デュシャンの伝統的形式を最終的に破壊したフランシス・ピカビアの精神➤


デュシャンはインスピレーションの回転軸なので、幾つかの方向にインスピレーションがリレーションしていきます。あしからず。デュシャンはパリのキューバ大使館の大使館員だった父(スペイン系キューバ人)とフランス人の母の間に生まれたピカビアは、つねに否定者としてデュシャンの前にあらわれた。口癖は「いや、そうじゃなくて...」とか「そう。だけれども...」。そういうパーソナリティの人はどこの会社にも一人くらいいそうだが、デュシャンにとっては大きな存在となっていた。1911-12年頃には当時のパリでは珍しいことだったようだがピカビアは毎晩アヘンを吸いに出掛けたりデュシャンが知らない世界の通路をいくつももっていて、芸術家の新しい態度を啓示していった。マン・レイデュシャンとともに短編映画をつくったり、レイモン・ルッセルの「アフリカの印象」の芝居に連れていったりした。とにかく時代の挑発者(Provocateur)だった。否定者の精神が強烈だったため彼の絵画はくるくる変わったとも評される。印象派の時代(1902-1909)→フォーヴ・キュビスム・オルフィスムの時代(1909-1914)→ダダの時代(1915-1924-New York DADAのメンバー)→怪物の時代(1924-1927)→透明の時代(1927-1932)→具象の時代(1940-1944)→抽象の時代(非具象の時代)(1945-1951)といった感じだ。その否定者ピカビアをさらにラディカルなアイデアで挑発する者がいた。それがスイス・チューリッヒにいたトリスタン・ツァラだった。またピカビアには横尾忠則が私淑していく。