サム・ペキンパーの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 祖父が所有したヨセミテ国立公園近くの山<ペキンパー・マウンテン>

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はじめに:

映画『ワイルド・バンチ』『ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯』『ガルシアの首』『わらの犬』『ゲッタウェイ』など、どれも忘れられない印象を刻み込む旧西部(オールド・ウェスト)劇をうみだしたサム・ペキンパー。いつもハリウッドの映画会社や役者たちとトラブルを引き起こすほどに映画に全生命を入れこんだペキンパーの魂は何処から来たのか。ペキンパーには映画の都ハリウッドが誕生する以前のカリフォルニアの赤々とした「血」が流れていたのです。現在でも<ペキンパー・マウンテン>と呼ばれる山の樹々を製材していた祖父から3代。カリフォルニアに生を受ける者は、3世代の間にどのように変わりうるのかがペキンパーの生涯を通してみえてきます。
また人はどのような”根っ子”をもとうと、その養成とスピリット次第で、思わぬ”ブランチ(枝)”を生やしうることがあること。しかしその”ブランチ”には、やはり一族の匂いが染み込んでいることもあわせて識(し)りうることでしょう。では、ペキンパーのワイルドな”ブランチ”の来し方を一緒に見てみましょう。ローリング・ストーンズキース・リチャーズも少年時代に大好きだった西部劇が、きっと真近に迫ってきます。

祖父が所有したヨセミテ国立公園近くの山<ペキンパー・マウンテン>

サム・ペキンパー(本名:ディヴィッド・サミュエル・ペキンパー)は、1925年2月21日に、カリフォルニア州フレズノ市に生まれています。フレズノ市は広大なカリフォルニア州のほぼ中央、サンフランシスコとロサンジェルスの中間に位置し、アンセル・アダムズの写真でも有名なヨセミテ国立公園へ通じる拠点にもなっています。そしてペキンパー一族は、サム・ペキンパーの映画にいみじくも描かれることになるように、カリフォルニアや米国西部の開拓史を映しだす一枚の「鏡」にもなるほどなかなか興味深い一族です。
サム・ペキンパー本人の「マインド・ツリー(心の樹)」にはいる前に、カリフォルニアにおけるペキンパー一族の来歴をみておきましょう。ペキンパー一族はヨセミテ国立公園の近に広がる「マデラ郡の山」を所有し、19世紀末にはその山から切り出される樹木を取り扱う「ペキンパー製材所」を経営していました。サム・ペキンパーという「樹」は、「マデラ郡の山」の中の1本の樹のごとく、一族の樹から切り出された(誕生した)1本の樹といえるかもしれません。では、どのようにして「マデラ郡の山」を所有するようになったのでしょうか。
サム・ペキンパーの父方と母方の祖先がカリフォルニアまで辿りついたのは1850年代のことでした。父方はサンフランシスコの北方に、母方はサンフランシスコの東部にやって来ました。ちなみにさらに100余年遡る時代(1750年頃)、曾祖父はの祖父の代となるとドイツとオランダのライン川流域からアメリカのペンシルバニアに移住して来ています。当初は名前の綴りは、Pekinpaughだったようですが、カリフォルニアに来る前に、長ったらしくインクの無駄になるからとPeckinpahに縮めたというのは有名な話です。
祖父チャールズ・モティマー・ペキンパーは若いうちは大工や馬車作りをし、デス・バレーの鉱山の話を聞きつけ馬車で駆けつけ、鉱山労働者をしてお金をつくっています。そして6人の兄弟姉妹とともに、1883年、現在のヨセミテ国立公園の近くに広がる1200エーカーの土地(マデラ郡の山)を購入。山麓から900メートルもあるその山は松の森林が豊かに生えている見事な山だったといいます。「ペキンパー製材所」は、フレズノ郊外ではなくこの山の頂付近に設けられました。そのため製材所にまで行くには急斜面の山をのぼって丸1日かかったといいます。
ペキンパー家の皆は(祖父やその息子たち)、みな楽器にたけていたといいます。仕事をしていなければ、皆であちこちのダンス会場に出かけオルガンやピアノ、クラリネットを奏でては楽しみました。祖父チャールズはバイオリン弾きで、ダンスが得意でした。1904年、世界的不況の波を受け、20年以上続いた「ペキンパー製材所」を閉じ、山を売り払います。その後もこの一帯はずっと「ペキンパー・マウンテン」と呼ばれ続けることになります。
後にサム・ペキンパーは、自分にはインディアンの血が流れているとよく言っていましたが、それは祖父が山を降り、フレズノに来てから一家とインディアンたちとの関係が深くなったことの謂いです。祖父はインディアンの養女を2人もらい受けていましたし、サム・ペキンパーの父デビッド(祖父の3人の息子の次男坊。1895年生まれ)が通う、ハイスクールでは全校生徒30人中、ペキンパー3兄弟だけが白人で、他は全員インディアンの子供たちだったのです。

