カレル・チャペックの「Mind Tree」(2)- 束縛する母との葛藤

家族から孤立した母の異常な愛

▶(1)の続き:チャペックにとって、母との関係は決定的なものでした。幼少時から青年期にいたるまで強く内面的な部分に影響し続けます。家事の切り盛りと子供の養育に疲れきった母は、憂鬱症にかかりヒステリーの発作が生じるようになります。末っ子のカレル(チャペック)が体調を崩すとノイローゼになり、医者の父のみならず他の医者の言葉すら信用しなくなってしまう程でした。とうとう家族の中で、カレルとしか言葉をかわさなくなっていきました。そして母の言葉は末っ子のカレルを通して他の家族に伝えられるようになります。母はカレルを独り占めするため他の家族からカレルを切り離そうとすらしました。チャペック一家はほとんど分断されてしまっていました。5歳の時カレルは母のあまりの感情の爆発を煩わしくおもうようになる一方、他の兄弟は母の異常な束縛からカレルを切り離そうと3人で秘密の言葉をつくって会話していました。
母は水車屋の生まれでした。水車小屋では、穀物を主に扱うので、穀物商でありパン屋も兼ねていたようです。夏休みになるといつもカレルたちはその水車小屋に行くのが楽しみでした(小説『ホルドバス』に出てくる人里離れた寒村はそこが舞台)。かつて母には好きな人がいました。父の求愛に押されて結婚したこともあり、医者として忙しい夫の陰で家事の切り盛りと子供の養育という当時の女性の役割に窮屈さを感じていたのでしょう。
ただ病的なまでの母の愛情はカレル(チャペック)のなかに自分の非凡さに対する意識を目覚めさせ鋭敏さをいっそう鋭くさせていきました(天才の息子の母親には時にこうしたタイプの母が存在します)。一方カレルは意識レベルで何事にも前向きで仕事の虫のような父を尊敬していていました。何でも1日あればできるというのが父の自慢でした。小説『クラカチット』『平凡な人生』のなかにいつも力強く、前向きま好人物(=父)が登場します。
チャペックはプラハ大学で美術と哲学を専攻しました。後にマサリク大統領の後を継いで第二代大統領になるベネシェ博士からアメリカン・プラグマティズムについて教えられ、レポートとして「プラグマティズム、または実践生活の哲学」を書き、後に出版されます。

兄とともに哲学と造形美術への関心を深める。

21歳(1911年)の時、パリにいた兄のもとへ向かいました。パリでは兄とともに建築や造形美術の最先端をゆく前衛グループ「造形芸術家集団」に参加します。おそろいの風采でいつも一緒の兄とは双生児のようにみられていました。この頃チャペックは、文学の世界ではなく造形芸術に属していると感じていました。キュビズムに賛同しその原理を解説したり、「美学における客観的方法」のテーマで卒業論文を書いています(1915年)。チャペックにとっても第一次世界大戦は決定的な影響を与えられ、自分がだんだんとアナーキストになっていっていると感じるようになっていきました。鬱屈と無力感に苛まされました。兄は視力の弱さで徴兵されず、カレルも脊椎リューマチで兵役不合格となります。既にこの頃、脊椎リューマチはあちこちの関節に痛みを及ぼしはじめていました。そんななかでもチャペックは日々、読書しものを書き続けました。

貴族の館での家庭教師、そして「国民新聞」へ

すでにパリから戻っていたチャペックは、幾つかの雑誌に定期的に執筆し、戦争中ではありましたが兄と共著の短編集『輝ける深淵』(1916年)を刊行します。しかし収入源としては乏しくプラハ国民美術館図書室に仕事の口を探したりしますが、結果的に短期的に愛国主義的な伯爵の館で家庭教師の職を引き受けます。この体験は後に『悲しい話』や『クラカチット』に活かされました。翌年に、チェコを代表する日刊紙「国民新聞」に職を見つけることが叶っています。この「国民新聞」には多くのチェコの作家が投稿し、またチャペックにも影響を与えたチェコの最も重要な作家でありジャーナリストのヤン・ネルダもかつて編集者であった新聞でした。

現代フランス詩の翻訳、戯曲『ロボット(R.U.R.)』

この年には少しづつ続けていたフランス詩の翻訳も『現代フランス詩集』として刊行されています。詩の翻訳がチャペックの初期の作品の一つとなります。その翻訳はきわめて優れ、チェコ現代詩の言葉の基本となるほどのものでした。チェコ現代詩人の一人ヴィーチェスラフ・ネズヴァルやチェコの若い世代の詩人フランティシェク・フルビーンも新しく生まれたチェコの詩は、チャペックの翻訳詩のリズムによっている、と語っています。
『ロボット(R.U.R.)』は戯曲として書かれたもので、戯曲『愛の盗賊』と同じ年(1920年)に出版されました。チャペック30歳の時です。『ロボット』は思いがけずに世界的成功をもたらしました。人間とその行動との間の自己疎外関係、そして自然の力を支配し、そして人間の地位を変えようとする願望を危険視した内容のものです。寓話的でユートピア的物語はチャペックの”マインド”に合致したものでもありました。また未来に設定された舞台は神話的、風刺的なものであり、かつ人類にとって革命的な発明というモチーフを発展させたものでした。

◉青年期:Topics◉チャペックは、哲学をライフワークにした。18歳の時の「アメリカン・プラグマティズム」に関するレポートには、チャペックの「樹」のベースとなる要素が多分に含まれる。「プラグマティズム」とは米国の哲学者ウィリアム・ジェイムスが提唱した哲学で、人間を究極の人間生活という「現実生活」に結びつけようとする哲学で、抽象的概念を回避し、一人ひとりの人間の経験を重視するものだった。経験は変化しやすいものとする考えは、「新しい経験」は新しく発見された事実に依存するからである、とする。そこから現実世界は、「可能性の世界」であり、われわれのために開かれた空間であり、われわれの行動によって形づくられるのを待っていると考える。チャペックはこのプラマティズムに、イデオロギー的幻想世界(コミュニズム)に断固拒否する姿勢を、この哲学の中から引き出していた。それはそれぞれの人生の相対主義的信条によるものとしてあった。