ヴァルター・ベンヤミンの「Mind Tree」(2) - 思考の原型がつくられた友人たちとの出会い

少年の頃は、遅刻と欠席の常習者

▶(1)からの続き:ベンヤミンは10歳になるまでは、裕福な家庭の子弟だけが通う教育スペースで教育されています。それ以降は9年制のカイザー・フリードリッヒ高等中学校(ギムナジウム)に入学します。ベンヤミンは放課後に居残りをさせられたり、鞭打ちの懲罰があるギムナジウム権威主義的な教育スタイルと学校生活にからっきし馴染めませんでした。「何もかもどうにでもなれ」と投げやりに。ベンヤミンは遅刻と欠席の常習者になります。もともと体力がある方でなく少しでも病気に罹ればこれ幸いに学校に登校せず、ベッドの脇の壁に影絵をつくって遊んだり布団の中で空想にふけるばかり。ようするに学校に行くのが嫌でたまらなくなってしまったのです。

林間学校と「自由学校共同体」について

12歳の時、ベンヤミンは、体調を崩してチューリンゲンにある林間学校に入ります。人生とはわからないものです。心身の不調はしばしば人生に転機をもたらします。樹木が何らかの変調から、刺激からおもわぬ所からしっかりした枝を生やすのと似ています。ベンヤミンが新たに通うようになった林間学校はドイツ公教育の知識偏重・権威主義に対抗して創設された民間学校でした。すでにブルジョア生活様式権威主義的教育に嫌悪感をつのらせていたベンヤミンはおおいに刺激されます。学校はヴィネケンのドイツ青年運動から生まれた「自由学校共同体」の理念で満たされていました。ベンヤミンは健康を取り戻しベルリンの学校に戻ってからも、「自由学校共同体」を創りだしたヴィネケンとつながりを保ちました。後にベンヤミン18歳頃、ヴィネケンとつながりのある青年運動の雑誌「出発」に寄稿しました。寄稿文のタイトルは「学校改革・一個の文化運動」でした。

ブルジョワの文化への愛着と違和感

ベンヤミンは少年期にすでに、「うまく定職に就かず両親の資産を食いつぶしながら無為徒食の人間として生きてゆこう」とひそかに思っていたといいます。それは没落してゆくブルジョワの末裔としてある種のニヒリズムからでてきた感覚でした。ベンヤミンの書籍収集癖もブルジョワの文化的遺産を収集する行為でもあったし、そこから生まれる「文学批評」は残骸となった遺産を調査・探求するどこかノスタルジアな感覚を呼び起こします。一方で、ベンヤミンは、ブルジョワ家族の一員に自分をアイデンティファイ(重ね合わせ)するいたたまれない居心地の悪さも感じていました。「写真小史」の中で、念入りに舞台設定されたスタジオのなかで撮られたカフカの幼少時の肖像写真に、同じ種類の居心地の悪さを感じとったことをあかしています(実際カフカも同じような感覚を抱いていた)ベンヤミンの「心の樹」は、自身の”根っ子”が張る土壌への愛着と違和感を複雑に感じ取っていたのです。


◉少年期:Topics◉歩き方にすらその後の人生を特徴づける性格があらわれる。ベンヤミンは少年期から街を歩くとき母から半歩遅れ、あちこちを眺めながらのんびりと歩く習性があった。母はそれにいらつき、いつも「きちんと前を向いて、ちゃんと歩きなさい」と注意していた。この歩き方の習性は大人になるまで変わる事はなく、後にパリの「パサージュ論」を生み出していくことになる。そのパリでは、かつてはボードレールも異端的遊歩者だった。ベンヤミンはそのボードレールについて一論考を著す。ベンヤミンボードレールも、そうした歩き方一つに社会生活の規律へのささやかなレジスタンス(抵抗)をあらわしたのだ。

青年期に著した「いばら姫」と『青春の形而上学』のこと

19歳(1911年)の年、理想を追求しつづけるゲーテファウスト博士に、青年の社会改革運動を木霊(こだま)させた処女作「いばら姫」を著します。それは詩の機能がもつ若返り作用とドイツ・ロマン主義の芸術理論を結びつけようという目論みでもありました。ロマン主義的な詩が太古の自然力を喚起するように、ベンヤミンの「樹根」の遥か先の古層に眠るエネルギーを呼び込むものでした。次いで著した『青春の形而上学』は、ベンヤミン思想の「根源」を露にするもので、ベンヤミンの”根っ子”にすでに触れえるものとなっています。「子供時代」の輝かしい世界のこと、青春についての認識、さらには後のベンヤミンの主題が幾つも萌芽的にあらわれています。