ペキンパー一家と「弁護士」の職と母方のチャーチ一族

そのフレズノの地にサム・ペキンパーの母方のチャーチ一族が住んでいました。19世紀半ば過ぎの旱魃に苦しんだチャーチ一族は、サンフランシスコ東部からフレズノの近くまで羊を引き連れて移動してきていたのです。その地で、旱魃に苦しむことのないよう、曾祖父チャーチは1600キロに渡る運河を建設します。一大事業です。今でも「フレズノ灌漑の父」として知られています。サム・ペキンパーは、カリフォルニアの中央で山を所有していた父と、その山から流れ出る水を管理していた家系が一つに結びついて生まれた子供だったともいえます。
その母方の祖父デンヴァー・チャーチは、サンフランシスコの医科大学で学んでいましたが、子供を授かったのを機に法学へと専門を切り替えています。ペキンパー一家が「弁護士」を職とするようになる最初がこの祖父の判断からでした。祖父デンヴァーは弁護士の資格を取得し活動します。途中、地方検事に立候補して落選し、冒険好きもてつだい幌馬車でアメリカ西部を巡った後、フレズノで検事補として働くことになります。後に下院議員、高等裁判事も務めフレズノの大物になりますが、本人は牧場主である方を好み、インディアンから土地を購入し牧場を広げていきました。

父はチャーチ一族の大農場でカウボーイとして働いていた

サム・ペキンパーの父デビッドは高校を終えた後、法律学校に入学しようと考えていましたが、ペキンパー家にはすでに経済的余裕はなく、<ペキンパー・マウンテン>の麓にひろがる大農場「エンジェル農場」でカウボーイとして働いていました。その「エンジェル農場」のオーナーがサム・ペキンパーの母の父デンヴァー・チャーチだったのです。娘のファーン・ルイーズ・チャーチは父が民主党から下院議員に当選した時にワシントンで社交界デビューしています。デビッドはこのオーナーの娘ファーン・ルイーズと結婚することになります(農場に将来を言い交わした男がいたが父の反対があり、デビッドとはしぶしぶの結婚だった)。オーナーのデンヴァーは義理の息子となったデヴィッド・ペキンパーに農場の管理を任せるようになりました。父デヴィッドは法律学校にも通い弁護士になり義父の法律事務所に勤めるようになります。ファーン・ルイーズは階級意識が強く、子供たちには山から降りてきて、よろずやを経営していた父方の祖父母には子供たちを決して会わせなかったといいます。
そうした両親の下、1925年2月21日に、サム・ペキンパー(この後、サムと略称)は次男として誕生します。すでに母ファーン・ルイーズは結婚後すぐに長男を産んでいましたが、思いをとげた結婚でなかったために長男にはまるで無関心、乳母に任せっきりだったといいます。次男サムには一転猫可愛がりし、子供に対し愛情を等しく注ぐことができない母だったといいます(その後産んだ2人の娘はともに養子にだしている)。母ファーン・ルイーズは晩年、精神分裂病に罹り、息子サムを認識できなくなります。映画の中で女性に対するサム・ペキンパーアンビバレントな感情、愛情と嫌悪感は、こうした自身の体験が根にあるといわれています。▶(2)に続く