ジェイムズ・キャメロンの「マインド・ツリー(心の樹)」(2)- 15歳の時、映画『2001年宇宙の旅』を17回観る

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15歳の時、映画『2001年宇宙の旅』を17回観る

▶(1)からの続き:15歳の時、キャメロン少年のその後の人生に決定的な影響を与えるものを「観」ます。それは「手」で触ったり、「創」ったりすることではありませんでした。それは地元の映画館で観た映画『2001年宇宙の旅(Space Odyssey : 2001)』(1968年4月米国公開)でした。最初の時は、サイケデリックな光の中につっこんでからの光景の意味が分からず、映画を見終わってから路上で吐いてしまったという。そして映画の小説版を読んでその意味するもの、それを表現する方法や技術に圧倒され、繰り返し何度も何度も観に行ったといいます。キャメロン少年は、あの映画の中に入ってしまいたいほど魅了され、17回は観に行ったといいいます。好奇心旺盛なキャメロンは自分の観たものが何だったのか、どのようにつくられているのか、心の底から理解したくてたまらなくなったといいます。つまり「どうのように創られているのか」それを「理解」しようとしたのです。『2001年宇宙の旅』に秘められた宇宙哲学、人類史、人類の進化といったテーマは当面はおよそ埒外だったようです。

16ミリカメラで撮った小さな<宇宙戦争>。宇宙船や惑星をつくる

2001年宇宙の旅』体験以降、キャメロンはカメラをなんとか手に入れようとします。『2001年宇宙の旅』を撮ったキューブリックは、映画カメラの前には、スチール・カメラを少年期から手にしていましたが、キャメロンが2台目に手に入れたのはオンボロの16ミリカメラでした。キャメロンの「マインド・イメージ」がカメラに「鏡」のようにつぎつぎに映し出されていきます。
キャメロン少年の心の鏡に、戦争のイメージが映しだされました。そこに『2001年宇宙の旅』で観た、宇宙がオーバーラップしていきます。キャメロン少年が最初に撮り始めたのは、<宇宙戦争>でした。根っからの製作好きはさらにこうじ、宇宙船を自らつくりはじめ、さらに惑星の模型も工夫します。必要なカラクリは何か、どんな仕掛けが必要なのか、キャメロンは小さな宇宙戦争を実現させるためにあらゆることに思いを巡らせました。夜にはベッドの上に寝転がり、音楽で雰囲気をつくりながら頭の中で宇宙戦争の構成をあれこれ考えていたといいます。明日撮ろうかというシーンの撮影をイメージしますが、技術的知識のなさにいつもいらついていたようです。
2001年宇宙の旅』を観た翌年、今度はアポロ11号が月面着陸します。キャメロンもテレビに釘付けで、アポロのキットを購入してきて、サターン5型ロケットや月着陸船、司令船などのミニチュア・モデルをつくって遥か月面上空で実際おこなわれていることを自分なりにシミュレートさせて遊んでいたといいます。

高校時代、「特殊効果」の実験を繰り返す

高校生活(スタンフォード・カレッジ高校)も映画制作が中心でしたが、他の映画フリークとちがって映画づくりというよりは、いかにリアルな特殊効果がだせるかという実験ばかりだったようです。映画製作の中で最も興味を引かれているのは、「特殊効果」だったことはキャメロン自身すでにわかっていたので、そこに関心を集中させていたのですが、なかなかうまくいかなかったといいます。実際、映画への興味は無駄に終わるかもしれないと頭をよぎるようになり、その気持ちは追い払えなかったようです。気持ちを切り替えるように、コミック本を貪るように読んだようで、ここでも読むだけに終わらず、人物の描き方を真似して描いたり、自己流で描いたりした挙げ句、コミック・ブック(内容はSFもの)を1册丸ごと自分で描いてつくったこともありました。読書はSFものだけでしたが、アーサー・C・クラークレイ・ブラッドベリロバート・A・ハインラインにはじまり、ハーラン・エリスン、ノーマン・スピンラッドらニューウェーブものまで幅広く読んでいます(SF好きなら当たり前でしょうが)。この読書傾向は後にカリフォルニアに行ってからも続き、ハードウェアがメインのラリイ・ニーブンや形而上学的SFのカート・ヴォネガットの作品群に向かいます。