友人ショーレムとの出会い。思考がかたちづくられる

23歳の時、ベンヤミンはベルリンを離れミュンヘン大学に移りました。ミュンヘン大学在学中、ベンヤミンは自身の言語哲学の出発点となった「言語一般および人間の言語」という論文を執筆します。すでに青年運動を通して見知っていた、ゲルショム・ショーレム(後に20世紀ユダヤ神秘主義の大家となる。ベンヤミンより5歳年下)との交遊が濃密になったのもこの年からです。ショーレムベンヤミンが徴兵検査を逃れるため体調を狂わすために朝まで一緒にチェスをやりながらコーヒーを飲みつづけ、それが功を奏して徴兵が一年先送りとなっています。
ベンヤミンが、フロイトを研究しはじめ、ニーチェに関心を深めたのは、スイスのベルン大学に移籍してからのことでした(1917年の冬学期から)。ドーラと結婚生活をしはじめた2年目から、ミュンヘン大学で友人になったショーレムがやって来て3人で一年間一緒に暮らすことになります。ショーレムはすでにシオニズム運動に参加していて、雑誌「若きユダヤ」のメンバーでした。後にショーレムは回想記『ヴァルター・ベンヤミンーある友情の歴史』のなかで、ゲーテや晩年のニーチェから、バッハオーフェン、ヘルマン・コーエン、ゲオルゲらを2人で語り合ったと記しています。2人の濃密で時に激しいやり取りのなかで、ベンヤミンの思考がかたちをなしていったようです。ユダヤ思想についても、ベンヤミンショーレムに出会う以前から入り込んではいましたが(関心の中心はタルムードの解釈学)、こちらもショーレムを通じて理解を深めていったようです。その理解の一つは、生を取り巻く世界全体を「みえるもの」と「みえないもの」の両義性をつうじてとらえる「表象的まなざし」というものの見方でした。

エルンスト・ブロッホとの出会いと「レビュー形式」

ベルン大学移籍から2年後、最優秀の成績で博士号を取得します(博士号取得試験の主科目は哲学、副科目はドイツ文学と心理学を選択)。博士論文は「ドイツ・ロマン派における芸術批評の概念」でした。ベンヤミンは学生時代のことを振り返り次のように語っています。「学生時代に最も繰り返し読んだのは、プラトンとカント、続いてフッサールマールブルク学派の哲学でしたが、次第に文学作品や芸術形式の持つ哲学内容に対する関心が前面に出てきて、ついに博士論文の主題にその関心が結着することになった」。
スイスのベルンではもう一人大切な人物と出会っています。ユダヤ思想の秘教性への洞察に優れたエルンスト・ブロッホとの出会いです。ブロッホの著した『ユートピアの精神』の中の「いま」と「いまだーない」の間の表徴的関係の扱いにベンヤミンが追求していた歴史哲学との類縁性をみただけでなく、ブロッホの思考と洞察力に共感しています。このブロッホベンヤミンの断片的な思考の方法となった「レヴュー」形式の最も早い理解者となっています。


◉青年期:Topics◉23歳の時、一年間兵役免除になった間に、ベンヤミンは婚約者グレーテ・ラートが在籍していたミュンヘン大学に移籍。そのキャンパスでドーラ・ポラックと恋人同士になる。ドーラは英文学者でシオニストのレオン=ケルナーの娘で、富豪だったマックス・ポラックとの結婚後にベルリンで青年運動に参加していた女性だった。ベンヤミンはグレーテ・ラートと婚約を解消、ドーラも夫と離婚し、2人は結婚することに。翌年の兵役検査の際、ドーラはベンヤミンに座骨神経痛の症状が出る催眠術をかけ、スイスへ出国するため偽りの診断書を入手させている。


◉「レヴュー」形式について◉ベンヤミンが導入した思索の方法で、従来の壮大な体系ではなく、目まぐるしく変化する都市のアクチュアルさを映し出すのに適した方法である。それは映画や写真、アートのモンタージュの方法とも相通じるもので、スナップ的でインプロビゼーショナル(即興)なこの方法はベンヤミンの情報技術でもあるばかりでなく、石化した哲学体系をゆさぶるものでもあった。