ジョニー・デップの「Mind Tree」(2)- 牧師の叔父からの大きな影響。ゴスペル・ロックとパフォーマンス

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両親の言い争いが日常の風景だった

▶(1)からの続き:マイアミで引っ越しする先々はどこも代わり映えしない同じような風景でした。通りをはさんで必ずあるのは、ドラッグストアやスーパーマーケット、雑貨店に食料品店でした。店の名前と通りの名前が違うだけの人工的風景。何も起こらず、何も起こる気配のない風景。ジョニーは引きこもるようにしてテレビにかじりつきます。夢の中にまでよく見ていた人気TVコメディ「ギリガン君SOS」のシーンがあらわれ、「サマー・ミュージック・ホール」の司会者の不可解な笑顔がジョニーに恐怖感をつのらせます。ジョニーはトカゲを飼いだし、学校では教師に向ってお尻をまくり停学処分をくらいます。家に帰っても、そこにあるのは両親が言い争うもう一つの日常。両親の諍い夜の安眠をも脅かすこともあったようです。ジョニーは、家では「想像の世界」に引きこもりだしていきます。

部屋に飾られた耳を削ぎ落とした「ヴァン・ゴッホの絵」

1930年代、40年代のシナトラやビッグバンドを聴きながら育ってきたジョニーの身体はかなりリズムに敏感になっていて、ロックン・ロールのビートもすぐに反応しやすくなっていました。ジョニーはロックン・ロールを聴き出していました。そうした少年ならば自分の部屋を好きなミュージシャンやロックスターで飾ったりするものですが、ジョニーの部屋に飾られていたのは耳を削ぎ落とした「ヴァン・ゴッホの絵」でした。ジョニーはゴッホの苦悩の人生に共感していたそうです。
小学校をなんとか卒業したジョニーは、ヘンリー・ペリー中学へ。中学時代はつねに何かに怒っていたといいます。次第に不良集団に引きずられ、小さな盗みに走ったり乱暴を繰り返しはじまます。そのすぐ先にあるのは、酒とドラッグでした。その一方、ジョニーは本を読むようになりますが、その本もナチス時代のドイツに書かれた本ばかりで、両親にはかなり不気味に映ったようです。ドイツ軍捕虜収容所を舞台にしたテレビドラマ「0012捕虜収容所」のエピソードを自ら考え”空想”していたといいます。拷問するナチス側ではなく、捕虜の側に身を置いた空想は、おそらくかなりねじられた心から生まれてきたのではないかとおもわれます。家の裏庭に穴を掘り、そこに潜り込んで降り掛かってくる災難から身を隠そうとすらしていました。それを見た両親は兄姉妹に比べかなり変わった性格の子だとおもったといいます。
ジョニー自身も自分は「変人」じゃないかとずっと思っていたようです。誰かに受け入れられたいとおもってもどうすればいいのかさっぱり分からない日々が続きます。学校生活は苦痛になり、もはやなんの関心も持つことはできなくなっていました。それでも気持ちのなかで父を喜ばせようと町のサッカーチームに入ってみたりします。が、案の定、そこでもチームとなってうまくやることができません。ジョニーは1カ月でチームを去ります。なぜできなかったか後悔が残り、再び参加します。しかし結局、うまくいきません。

黒人バスケットボール・チームの一員になる夢

ジョニーはかつてTVドラマに登場するスパイや世界的に有名なバイク・スタントマンのイーヴル・ニーヴル(チョッパーバイクにまたがり大型車の上を命知らずのジャンプ)に憧れたりしたことがありました。それは当時の少年と同じような憧れです。少し変わった夢もありました。黒人だけのバスケットボール・チームに所属する初の白人選手になることでした。当時NBAは白人に牛耳られ白人のためのスポーツで(NBAは1946年創設以来、1950年代はほとんどが白人でしめられていた。バスケットボールじたいは1892年に考案され多くのアマチュアチームがあった)、ジョニーは黒人選手が進出する途を開いた黒人バスケットボール・チーム「ハーレム・グローブトロッターズ」(1920年代結成)の一員になることを少年のハートで夢見ていたといいます。
ここでわかるのは、「弱者」にたっている感性です。それは打ち負かされたインディアンの血とスピリットがジョニーを自然とそうした気持ちにさせていたかもしれません。「0012捕虜収容所」のエピソードを空想する時も、自身が強者ナチスになるのではなく、「弱者」である捕虜に自身を重ね合わせていることからもわかります。

