満ち溢れ、絶えず夢を与えてくれる場所でした。パントマイムをするアドリリアス一座と出会い、パティは帽子を持って見物人から小銭を集める役をかってでました。ゴダールが撮ったローリング・ストーンズドキュメンタリー映画「ワン・プラス・ワン」を観たのはパリでした。あまりにも感激し、妹と1日に何度もしかも5日間連続、映画館に通ったといいます。パティのストーンズ熱はヒートアップしていきました。パティはブライアン・ジョーンズを強烈に夢見るようになります。アドリリアス一座について行きパリ郊外の農場にいる時、沸騰したお湯がパティにかかり熱を出して寝ている時に、パティはシンクロニシティを経験します。夢の中でブライアン・ジョーンズが死んだのです。パリに戻ると新聞に「ブライアン・ジョーンズ死す」の見出しがおどっていました。
パリから戻ったパティはメイプルソープのところへ。2人の関係は水魚のようにつづいていきます。いったん途切れたかにみえる関係もすぐに回復します。2人は一緒にアーチストの巣窟「チェルシー・ホテル」へ移り住みます(当時は一部屋1週間100ドルで宿泊することができた)。パティはストーンズの曲をがんがん流しリズムに乗って詩を書きまくります。それは後の詩と音楽を組み合わせる予兆のような行為でした。パティは詩と同時にペンシル画も描くようになり、いつもノートを持ち歩いていました。そんな時、チェルシー・ホテルのロビーで、パティは一人の男に呼び止められました。ディランの歩き方を真似た女とは誰なのかと。男はミュージシャンであり映像作家でもあったボブ・ニューワースで、ディランにも近い存在でした。ニューワースはパティのノートを覗き込んで詩を読み、直感し、当時チェルシー・ホテルに住んでいたウィリアム・バロウズジャニス・ジョップリンらにパティを紹介しています。ニューワースはそれ以降もパティの活動を励ましつづけました。

初めて女性を「役割モデル」にー女優ジャンヌ・モロー

父が心臓発作を起こし倒れパティはいったん実家に戻りますが、再びニューヨークに戻ると今度もまた書店(スクリブナーズ書店)で働きはじめます。パティはメイプルソープが作品づくりに集中できるようにとパティが外で稼ぎ、2人の部屋を維持しました。1970年春、2人はチェルシー・ホテルを出て、創作が思う存分にできるスタジオに移り住みました。パティは一心不乱に詩を書きすすめました。詩を書くことは、内面に押し込められた影を引き出すことになり、個人的問題を解決する手助けにもなりました。次第に自らのセクシャリティと折り合いをつけ始めたのです。パティはそれまで、ストーンズキース・リチャーズのような渋い男性ロッカーを自身の外見の手本であり、「鏡」にしていましたが、はじめて女性のお手本がその場所をしめるようになりました。パティは自身がお手本とする女性を探し出しました。その完璧な見本を、フランスの女優ジャンヌ・モローの中に見いだしたのでした。しかも外見的なものでなく、その生き方のモデルとして、「権威に逆らい、時の流れを恐れない」女性、そして「自分の意思をもち、一人で生きるタフな女でありながら、大人の愛を実践しする」女性として。▶(4)に続く-予定