トリスタン・ツァラのDADA→ピカビア


ピカビアを仰天させたトリスタン・ツァラの破天荒で急進的なパフォーマンスやアヴァン-ギャルドな詩(詩人でもあった)は、当初、ピカビアやアンドレ・ブルトンとはかみ合わなかった。ツァラの名前やDADAとは、多少はアートのことに興味をもつ人であれば、高校生くらいから知る名前やムーブメントであるわけだが、ツァラやDADAのことは結局よく知らないままになってしまっている。ツァラとは誰だったのか? ルーマニア人、モルドバ生まれ(ソビエトに再占領されていたが1991年にモルドバ共和国として独立)、両親はユダヤ人だった( Jewish Romanians-父、祖父とも林業にかかわる )。ツァラが最初に覚えた言語はイーディッシュ語で、1918年まではルーマニア王国の差別政策で一般市民として扱われることはなかったという。16歳の高校生の時(1912)、美術をやっていた友人を含め3人で、松本人志ではないが、『 Simbolul(The Symbol-シンボル)』というルーマニア文学とアートを扱う雑誌を編集制作。内容はアンチ・エスタブリッシュで、アヴァン-ギャルドな方向性はここから始まった。「シンボリズム」が、ラディカルなアヴァン-ギャルドに転換した瞬間といってもいいかもしれない。逆に言えば、「シンボリズム」が、ラディカルなアヴァン-ギャルド、そしてDADAを生み出す培養液となった。「シンボル」、日本語ではふつう「象徴」と訳すが(象徴天皇制のように)。昭和が終焉を迎えた日、日本のすべてのTVや劇場から笑いや芝居が消えた。その時、シンボルは完全に一元化され、笑いもギャグも封印された。日本の「シンボル」は、ある意味シンボル化されているわけでもあるが、近い将来、そのシンボルの行方がみえなくなっていくかもしれない。