アーティストになるべきか科学者になるべきか。そして一人だけのスキューバダイビング

この苦しい高校時代に、キャメロンはキャスリン・イングルンドという歴史の先生に精神的に助けられています。キャメロンは後に何度も「大きな夢を見る自身を与えてくれた人は、歴史の先生だった」と語っています。キャメロンは、「アート&サイエンス」の授業をとっていたので、しょっちゅう絵を描いていた傍ら、科学の勉強もしていたといいます。キャメロンはその両方とも興味がつづいていたので、アーティストになるべきか、サイエンティストになるべきか大いに悩むことになります(同じカナダに住み、後に同じく映画監督になるデビッド・クローネンバーグも「小説家」になるか「サイエンティスト」になるか同じく悩んでいました)。
アートの方は、学校で美術史や絵画法、技法を学ぶだけでなく、学校外で地域の美術グループに所属し、そこで絵も描いていました。展覧会に提出する絵は、皆からすれば薄気味悪い内容の絵でした。とにかくキャメロンのハイスクール時代は、ふつうに勉強をする暇もない程忙しかったようです。ただ米国や日本と違い、カナダのハイスクールは5年間なので、学校の勉強一途になることもなく、関心のある事に時間を注ぐことができたようです。今の日本で、高校時代に「アート&サイエンス」を5年の間、授業を受けつづけることなど考えようがないでしょうが、大学よりもこの時期に自分の興味のあることに集中できうるカリキュラムを組めることは子供たちにとってどれほど有意義でしょう。
さらにこのハイスクール時代にキャメロンはスキューバダイビングも習得しています。テレビでジャック・クストーのドキュメンタリー番組や深海をテーマにした映画を観て、深海に興味をもったのです。スキューバダイビングをやっていたのはキャメロンだけで、クラブも何もなく、一緒に潜ろうと声をかけましたが誰も関心を寄せてくれなかったといいます。プールでライセンスを取得しましたが、湖で一緒に潜るパートナーがみつからず、結局、父に来てもらい緊急用の腰に巻き付けたロープの端をもってもらって20分湖水の底へと潜ったといいます。後に監督する映画『アビス』の深海のシーンは、この頃の深海への関心とダイビングの体験がもとになっています。

17歳の時、カリフォルニア州への移住

17歳の時(1971年)、キャメロン一家に思わぬことが起こります。父フィリップが、今よりいい給料がもらえる仕事があると、ある場所に移り住むことを家族に提案したのです。あるの場所とはカリフォルニア州オレンジ郡でした。父は家族一人ひとりに詳細を話しそれぞれの質問に答えながら皆の反応をみました。息子ジェームスの質問はこうでした。「そこはハリウッドに近いの?」。キャメロン少年はまったく地理に疎かったようです。が、それがわかると息子ジェームスはすぐにでも移住を希望すると父に応えました。映画製作の夢の入口に立つことができると、キャメロン少年は夢をふくらませました。そしてその年の子供たちの学年末に全員で南カリフォルニアへ移り住むこととなったのです。

カリフォルニアに来て、逆に映画製作から遠のく

ところがカリフォルニアでの新たな生活(ブレアという町)がはじまると、映画界が逆に見えなくなってしまったのです。近くのようでいて入口が分からない、まるでカフカの『城』のような感じです。カナダにいるときは映画界は遠くにあると、夢を先延ばしにする口実がありましたが、そんな口実はカリフォルニアでは通用しません。映画界への入口がわからない、入口の見つけ方さえわからない。どうすればいいのか、何からはじめればいいのか。キャメロンは映画学校に入りたいという願望はあったようですが、それは父の希望ではなかったし、将来が見えない方向にふりむける経済的余裕はキャメロン家にはありませんでした。
キューバをしたり海好きだったキャメロンですが、カリフォルニアに来て初めて海を見ています。ある伝記では、キャメロンは映画だけに意識を向けていたように書かれていますが、この頃なりたかったものは海洋生物学者だったといいます。実際カリフォルニアに引っ越してからかなりの間(最初の頃は意識していたようですが)、ハイスクール時代のように直接的に映画製作に関することは何もしなかったし、カメラも手放していたようです。24歳までの7年もの間は、キャメロンは映画への意識は潜在的にはあったとおもいますが、ハイスクール時代に同じように関心があった他のことに、そして着実で現実的なことに取り組んでいくのです。▶(3)に続く