ビョークの「Mind Tree」(2)- 11歳、アルバム『ビョーク』をレコーディング/義父も参加

ビョーク、11歳の時のアルバムより「アラブの少年」
/義父もミュージシャンとして参加

人気ブログランキングへ

アイスランドの自然を讃える老画家へのオマージュ

▶(1)からの続き:「樺の木」のように内側にたえず樹液が生成されていたビョークの「マインド・ツリー(心の樹)」が、ブランチ(枝)を伸ばし始めたのは、11歳の時(1976年)の時でした。ビョークはフルートをフィーチャーしたセミ・クラシックな作品を作曲するようになります。この曲はアイスランドの一老風景画家に捧げたものでした。画家の名前はヨーハネス・キャルバル(1885〜1972)。アイスランドの厳しくも美しい自然を讃える油絵を描きづつけてきた画家で、4年前に87歳で世を去っていました。キャルバルは、「苔(こけ)」の研究家としても知られていました(「苔」は水分を滞留させることができるので溶岩の上に立つ樹木にとって水分の補給源となることができる。富士山麓の樹海がまさにその環境にある)。しかし11歳にして(日本で言えば小学校6年生の頃)、自国の自然を描く老画家へのオマージュとして捧げる感性は、なかなかみられないものです。おそらくは自然美への感度の高いボヘミアン的生活を営んでいた母たちからの影響からだとおもわれます。

11歳、アルバム『ビョーク』をレコーディング

同じく11歳の時(1976年)、アイスランドのラジオ局がパラミュジクスコラ・レイキャビク音楽学校のドキュメンタリー番組を制作しました。この時、ビョークは才能に秀でたヴォーカリストとして主役を務めています。ビョークはイギリスでヒットしていたティナ・チャールズのディスコ曲「アイ・ラヴ・トゥ・ラヴ」を歌っています。ビョークの声はアイスランド中に響きわたりました。これがきっかけになってビョークは地元のレーベル「ファルキン」でレコーディングするチャンスを獲ています。しかも1曲でなく「アルバム」だったのです。ビョークは2週間学校を休み、アルバム『ビョーク』をレコーディングしました。
ところがレコーディングはすぐに暗転します。レーベルが前もって用意していた収録曲は、ビョークにはそのどれもがレコーディングするだけの価値があるものと思えなかったのです。ビョークはそれらの曲を歌うことを拒みます。母にそのことを伝えると、母はミュージシャン仲間に声をかけビョークの能力が発揮できる曲を選曲してもらうことになります。となると演奏も気心の知れた(ヒッピーの)ミュージシャン仲間ということになります。そして義父サイヴァルも駆けつけます。さらにパールミ・グンナルソン、シグルズル・カールソンという音楽ファミリーもセッションにくわわり、さながらビョーク音楽ファミリー総出の様相になります。このことからもビョークの「心の樹」が、周りの人たちと繋がって育まれてきたことがわかります。

アイスランドの民話やお伽噺を歌う

ビョークの最初のレコーディング曲「アラバドレングリン」(ユーロポップ調の軽快な曲)は、義父サイヴァルのオリジナル曲でした。収録曲は全編アイスランド語で歌われます。ビョークアイスランドフォークソング(ポップスのリズムにアレンジ)も収録曲に加えています。自国の言葉で歌うことはビョークにとってなによりも重要なことだったのです。ちなみに「アラバドレングリン」とはアイスランド語でアラブの少年のこと。曲はエキゾティックな東洋の弦楽器が奏でる音に鳥の囀(さえず)りがからんではじまります。その音楽にのってアイスランドの少女が遠くエジプトに向かいます。片や凍てつく不毛の地、片や灼熱の砂漠の地です。真逆の土地に生きる少女と少女が歌の中で出会います。ロマンチックな恋に落ちた2人は再び別れなくてはならない、そんな曲想です。この曲以外にも彼らのオリジナル曲やビョーク自身の手になるインストゥルメンタル曲も収録されました。
「アールヴル・ウートゥ・ウール・ホール」はビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」のカヴァー曲になっています。またソリのベルで始まる、クリスマス・ソング「フーシ・フレインディール」は、ジャズ的色彩にのせてアイスランドのお伽話を歌ったものでした。「オーリヴァー」という曲もアイスランドの古い民話に伝わる美少年のキリストの物語が背景になっています。ちょうどこの年、ビョークジョン・レノンポール・マッカートニーの楽曲のオリジナリティと音楽的センスに夢中になっています。そうしたさまざまな音楽的サポートと影響からビョークの最初のアルバムが誕生しています。そしてどの曲にもビョークの独特のヴォーカル・パフォーマンスが芽吹いていていたといいます。▶(3)に続く-未