モラヴィアの「Mind Tree」(2)-サナトリウムでの”ドストエフスキー病”


廃屋になったイタリアにあるサナトリウム
モラヴィアはこうしたサナトリウムで療養していた。

家で寝たきりの状態の時に、本を乱読しはじめた

▶(1)から続く:物心ついてからサナトリウムに入れられるまで、とくに寝たきりの状態の時は、アルベルト少年は家にある蔵書を読んで気晴らししています。ただ建築家(父)の書棚は建築関係の専門書が幅をきかせていましたが、父が若い頃に読んでいた本が眠っていました。『シェイクスピア全集』「モリエールの戯曲」、ティエールの『フランス革命史』、ダンテ『神曲』、『イタリア国家統一史』、グレゴロヴィウス『ローマ史』、アリオストの『狂乱のアリオスト』といったところですが、当時としてはインテリを気取れば揃えていた蔵書の類いだったようです。アルベルト少年がとりわけ熱心に読んだのはゴルドーニ生誕二百年記念の豪華全集でした。読む本がなくなるとフィレンツェのヴィッシー文庫という読書クラブに入会し、週に6、7冊の本を借り、2日に一冊のペースで乱読していったようです。気持ちの半分はまだ気晴らしでした。読書体験はサナトリウム時代も続きますが、本格的な読書といえるものは、サナトリウムを出てからです。モラヴィアは述懐しています。サナトリウム時代に読書を大いにするが、まだそれは何もすることのない気晴らしで、思索らしいことは何もできず、むしろぼんやり過ごしている時間の方が長かったと。しかしモラヴィアの肉体は寝たままでしたが、感性は完全に萌芽しはじめていました。

ドストエフスキー病”にかかる

アルベルト少年は、サナトリウム時代に、”別の病気”にかかっていました。それは”ドストエフスキー病”でした。ディケンズバルザックなども耽読していましたがアルベルトにとってドストエフスキーは格別でした。ドストエフスキー病”は、サナトリウムの治療が終わってからも晩年になるまで治ることはなかったといいます。それはサナトリウム時代に、社会との関係がまったくなくなった境遇と関係しているかもしれません。ドストエフスキーは従来のように人間を社会との関係で描くのではなく、「自分自身との関係」の中だけで描き出していたのです。それゆえモラヴィアは、ドストエフスキーを「実存主義の真の開祖」ととらえ、自身の「鏡」としたたのです。その偉大な「鏡」に映しだすように描かれた初期の小説があります。23歳の時に書いた病室でのセックス談義と初恋を描いた『病人の冬』です。

フロイトの『精神分析学入門』に傾倒

アルベルトはサナトリウム時代にすでに後に彼の代表作の一つで、イタリア文学の顔の一つともなる『無関心な人々』のメモ書きをしはじめていました。病室や療養生活は、寝たきりの若者の「観察眼」をさらに研ぎすませます。しかも人生が凝縮されている病室は、見方を変えれば「舞台」そのものでした。実際、とりかかった小説の冒頭も「誰かが入ってきた」というように演劇的で極めてドラマ性に富んだものでした。アルベルトは叙事詩のように”口ずさみ”ながら句読点など気にすることなく書き連ねていきました(そのため文の句読点は後で付けられた)。18歳の時、フロイトの『精神分析学入門』やマルクスの著作を読み、「性」と「階級」が新しい価値だと認識しはじめています。その年サナトリウムを出たアルベルトを待っていたのは教育ママの母の「学校を卒業しはくては将来どうなるの、学校へ戻って欲しい」の懇願でした。もはや心の中で進行していた”ドラマ”を止めることはできません。執筆は本格化します。ただ執筆には午前中の1〜2時間と決めていたようで(仕事をスタートしてからは、午後は食べていくための仕事をする時間と考えていました。映画にかかわるようになってからも、午後は食べるための脚本書きと決めていたようです)、それがモラヴィアの終生の時間割になりました。そして3年がかりで『無関心な人々』を書き上げます。▶(3)へ続く

モラヴィアの3人の妻◉最初の妻エルサ・モランテは後にイタリアでトップの女流作家になっている(代表作『歴史(邦題:イーダの長い夜)』;主人公クラウディア・カルディナーレで映画化)。離婚後65歳の時に睡眠薬自殺をはかり後遺症に苦しむ。2人目の妻マライーニも有名な女流作家。3人目の妻カルメン・リィエーラはモラヴィアの作品のスペイン語訳もだした出版社に勤務していた。後に小説家になる。モラヴィアは年下好みで、1人目は一回り下、2人目は30歳程も離れ、3人目はなんと46歳も年下。それなのにモラヴィアは結婚生活を長く継続させることができない性質が自分にあると語っている