ロック・バンド「キッス」とケルアックの『路上』を「発見」

そして内攻が極まって暗闇にいたり、火花を散らして何かが逆流してきた時、ジョニーはロック・バンド「キッス」を発見したした。もともと音楽が好きではあったジョニーが、初めてファンになったバンドでした。そのバンドの持ち味は暴力的なパフォーマンス。その火を吹く悪魔的なパフォーマンスは何度もサッカーをしようとトライしてみたものの結局加わることができなかったジョニーに猛烈にアピールしました。そして人生というのは、まさに樹木のように一つの幹や枝だけで直線的に成長していくのは極めて稀なことです。偶然に同じ時期に、さまざまな事が起こったり、出会ったり、触れたり、見たり、話したりします。
ジョニーも家の中でひとりだけで住んでいたわけではありません。9歳年上の兄ダニエル(通称ダニー)も同じように悶々としてやり過ごしていたのです。ジョニーは兄ダニーの部屋から流れてくる音楽に興味を示し、兄の部屋にあった本や映画にも関心を示していきます。とくに音楽は北アイルランド出身のヴァン・モリソン、映画はセックス描写が話題になったベルナルト・ベルトリッチ監督の『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1973年公開/マーロン・ブランド主演)に刺激をもらっています。また兄の本棚から、大人との感覚の違いから生じる心理的軋轢を描いたサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』と、ジャック・ケルアックの『路上』を見つけて読みふけったりしています。とくに『路上』には大きな刺激を受け、主人公がアメリカ西部に向って旅したように、ジョニーが後にバンド活動でハリウッドに向う時の心の羅針盤にもなっていったようです(後に俳優として活躍しだして以降、ジョニーはケルアックの覚え書きが書き込まれてあるケルアックの黒人史の蔵書や、ケルアック本人がかつて着ていたぼろぼろのレインコートも購入しています)。

牧師の叔父からの大きな影響。ゴスペル・ロックとパフォーマンス

この時期、ジョニーに予想以上に大きな影響を与えたのは、叔父の存在でした。叔父はゴスペルのグループを指導していた牧師(福音派の説教師)で、アメリカの南部を回って伝動集会を開いていたのです。集会所のテント内で説教したりするだけでなく、ゴスペルをロック調で演奏してやんやの喝采を浴びていたのです。そのメンバーの何人かがジョニーの従兄弟でした。伝動集会が近くで催されればジョニーは駆けつけてテントをぶらつきながら、群衆の心をとらえて離さない叔父のパフォーマンスに心を奪われていました。叔父が両手を大きくひろげ「今すぐ私のもとへ、さらば救われん」と言うと、人々は叔父の足元にひざまずくのです。叔父は度々ジョニーをステージに上げたそうです。ジョニーが舞台の上で何かを表現しようとおもったのはあきらかに叔父の影響でした。実際、叔父はジョニーに、音楽でも他のものでもいいから、ステージで何かを表現したらどうかと薦めています。<パフォーマンスの力>を注入されたジョニーの「心の樹」は、<変成>の時を迎えます。音楽のサウンドに敏感に反応する「樹」になっていたことをジョニーは気づきます。
そして魔法の杖がもたらされるごとく、エレキギターがジョニーの手元にやって来ます。ゴスペルグループをやっていた従兄弟たちがデップ家に来てゴスペルソングを歌ってくれた時、ジョニーは初めてエレキギターを見たといいます。誰の目からみてもジョニーはエレキギターに夢中になっていたようです。ジョニーの変化を見ていた母が、しばらくすると牧師の叔父から中古のエレキを25ドルで譲ってもらいます。電気にプラグインされたジョニーの「心の樹」は、激しく振動しはじめました。▶(3)に続く