ミヒャエル・エンデの「Mind Tree」(3)-心の樹を成長させたもの


エンデがヒントにした経済学者ゲゼルのこと-「老化するお金」とは?

旧友からの誘い「絵本をつくってみないか?」から始まった!

▶(2)からの続き:深刻なブレヒト病からものを書くことを断念しようとしていたちょうどその時、ギムナジウム時代の旧友(イラストレーターになっていた)にばったりと出くわし、二人で絵本をつくってみないかと誘われたのです。劇作はしてきたものの、絵本を書くことは初めての経験でした。エンデはまずは数頁と気楽に書きはじめました。するとフクラム国とクルシム国やらマンダラ国の話など、どんどんひらめいてきます。着想も不思議と湧きあがってきます。とうとう絵本の長さをとびこえて(ネバー・エンディング・ストーリー的に)話が終わらなくなってしまいました。
その理由、そして方法は、かつて父からよく聞かされていた「潜在意識の思いつきにゆだねる方法」によったものでした。この時期はちょうど父とも和解していた時で、自然と少年の頃のイメージに再び包まれていた頃でした。エンデの最初の本『ジム・ボタンと機関士ルーカス』には幼年時代、父に買ってもらった鉄道模型で遊び空想したことを思いおこした事が書かれています。「潜在意識の思いつきにゆだねる方法」は、幼年期の疲れをしらないあの機関車のエンジンのように、どこまでも空想の世界を拡げていきました。
エンデはその時のことを次のように語りました。「ものを書くことそれ自体を冒険のように体験しうるのです。どういう結末になるのか予め知ることなく身をゆだねきり、なんの目論みももたずに。この物語を書いた経験は一つの解放を意味しました」。

12社から断られる。部屋代7カ月滞納、経済的逼迫

結局、絵本をつくる話はご破算になり、書きあげた原稿をあちこちの出版社に送ったものの1年半の間に12社から立て続けに断られました。そしてついにティーネマン社の女社長がエンデの物語を気に入ってくれました。31歳の時(1960年)、『ジム・ボタンの機関車大旅行』が出版されました。ところが6000部売れたものの印税はたいした額でなく、部屋代も7カ月滞納し追い立てられていました。西ドイツ児童文学賞に選定され一気に売れ行きが増し、長年付き添ってきた経済的困窮状態から脱したわけです。

自身の潜在意識、「マインド・ツリー」を映し出した湖

34歳の時、付き合っていたインゲボルクと結婚、翌年、父、死去。再度、劇作に挑戦し『遺産相続ゲーム』を完成、が、芝居は酷評されます。1970年よりイタリアのネミ湖畔(ローマから南東へ25キロ)に移住し、以降15年間過ごし、またここで『モモ』『はてしない物語』『鏡のなかの鏡』をなど名作を書きました。エンデの”マインド・ツリー(心の樹)”は、騒々しいドイツの地を離れ、かつてディアーナの聖所があったローマ近郊ネミ湖畔に移され、いっぱいの”光と水”を摂ることができ、大きな樹冠をつけるまでになります。父と同じく、重々しいドイツの空気に軽やかな地中海の風と光を浴びせることで、”心の樹”をのびやかに豊かに成長させることができたのです。
エンデの”マインド・ツリー(心の樹)”を成長させるのに最も大切だったのは「美しい鏡」でした。その「鏡」とは、ネミ湖で、かつて「ディアーナの鏡」と呼ばれ、人類学者ジェイムズ・フレイザーの名著『金枝篇』を産む契機となった場所でした。その「鏡」を通して、エンデは自身の潜在意識、「マインド・ツリー」を映し出し、物語化していったといえるでしょう。そして偶然にも、エンデの家は「至福の精霊たちの谷間」と呼ばれた場所にありました。

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