フィリップ・K・ディックの「Mind Tree」(3)-長編の罠と、歓喜

長編SF小説を試みる。第一作『偶然世界』

ところがつねにそうなのですが将来の大樹には、必ずといっていいほど困難が降り掛かります。逆に言えば、困難があればこそ大樹に育つのです。ディックの場合は次のようなものでした。多くの短編が有力SF雑誌に掲載され高評価を得(24歳の時、15誌に短編を売り、ある月には7誌に同時に作品が掲載されるほどに)、有望新人としてSF大会に出席しました。そこで『非Aの世界』を著したSF作家ヴァン・ヴォークトと一緒に写真を撮られた時、誰かが「古いのと新しいの」と言うのが聞こえ、自分は長編SFを書いていないことに俄に劣等感を覚えたのです。何カ月かけ長編執筆の準備にとりかかりました。そしてなんとか書きあげると、エース・ブックスが最初の長編SF『偶然世界』を購入してくれたのです。師匠バウチャーが『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』で好意的な書評を書いてくれました。また「アナログ」「インフィニティ」でも評価され、賞賛の的に。短編は20ドルで売れ、長編は4000ドルだったので長編を書くことに決める。ディックはすでに結婚していました。短編だけでは生活がまわっていかないのです。そして立て続けに長編SF『ジョーンズが創った世界』『悪戯をした男』『虚空の眼』と書きまくりました。とくに『虚空の眼』が大いに評価され、自身長編向きだと考えるようになりました。

生活がすさみだす。結婚生活の破綻。書けなくなる

長編に取り組みだすと、反比例するように生活がすさみはじめました。妻はシュールな想像世界で遊んではくれません。妻は現実世界に存在しています。リアルな存在です。虚空にいるわけではなりません。猫なら両方の世界に出入りできるでしょうが(ディックは大の猫好き。ついでに女好きであったが)。ディックの「マインド・ツリー」の中に妻の居場所はありませんでした。妻からすれば、ディックはこの世界から離れたがっていると感じられていました。そして8年続いた結婚生活は終焉を迎えました。離婚。ディックは田舎へ引っ越すと、今度は連れ子が3人いる夫を亡くしたばかりの女性と出会いました。翌年結婚します。その後も2年間読むに値する作品を生めず創作をやめてしまいます。ジュエリー・デザイナーだった妻の創作欲の方が強く、ディックの創作欲は生活には邪魔だと言われる始末。自尊心を失いながらも仕方なく妻のデザインした宝石を磨く生活がつづきました。ある日ディックは精神科に行きました。その精神科医のアドバイスが効いたのです。ディックは再びSFを書きだしました。書きあげたものがなんとその年のヒューゴー賞を獲得したのです。それが『高い城の男』でした。

◉成年期:Topics◉今でも似通っているだろうが、並のSF作家はつねに過酷な現実に脅かされている。1960年代後半から70年代半ばにかけ、ディックはたて続けに長編SFを書き上げ出版されたが、最も稼いだ年でも年に$6000だった。ちなみに1冊あたりの原稿料は$1500〜$2000であり、2篇の長編を出版できたとしても年$3000〜$4000稼ぐのがやっとでふつうはまず生活はできなくなる。ディックも収入を増やそうと死に物狂いで書いた2年間は精神状態が狂いはじめたという。ペーパーバック再販や海外での売り上げ、雑誌への再録、版権料もまったくあてにはならなかったという。別の仕事をちゃんと持って余暇に作品を書くのでなければ、SF作家は早死にするしかないとは、ディックの弁である

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