J.D.サリンジャーの「Mind Tree」(2)- サリンジャーのノルマンディ上陸作戦


サリンジャーもこのノルマンディ上陸作戦に一員として参加しました

戦争中もタイプライターを持ち歩いたサリンジャー

▶つづいて雑誌『エスクァイアー』や『コリアーズ』にも短編が掲載されます。この頃、軍学校の友人の姉の紹介で劇作家ユージン・オニールの娘ウーナと知り合い恋に落ちますが、電撃的に初老のチャップリンと結婚することになり交際は終わります。1941年、第二次世界大戦が勃発し、短編小説「マディソン街はずれのささやかな反乱」は雑誌『ニューヨーカー』から小説の内容(主人公は『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンで、同書の原形の一つとなった短編)から掲載は中止されます。愛国心に燃えたサリンジャーも軍隊に志願しますが心臓に軽い疾患があったため入隊は認められませんでしたが翌年入隊資格基準が引き下げされると陸軍に徴兵され通信隊に派遣されます。サリンジャーは幹部候補生に志願しますが認められず陸軍航空学校の教官となります。その翌年格下げされ特別情報部員の訓練を受け1944年にノルマンディ上陸作戦の歩兵連隊の一員として写真家ロバート・キャパも同行し撮影したノルマンディ上陸をはたしています(ロバート・キャパオマハ・ビーチに。サリンジャーはすぐ近くのユタ・ビーチに上陸)。
 戦争中も携帯用タイプライターを持ち歩き小説を書いていたという逸話があります。パリに進軍中にヘミングウェイに会い、ドイツではヨーロッパにおける最も激烈な戦闘だったといわれるヒュルトゲンの森攻防戦を体験します。神経衰弱が酷くなりニュールンベルクの病院に入院しますがそこで精神科医のフランス人女性と恋に落ち結婚します(米国へ帰国後、妻は8カ月目にしてフランスに帰ってしまいます)。回復後、半年間だけ国防省との契約で非ナチ化の任務についています。

小説の中で成長しつづけた主人公(=サリンジャーホールデン・コールフィールド

少し長く戦争体験を追ってみましたが、この体験がサリンジャーの小説にまるで「鏡」のように映しだされているからです。落ちこぼれ新兵が大佐まで昇進する陽気な短編「そのうちなんとか」、出征への不安心理を描いた短編「最後の休暇の最後の日」、「赤の他人」はヒュルトゲンの森攻防戦、そして「フランスまで来た新兵」などです。
 サリンジャーの”心の樹(マインド・ツリー)”は、神経衰弱に陥り癒しがたい心の傷を負いますが、その姿を客観的に捉え小説の主人公にしたてています。サリンジャーは戦争に翻弄され衰弱した自身を見つめ、描き、結果自身の”心の樹(マインド・ツリー)”を折らさずに伸ばしていくことに成功しました。それは最悪の日にも”心の火”をなんとか絶やすことなく続けてきたためでしょう。「マディソン街はずれのささやかな反乱」というタイトル”心の樹(マインド・ツリー)”が戦後1946年主人公がホールデン・コールフィールドの同小説が『ニューヨーカー』誌にようやく掲載され、主人公ホールデンが小説の中で成長し長編小説『ライ麦畑でつかまえて』として出版されました(1951年)。サリンジャー32歳の時でした。ホールデン・コールフィールドが小説の中に誕生して10年目のことでした。
 ホールデン・コールフィールドに命が吹き込まれていたその前年の1950年、サリンジャーの”心の樹”を変成させる出来事が起こりました。映画『愚かなり我が心』か同名の映画音楽を覚えておられる人もいるかもしれませんが、その映画はじつは「ニューヨーカー」誌に掲載されたサリンジャーの短編小説「コネティカットのひょこひょこおじさん」を原作にした映画でした。かのサミュエル・ゴールドウィンが映画化権を買い取り(映画『カサブランカ』の脚本家エプスタイン兄弟が薦めた)、サリンジャーにいっさいの製作過程が知らされぬまま映画は完成され封切られたのです。映画は原作にはないシーンやセリフが継ぎ足しされ最悪の出来で不評を被りました。これ以降、サリンジャーは夢に見ていたハリウッドを白眼視するようになっていきます。

[人生のシンクロニシティー・ポイント]

サリンジャーが足掛け10年をかけて産み落とした長編小説『ライ麦畑でつかまえて』が、出版エージェントを通じて出版が決定するも、当の「ニューヨーカー」誌は否定的で抜粋掲載に至らなかった1950年の終わり頃、サリンジャーは「不二一元論」を掲げたインド思想アドヴァイタ・ヴェーダンタ哲学に出会い真剣に学びだした。そしてニューヨークにあるスミトラ・パニダ・ラマクリシュナ・ヴィンヴェカーナンダ・センターで教えを受けだし、その後生涯に渡り東洋哲学・宗教と深くかかわるようになっていった。自身を映し込んだホールデン・コールフィールドが10年目にして産み落とされたこの年は、サリンジャーの人生の大きなターニング・ポイントであり、内的外的要因が幾重にも重なり、内なる目覚めがはじまったといっていい。ヴィンヴェカーナンダ・センターでのスワミ・ニクナランダの教えが、目覚めようとするサリンジャーの魂を導いていった。


<「Mind Tree」を通してみると、サリンジャーの本がもっと近くなります。どんどん心に訴えてくるようになります。この機会にぜひ一読を!>

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)野崎 孝

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