ニーチェの「Mind Tree」(3)- エグザイルするニーチェ


発狂後、療養中のニーチェ

ルー・ザロメとの出会い。「永劫回帰」にインスピレーションを与えた「エネルギー保存の法則」の関係

▶(2)からの続き:ニーチェ37歳(1881年)の時、「永劫回帰」の思想に逢着します。「永劫(永遠)回帰」の考え方は、古代ギリシアの回帰的時間概念がベースになっているようですが、それに加え、当時、活発な学問になっていた物理学の法則がヒントになっています。それは「エネルギー保存の法則」でした。ニーチェはその知識をヘルムホルツ(1821〜1894)とマッハ(1838〜1916)の著作から得ています。1886年に、ニーチェは面識がないにもかかわらずこの2人の物理学者に『善悪の彼岸』を贈本しています。(『ニーチェ清水真木著/講談社選書メチエ参照)
翌1882年に、ニーチェはロシア女性ルー・ザロメ(当時21歳)と出会います。ローマのマルヴィータ・フォン・マイゼンブークのサロンで紹介された女性でした。イタリア統一運動のガリバルディとも親交のあったマルヴィータのサロンには芸術家や知識人だけでなく政治的亡命者(ロシアの亡命社会主義者ヘルツェン家の家庭教師をしていた)や、知的アウトサイダーたちが絶えず出入りしていました。ヘルツェンの娘オルガはマルヴィータの養子になりニーチェを崇拝するフランスの歴史家モノーと結婚しています。すでにこのサロンにはジェノバニーチェと一緒に暮らしていらパウル・レーも来ていて、ニーチェともどもルー・ザロメに惹かれ、一緒に写真を撮ったり、シチリアやチューリンゲンの森へ三人で旅に出たりしています。ニーチェはルー・ザロメの知的な魅力のなかに生と美が一体となった姿を感じ取ります。2人ともルー・ザロメに言い寄りますが、ていよく撥ね付けられています。その三角関係の不道徳さにニーチェの妹が口出ししてきて母をも巻き込んでニーチェと衝突します。ついに、パウル・レーとルー・ザロメは一緒にニーチェのもとを去り、二人は同棲生活しはじめます。ニーチェは恋に破れたにもかかわらずパウル・レーに決闘を突きつけたり、この時に母や妹と完全に決裂します。

ツァラトゥストラ」、「マインド・イメージ」の放電

1883年、1月のある午後、ジェノバ郊外の岬を散策していた時、「永劫回帰」の思想を帯びた「ツァラトゥストラ」の「マインド・イメージ」が突如、ひらめいたのです。前年に「世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である」とする「永劫回帰」の思想はすでに胚胎していましたが、「ツァラトゥストラ」という「マインド・イメージ」と放電し、結びついたのです。その3年後に『ツァラトゥストラはかく語りき(こう語った)』(1886年)が刊行されました。そこには「永劫回帰」を体現できるよう<自己を変革>していく過程と克服されるものが描かれ、「永劫回帰」を体現したものが「超人」となるのことが記されました。

「人間にあっても、樹におけるのと同じなのだ。高く明るい処へのぼろうとすればするほど、その根はいよいよ力強く、地中深くへと、進んでゆくのだ。下方へ、暗黒のなかへ、深処へ、ー悪のなかへ」(『ツァラトゥストラはかく語りき』)

翌1887年に出版された『道徳の系譜学』には、19世紀半ばから沸騰していた生物進化論の知識が反映されていて、後に議論を噴出させるものとなります。「系譜学」という言葉もダーウィンの進化論生物学を反映したネーミングになっていますが(ニーチェはおもにヘッケルやネーゲリの著作から知識を得ていた)、生物進化論を知る以前にすでにニーチェは古典文献学の分野で、分類・照合して系統図を制作していく作業から思い至っていました。

