モラヴィアの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)-両親、姉、弟ともうまく関係がとれない

イタリア人なら誰でも知っている20世紀イタリアの賢者

モラヴィアはイタリアの作家です。しかもイタリア一の「賢者」とも言われています。イタリアといえば日本では、サッカー、ローマやミラノ、ヴェネチアといった魅力的な街、それに美術や映画、デザイン、様々なハイセンスなプロダクト、ファッションにパスタ料理、アイスクリーム、建築・世界遺産と、誰もがすぐに思い出すものが沢山ありますし、その人なりのイタリアに対するイメージがあるとおもいます。けれどもその中にイタリア文学をあげる人は、少数派に違いありません。イタロ・カルヴィーノや『バラの名前』の著者ウンベルト・エーコ、あるいは一気に遡ってダンテの古典文学に関心をもたれる人もなかにはいるとおもいます。でもモラヴィアの名をあげる人は、かなり限られるでしょう。
ところがイタリア国内では、モラヴィア知名度は圧倒的なものがあります。多くの人がノーベル文学賞は当然に受賞しているものとおもっているようですし、事実、毎年のように候補にあがっていて最も至近距離にいる作家であり続けた時期がありました。そしてイタリア人はモラヴィアといえばあらゆる問題に対する回答をもっている「賢者」とおもっているからです。ちなみにモラヴィアの代表作は『無関心な人々』『アゴティーノ(邦題「めざめ」』『倦怠』『軽蔑』、男根を主人公とした『わたしとあいつ』や『関心』『深層生活』、数多くの魅力的な短編です。
面白いことにイタリア随一の「賢者」は、正規の学校教育を受けていません。しかもある時期までは、モラヴィアは「ポルノ作家」というレッテルをはられていました。日本の写真家でいういっときの荒木経惟氏のようではありませんか。いったいイタリア人が「賢者」とみるモラヴィアとはどんな人物なのでしょうか。そして「ポルノ作家」から「賢者」とまでおもわれるようになるにはどんな変化があったのでしょうか。モラヴィアの『マインド・ツリー(心の樹)」を描きながら、その事情(情事ではありません)を”覗いて”みましょう。

家庭を築けない父、教育ママの母

モラヴィアは、1907年11月28日、ローマの中心部のズガンバーティ街に生まれています。父カルロ・ピンケルレはヴェネツィア生まれのユダヤ人で、家業の革なめし業がつぶれたため建築技術を学び、後にローマに出て建築家になっています(リバティー様式の建物を140軒程建てている)。父の兄(伯父)は上院議員で教養人でした。母ジーナは、オーストリア皇帝から貴族の称号を得ている家系に生まれています(一家の祖先はウラジミール姓のスラブ人。ナポレオンがユーゴスラヴィアダルマチア地方を占領した時にフランスから移住)。両親は移民だったためいっこうに周りにとけこめなかったが、暮らし向きは不自由しない程度だったとモラヴィアは後に語っていますが、実際にはなかなかの家柄の出でブルジョアといっても過言ではないでしょう。母ジーナの兄はムッソリーニ時代に下院議員になり戦後は極右の政治団体MSI)の幹部になっています。ただ良家の出だったといえ当時母の実家は経済的に厳しい状態にあり、母は若い頃職業婦人としてタイピストとして働いていました。母の夢は中流家庭の奥様になることでした。念願かなって経済的に安定した建築家夫人になった途端、ファッション雑誌を愛読し優雅に装いはじめ、気にいらなければ召使いをとっかえひっかえしていました。母親は読書好きですが、読むものといえばコレットダヌンツィオなどの流行作家の本やフランスの恋愛小説でした。
一方、建築家の父カルロにも問題がありました。怒りっぽいカルロは妻子と睦まじくできない性格だったのです。自分だけの世界に閉じこもりがちだったからそうなったのか、妻子とうまく家庭が築けなかったからそうなったか。鶏が先か卵が先かの問題でいえば、鶏が先だったようです。もともと趣味で絵画を描いていたのですが、結婚してからもどこに行くにもひとりでした。父カルロは、家庭を大切にする(しなくてはならない)多くのイタリア家庭とは真逆に行ってしまったのです。まったく家庭とは縁遠い父でした。ただ別の次元からみれば父は芸術家肌だったともいえ、モラヴィアはその資質を受け継ぐことになります。

内的世界に引きこもる寡黙な子供だった。

家庭環境が反映したのか、アルベルト(・モラヴィア;以降、成年期になるまでファースト・ネームで表記)の幼少期は口数が少なく、薄い膜がかかった内的世界にずっと引きこもっているようでした。5歳の時には「物語」をつくりだし、それを読んで聞かせはじめます。もっとも多くは文字に記すものではなく、言葉で語る「語り」のようなものだったようです。それでもその面ではかなり早熟でした。
7歳で小学校に入ります。友だちの家に遊びに行った時、あまりの貧しさにショックを受けたといいます。学校では社会の各層の子供たちと接触ができたことがよかったと後に回想しています。アルベルト少年は可愛らしかったようで年上の将軍の娘に気に入られたり、いい思い出もあったようです。
9歳の時、アルベルト少年の学校生活と性格が急変することがおこりました。風邪で高熱をだし、半年程寝たきりになり、いったん治り1年程はふつうに歩けたものの(中学は1年だけなんとか通うが後は自宅学習。歴史が得意だった)次第に脚がゆうことをきかなくなって激痛におそわれるようになります。やたら転ぶようになります。脊椎カリエスでした。骨が腐る恐ろしい結核性の病気に罹ったのでした。専門医も本当の原因を見逃してしまい、アルベルト少年は一晩中、痛くてうめくようになります。伯母が療養所のサナトリウムで治療させるように進言し、アルベルト少年はギブスをはめられコルティナ・ダンペットォのサナトリウムに送られました。
少年期後半から青年期にかけての療養所生活は、モラヴィアの「心の樹」を決定づけるものとなりました。モラヴィアの身体の「幹」は、ギブスをはめられてしまいますが、真逆にその”足枷”は「心の樹」を猛然と伸ばし、羽ばたかせるには大いに貢献したといえます。▶(2)に続く

◉少年期:Topics◉両親と関係がとれない、あるいは片親とうまくいかないケースはどこにでもあるケースですが、そうした家庭環境の場合、兄弟姉妹がいれば仲良くなったりするのが普通だとおもわれます。ところがモラヴィアの場合、両親とも疎遠だったのに加え、2人の姉・弟ともまったく心をかよわせることがなかったといいます。姉の一人は弟を可愛がろうとしていたがモラヴィアの方が避けていました。年齢が比較的離れていたとはいえ希有な例で、日本でも話題になっている「無縁社会」が、モラヴィアの場合、意味は異なるものの家庭のなかで「無縁」状態に陥っていたのです。後にモラヴィアはそのことを大いに反省していますが。