カフカの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)-祖父・父・カフカ、3代の「変身」

20世紀の「カフカ的状況」- <変身前夜>

朝起きたら一匹の巨大な虫(カブトムシに近い)に変身していたグレゴリー・ザムザを描いた『変身』、どうあがいても入ることのできない不条理劇のような『城』、そしてオーソン・ウェルズが見事に映画化した『審判』など陰鬱な内面世界に深く錘を下ろした作風で世界的に知られる作家カフカマジック・リアリズムのラテン・アメリカ作家、ガルシア=マルケスボルヘス(『変身』を翻訳している)にも決定的な影響を与えたカフカ。SF作家フィリップ・K・ディックや映画監督のデビッド・リンチ、日本では安倍公房や倉橋由美子村上春樹らも影響圏内にあります。こうした現象は、20世紀に「カフカ的状況」が、全世界的に広がった証ともいわれています。ということは世界中の人々が、<変身前夜>にあったともいえなくもありません。子供たちだけでなく、大人たちも「変身」せざるをえなくなっていたともいえます。
カフカはなぜその状況を先取りしえたのでしょう。何を感じとっていたのでしょう。そして、カフカとは”誰”だったのでしょうか。たとえカフカの「マインド・ツリー(心の樹)」をあらわしたとしても、それは位置と方角によって絶えず変じる、容易ならざる「樹」にちがいありません。プラハの街にかかる霧、永遠に足を踏み入れることが叶わない「城」のごとく、カフカの「心の樹」も容易に姿をあらわすことはないでしょう。カフカも言っています。「本質というものは、光と影の醸(かも)す一抹の吐息のように、わずかにものの相貌の後ろに透けて見えるにすぎません」

しかし手がかりはあります。それはカフカ自身の”根っ子”となる生育(家庭と社会)環境とカフカその人の気質、そして魂の成長の軌跡です。まずは生育環境を手がかりに変幻するカフカの「樹」の根元にわけいってみましょう。カフカの身体が地上に運産みだされた”根”ならば、探しあてることができるからです。一番太い”根っ子”が一本、プラハ南方100キロの寒村に走っています。そこは祖父ヤーコプ・カフカが暮らした土地です。まずはそこから出発です(それはカフカの”根源”の一つにしかすぎませんが、重要な”根”です)。

ユダヤ人集落に生まれた祖父ヤーコプ。村一番の力持ち、畜殺業を営む

祖父ヤーコプはモルダウ川が流れる南ボヘミアにある小さなヴォセク村のユダヤ人集落に生まれています(1814年)。ヤーコプは畜殺業を営む村一番の力持ちで大男だったそうです。暮らしは厳しく、農家の産物を仕入れ町に出て売り、町で古着を買って農家に売ったりしていたようです。ヤーコプの妻は多少の医術の心得があって薬を煎じたり産婆さんをしていました。その頃傾きつつあったハプスブルク家ユダヤ人を働き蜂として活用しようと企てます(減少する税金の収入源としてユダヤ人を見込んだのです。実際にユダヤ人は<蜜蜂>にたとえられ密がたっぷりたまってはかすみとられた)。見返りに市民権が与えられたことでヴォセク村のユダヤ人の全員が次々と村を後にしましたが、祖父ヤーコプだけが亡くなるまで生地に留まります。

父ヘルマン、ボヘミアを離れ行商人に

1852年、息子ヘルマン(カフカの父)が生まれます。ヘルマンも屈強な身体と大声の持ち主で押しが強い性格でした。ヘルマン12歳の時、プロシアオーストリア戦争があり、プロシアを中心にしたドイツ連邦が成立し、画一的教育を通じドイツ語が東欧にひろまります。東欧ユダヤ語「イディッシュ」語を日常語としチェコ語を喋るヤーコプと、ドイツ語が日常語の息子ヘルマン。後にヘルマンの息子フランツ・カフカはドイツ語を当たり前にする家庭環境の中、自身のアンデンティティで悩みはじめ、ヘブライ語に関心を深めていきます。
父ヘルマンは13歳の成人になるまでは畜殺の仕事を黙々と手伝い町に売りに行っていましたが、ドイツ語が読めるヘルマンは新たな市場と産業をキャッチします。産業革命の余波が東欧にも、もたらされ、製品が工場で大量生産されはじめ新しい商品が市場に出回りはじめていたのです。14歳の時(ユダヤ人社会は13歳で成人としていた)、ボヘミアの家を出ました。衣類や食器、小間物などあらゆるものを背負って行商したようです。ヘルマンは市場と商品の動き(つまり情報)を注意深く観察します。そして新しくつくられた小間物と雑貨の「サンプル品」をたくさんもっていき得意先などあちこちから注文をとって、がめつく稼ぐ「注文商売」の方法に切り替えました。その頃、そうした商品市場にユダヤ人のシンジケートが生まれていたようです。当時のユダヤ人が身一つだったにもかかわらず「行商」で身を立て、立派な店を出したり一代で中産階級にのぼりつめることができたのは、新たな「注文商売」の方法や、都市における有形無形のユダヤ人の結びつきが準備されていたためでした。

