J.D.サリンジャーの「マインド・ツリー」(1)

無口で、もの思いに沈み、転校ばかり繰り返していた中産階級のニューヨークっ子

つい最近の2010年1月27日、サリンジャー(Jerome David Salinger)が91歳で老衰で亡くなったことが全世界に向かって報道されました。日本では、2003年に村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が話題となったり、1980年にジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンが殺害前に読んでいた愛読書が『ライ麦畑でつかまえて』だったり、また199*年のレーガン大統領狙撃犯もまた同書の愛読者だっとということで注目されたりしましたが、本人に関する話は1950年代半ばから隠遁生活にはいっていたのでほぼ半世紀ぶりで、それが死亡報道になりました。そのためサリンジャーという大木の上半分は、霧の中でまったく見えないわけですが、隠遁生活を送るようになるまでのサリンジャーというちょっと変わった”樹”がどんな根を張っているのかみてみましょう。
サリンジャーは1919年の元日に生まています。父方はポーランドユダヤ人の家系で祖父はユダヤ教のラビでした。オハイオ州クリーブランド生まれの父ソロモンはチーズや肉をあつかう食品輸入業者でした。母マリーは結婚前は女優で舞台にたっていました。スコットランドアイルランド系のカトリック教徒でしたが結婚を機にユダヤ教に改宗しています。サリンジャーは父を敬遠し、母を慕い、母も息子を溺愛していました。父は食品輸入業者として成功し、子サリンジャーが生まれた時はブロードウェイ地区から、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンがよく足をはこんだ自然科学博物館近くに移り住み、さらにパークアヴェニューと東91丁目の角の高級アパートに移り住んでいます。サリンジャーは自著の自伝的人物の主人公ホールデンWASP-ワスプの上流階級の出自、サリンジャー自身は中産階級の出自でユダヤ人)のように20代前半をニューヨークっ子として何不自由のない生活のなかに、そして幻滅し、ささやかに反乱していました。
裕福なニューヨークっ子としての”心の根っ子”は、どこか弱々しく土の中を彷徨っているような感じでした。無口でもの思いに耽ってばかりで高校に馴染めず何度も転校を繰り返しています。最後に辿りついた私立高校でようやく”根”が勢いよく張り出し、”心の樹”も成長をみせます。この時期、サリンジャーはジャーナリズムと演劇に熱を上げます。サリンジャーは母を慕っていたので舞台女優だった母からなにがしか影響があったか、母との遠い記憶がサリンジャーに演劇を「発見」させたかもしれません。ただ学業成績は平均よりかなり下まわり、文学好きにもかかわらずラテン語と幾何が滅法悪く3年の進学時に退学になっていまいましたが、”心の樹(マインド・ツリー)”はうねうねくねりながらも成長していきます。父は15歳のサリンジャー軍学校に転入させます。外面的には、父にはいったい息子が何をやっているのかまるで理解されていなかったようです。しかし内面世界では、演劇・文学・ジャーナリズムがサリンジャーの”魂の樹”を確かに成長させていました。サリンジャーは、この頃に文章を書きはじめています。それはまさに”心の樹”がじょじょに伸び始めたことのあらわれです。

演劇と文学がサリンジャーの心の養分に

 軍学校では成績も良くなり無事17歳で卒業しています。そしてこの軍学校でも演劇に夢中になり演劇クラブ「仮面と拍車」に参加しています。演劇はサリンジャーにとって大切な養分であり光でした。後期の作品『グラス家物語』は設定がサリンジャーの家庭によく似ているといわれていますが、そこでは父の存在は希薄です。事業で成功をつかんだ父はあまり家にいなかったのでしょう。父はサリンジャーのことを跡継ぎとしかみていません。父は18歳のサリンジャーをハムの仕事の見習いをさせるためヨーロッパ修行にだしています。一方で、ドイツ語とフランス語に磨きをかけるため勉強をつづけますが、その間も戯曲や短編小説を書きつづけています。サリンジャーという「樹」は、父ソロモンとは同じ種類の「樹」でないことは判然としてきます。帰国後、父もそのことにようやく気づき子サリンジャーに事業を継がせることをなかば諦めています。サリンジャーは、格式のある純文学雑誌『ストーリー』の編集者が担当する金曜夜のクラスを受講するためコロンビア大学に入学登録し、またせっせと小説を書きつづけ『ストーリー』に「若者たち」が掲載されるまでになります。この雑誌『ストーリー』は若い頃のノーマン・メイラーやジョセフ・ヘラー、ウィリアム・サローヤンの原稿を掲載した新人作家のいわば登竜門になっていた発表の場所でした。

幼年期:家族環境◉1919年1月1日生まれ。父方はポーランドユダヤ人の家系、祖父はユダヤ教のラビだった。父ソロモン・S・サリンジャーはチーズや肉をあつかう食品輸入業者(オハイオ州クリーブランド生まれでニューヨークにでてきていた)。母マリー・ジリックはスコットランドアイルランド系のカトリック教徒で、結婚前は女優として舞台に立っていた。結婚を機にユダヤ教に改宗。名前もマリーのヘブライ語名ミリアムに改めた。サリンジャーは父を敬遠していたが、母を慕い、母も息子を溺愛していた。サリンジャーが生まれた時はブロードウェイ地区に住んでいた一家は何度か引っ越し、ホールデンが好んだ自然科学博物館の近く西82丁目のアパートに移り住む。

◉少年・青年期:Topics◉父は食品輸入業者として成功、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンと同じく中産階級のニューヨークっ子として裕福な少年時代を過ごす。無口でもの思いに耽りがちな芸術家タイプだった。マンハッタンのアッパー・ウェストサイドの公立高校を転々とし最後は有名私立学校のマクバニー校に入学。ジャーナリズムと演劇に出会い活動的になる。フェンシングチームのマネージャーになる。学校の成績は平均よりかなり下で、ラテン語と幾何が特に悪く単位を落としたため3年の進学時に退学。15歳の時、息子の先行きを思んぱかり父はサリンジャーをヴァリー・フォージ軍学校に転入させる。この年、サンジャー文章を書きはじめる。軍学校では成績良く無事17歳で卒業。この軍学校でも演劇に夢中になり演劇クラブ「仮面と拍車」に参加。友人に将来はハリウッドに行き作家兼プリデューサーになりたいと語っていた。
18歳の時、父がまたも顔と口を出す。サリンジャーに将来自分の事業に加わってもらいたいためヨーロッパへ修行にだす。ウィーンではドイツ語とフランス語に磨きをかけ、ハムの仕事の見習いをする。その間も短編小説や戯曲を書きつづける。ポーランドで朝4時に起き豚の売買をする仕事とハムを輸出する会社の広告を書く。帰国後、19歳の時、ペンシルバニア州アーサイナス・カレッジに入学、1学期で退学。
▶(2)へ続く

<「Mind Tree」を通してみると、サリンジャーの本がもっと近くなります。どんどん心に訴えてくるようになります。この機会にぜひ一読を!>
✦『ライ麦畑でつかまえて』は、これ以降に書かれた米国文学に極めて大きな影響を与えました。例えばジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』やブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』、シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』などなどきりがありません。また映画への影響も多大です。『アメリカン・グラフィティ』『理由なき反抗』『卒業』『スタンド・バイ・ミー』などです。映画『フィールド・オブ・ドリームス』の原作にもなりました。

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