エグザイルするニーチェ

40歳を過ぎる頃になると、ニーチェはエグザイルしはじめます。ジェノヴァ、ローマ、バーゼル、ジルス・マリア、ライピチヒ、ナウムブルグを行ったり来たりします。スイスとイタリア中心に地中海沿岸を転々とする生活でした。『ツァラトゥストラはかく語りき(こう語った)』の文中に、アルプスや大海原、山中の泉、岬や夏の高原、冬の海岸などのシーンがよく出て来るのもそのためです。エグザイルの大きな理由は、ドイツでは暮らしたくなかったことでした。ニーチェのとったその行動は、隠遁者や孤独の思想家とイメージされるニーチェのこと、しばしば<漂泊生活>と言われたりしますが、まったくの無目的に移動するのではなく、定住地はないもののニーチェがそれまでの旅で気にいった場所を、季節ごとに訪れるといったものでした。そのためどの土地でも様々なひととの交流があり、完全に孤立していたわけではありません。バーゼル大学時代の友人オーヴァーベックはしばしばニーチェを尋ねてきたし、スイスの作家フルート・ケラーや、フランスのテーヌ、スウェーデンの劇作家ストリンドベルグらとも文通をしていました。また若い音楽家のペーター・ガストはなにかとニーチェについてくれ世話をしています。また、その時期にも、ニーチェは新しい時代を告げるような書籍には敏感に反応をしていたようで、スタンダールモーパッサンドストエフスキーキルケゴールなどを読んでいました。

つのる閉塞感。自身の<成長史>を著しはじめる

ニーチェはエグザイルしはじめた翌年から、ニーチェはこれまで発表してきた思想を「否定的」な側面に光をあてて再度あらわそうとします。それは『ツァラトゥストラはかく語りき(こう語った)』に至るまですべて自費出版してきた著作に対し、何ら反響もなく売れ行きも悪く、ニーチェは自身をなくしていたのです。『ツァラトゥストラはかく語りき(こう語った)』の原稿も燃やしてしまっていました。ここでいったんニーチェは閉塞します。そして出版方針を切り替えます。ニーチェは発狂するまでの約3年間の著作を、自身の思想を普及させるためのものと位置づけ、啓蒙的な内容のものに切り替えました。同時に、献本の相手に、新聞や雑誌の編集者や知識人たちを加えました。『善悪の彼岸』は10種類以上のメディアに取りあげられ今までにない反響に、イグザイル中のニーチェの周囲は慌ただしくなってきます。ライプチヒのフリッチュ書店が、自費出版だったニーチェの旧作を再刊(7冊)しはじめたのです。ニーチェはその7冊のすべてに序文を書きました。その序文は見事に自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の<成長史(ニーチェの言葉では「発展史」>になっています。『人間的な、あまりに人間的な』(1878、34歳)やその付録になっている『漂泊者とその影』(1879)は、精神の治療の記録だったといいます。つまり、自身の「心の樹」を自ら手当てしたわけです。
そして内面から手当てされたニーチェの「心の樹」からは、『曙光』(1881)、『悦ばしき知識』(1882)、『ツァラトゥストラはかく語りき(こう語った)』が咲き誇りました。さらに『偶像の黄昏』『アンチクライスト』『ニーチェワーグナー』も次々にあらわされます。昏倒し発狂する前年の44歳の誕生日の日に『この人を見よ』(1888)を書きだしました。自身の「マインド・ツリー(心の樹)」の成長を記した自伝でした。

ツァラトストラかく語りき 上 (新潮文庫 ニ 1-1)
ツァラトストラかく語りき 上 (新潮文庫 ニ 1-1)竹山 道雄

おすすめ平均
stars感動
stars神は死んだ、超人、永劫回帰
stars学生の頃一度は読んだ覚えの有る本
stars自己陶酔したい人はどうぞ
starsニーチェの最高傑作

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
ツァラトストラかく語りき (下巻) (新潮文庫)
ツァラトストラかく語りき (下巻) (新潮文庫)竹山 道雄

おすすめ平均
starsニーチェの最高傑作
stars必読書

Amazonで詳しく見る
by G-Tools