「金がすべての成功の証」ー 父ヘルマンの人生哲学

2年間オーストリア陸軍に入隊し曹長になってさらに威勢をよくしたヘルマンは、持ち前の口の巧さとクレバーさで、小間物のなかでもとりわけアクセサリーに着目しました。衣類や靴をおおかた揃えた女性が次に買い求めるのは、きらきら光るアクセサリーだろうと。モルダウ川に沿ってつくられたプラハのゲットーの一隅にある、古い建物でしたが、ユダヤ・ゲットーでは一番大きな建物「黄金の顔(House of the Golden Face)」に空き部屋をみつけ移り住むまでになりますが(資料によってはそのすぐ裏手の「塔の家」ともなっています)、まだ店舗を持つまでには至っていませんでしたが、持ち前の丈夫な体と口の巧さ、商売に情熱を注ぎこんでいる姿勢がプラハの裕福なユダヤ人一家であるレーヴィ家の目に止まったようです。婚期が遅い娘ユーリエをヘルマンに嫁がせました。ヘルマン(30歳の時)結婚。裕福なレーヴィ家の後押しでヘルマンは、チェコ人が行き交う大通りにステッキや日傘やレースの手袋といった高級な小間物やアクセサリーの店を構えるようになります(民族運動が高まり不穏な空気になってきたため4年で旧市街に戻る)。「金がすべての成功の証だ」というヘルマンの人生哲学はこうして実現していきました。

「Kafka」という姓の絶妙のネーミング

念願かなったヘルマンの店の看板には、「カフカ商会」という商標の文字と、Kafkaの「姓」を絵解きしたカラスを、ドイツを代表する樹木の「楡」の木にとまらせて描かせました。なかなかのセンスです。イメージ戦略としても抜群です。看板を見るチェコ人は、カラスの一種のコガラスを意味するチェコ語の「Kavka」と読み誤るでしょうし、話好きの女性たちの口にのぼる時の発音にもその類似性からユダヤ人の店というイメージが拭いさられれます。またドイツ人が看板に気づけば、自国の樹「楡」が描かれてあって安心感を抱く、というわけです。まさに「姓」と「店名」によるサバイバル戦略です。しかもKafkaという姓には、ユダヤ人の成分を忍ばせてあるとも言われます。コガラスの「Kavka」に似せてありますが、元になった姓は、祖父の名のYakov(ヤーコプ)だというのです。Yakovを組み替え、それにチェコ語の接尾語<a>を付け加えたともいわれています。しかしこの絶妙のネーミングは、息子のフランツ・カフカにとっては後に「アイデンティティ」の問題として内面に突き刺さってくるようになります。

『変身』の主人公ザムザは、父と同じく「商品見本」をもった行商をしていた

第一次世界大戦中の1915年に出版(カフカ32歳。執筆は29歳)された『変身』に登場する、不安な夢から目覚めるとおおきな甲虫のような「虫」になってしまったグレゴール・ザムザ(Samsaは、Kafkaのアナグラムとも)が、この「商品見本」を持参し注文をとる仕事をしていました。両親や上司とうまくコミュニケーションをとれず、孤独で不安、希望もなく苦悩と絶望に苛まされる様子は、身一つの行商でのし上がってきた逞しい父への愛憎のコンプレックス心理の表出かもしれません。「あれが私たちの気持ちを分かってくれたら.....」「こんな難儀を我慢する余裕はありません。もうとても辛抱できません」と家族の者に口々に言われるなか、「毒虫」になったグレゴール・ザムザは息を引き取ります。やっかい者がいなくなって平穏が訪れます....。カフカの「マインド・ツリー(心の樹)」は、外部にひろがっていくのではなく相当に内攻する性質に相違ありません。

ユダヤ人社会の名家レーヴィ家出の母

カフカの祖父・父とも、今日の日本でいえば頑丈な肉体をもった体育会系で営業マンタイプのようです。三代で家の文化や環境が大きく変わるともいわれているように、祖父から数えて三代目のフランツ・カフカで、まさにカフカ家は180度変わっていったといえるでしょう。父の側からしても息子フランツはまさに「変身」し理解しがたくなってしまっていたのです。カフカの「マインド・ツリー(心の樹)」は、祖父や父の「心の樹」とはおよそ正反対の性格のものとなっていきます。それには裕福なレーヴィ家出の母ユーリエの強い「引力」がありました。フランツ・カフカの「心の樹」の”根っ子”は、母ユーリエが生まれ育った土地プラハに根を張りました。プラハ旧市街(the Altstädter -アルトシュタット)、シティーホールのすぐ近くに建つ瀟酒な「スメタナ・ハウス」こそ良家レーヴィ家の証であり、母ユーリエが少女期を通し暮らしてきた屋敷でした。誕生(1856年)したのはプラハの東エルベ河畔の町ポディエブラート(20世紀に入ると賑やかなリゾート・タウンになっていきます)でしたが、レーヴィ家はユダヤ人社会の名家でした。その「氏」のごとく、祖先には学識豊かなラビや、学者、教師たちがいました(変人・奇人もいたといいます)。事業家のレーヴィ家は処世術として帝国ドイツに完全に同化することを選び、ドイツ語で話しドイツ流儀で暮らしました(ここでも「変身」がみられます)。そして織物事業とビール醸造の仕事が成功しプラハへ事業展開することになったのです。▶(2)に続く

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