モラヴィアの「Mind Tree」(3)- 激しく行動するモラヴィア


刺殺された映画監督パゾリーニの葬儀で演説するモラヴィア

印刷費もちの出版。大物批評家が大絶賛

▶(2)から続く:20歳の時、並行してフランス語で書いていた短編『疲れた娼婦』を作家たちが創刊した文芸誌「900-ノヴェチェント」に発表。彼自身その雑誌でジャーナリストとして活動を開始しました。ところが完成した『無関心な人々』は、悪文すぎると同誌に掲載拒否されてしまいます。そこで原稿をミラノのアルプス社に持ち込みましたが、無名な新人なので重役会議を通らなかったが、印刷費を負担するなら出版しようとの返事(こうした例は実際にヨーロッパではかなり見受けられますし、自費出版も多くあります)。限られた登場人物の心理的葛藤だけを描く本書を、モラヴィアはヨーロッパで最初の実存主義文学と考えていたので出版にこだわりました(実存主義文学の代表作といわれるサルトルの『嘔吐』はその10年後、カミュの『異邦人』はその13年後に出版されています)。父が印刷費5000リラをもつことで出版契約にいたり、1929年(22歳の時)『無関心な人々』が刊行されます。大物の批評家ジュゼッペ・ボルジェーゼが「無関心な人々」は歴史的タイトルになるだろうと予言、新聞書評で絶賛し(今でもその慧眼は語り草に)、初版1300部は数週間で売り切れ、後の4年間で5版されるほどに売れました。版が重ねられている間も、モラヴィアは活動を続けます(イタリアでは通常、作家だけで食べていくことはできません。映画の脚本書きなど映画界とのつながりがしばしば密に。蛇足ですが高名な作家・芸術家ですら病に倒れると入院費も払えなくなることも多く、後にイタリア文化に寄与したと認定される高齢芸術家は国家保護の対象に。モラヴィアの最初の妻エルサ・モランテが長期入院した時にモラヴィアが提起した問題だった)。23歳の時にはジャーナリストとしてニュースペーパー「La Stampa」で仕事をし、1933年(26歳)、文芸評論誌「キャラクター&トゥデイ」を共同で創設、 La Gazzetta del Popolo新聞に原稿を寄稿しはじめています。サナトリムで療養を余儀なくされていたことが嘘のように(ある意味、余儀なくされていた体験と時間があったからこそ)、モラヴィアの「マインド・ツリー(心の樹)」は、光と水をたっぷり吸収したように、幹を肥やし何本もの枝を張り一気に成長しはじめました。

ファシスト、逮捕者リストにのる。嫌われ者モラヴィア

ファシスト政権がイタリア国内にのさばりだすと、『無関心な人々』に描かれたブルジョア階級のデカダンス国家社会主義の理想にそぐわないとし(ファシズムはつねに必要以上の規律と倫理を高く掲げる)、売れ行きを見込んだ別の出版社が準備した重版が差し止めをくらってしまいます。ファシズムは不道徳の”根”を断ち切ろうとするだけでなく、理想にもとる者は”根絶やし”にしていきます。「マインド・ツリー」どころではありません。「樹」の種が異なるとして、全伐採に突きすすんでいくのがファシズムなのです(日本では神聖なる樹を守ると称して、権威を身にまとった者が多くの若木を「丸太(まるた)」の如く扱いました)。実際、反ファシストの政治家だったモラヴィアの従兄弟はフランスでテロリストに暗殺されています。
1943年、ムッソリーニが逮捕され早々と連合軍に降伏したイタリアは一時的に祝杯ムードとなります。身を隠していたモラヴィアカプリ島からローマに戻り、再び新聞に寄稿しだしますが、ヒットラームッソリーニを救出し「イタリア社会共和国」を樹立。またも暗転します。ユダヤ人のモラヴィア家にも監視の目が入り、モラヴィアに逮捕状が請求されます。ナポリ山中に逃れ家畜小屋に隠れながら農民たちと暮らしました。この頃のモラヴィアレジスタンス運動には加わらず、個人のペンでのみファシズムと対抗していたのです。
1944年に米軍が侵攻しローマが解放されると、今度は共産主義が一気に幅をきかせてきました。10代からマルクスの著書に親しんできたモラヴィアも意識の上では個人的に左翼主義者でしたが、スターリンの血の粛正や強制収容所の実体を見抜いて、共産主義を新しい宗教と見なして組織に入ることは避けていました。またモラヴィアも脚本家として一員とされていた映画運動のネオレアリズモからも、モラヴィアの表現はネオレアリズモにあらず、として非難されます。とにかくどの組織や運動、さらに社会の良識からもモラヴィアは嫌われつづけたのです。ほぼ全方位的に嫌われたモラヴィアが、戦後「賢者」と言われるようになっていくのですから面白いものです。

全作品が、ローマ教皇庁の禁書リストに

1945年に発表された『アゴティーノ(邦題:めざめ)-執筆は1942年』はコッリエーレ・ロンバルド賞を受賞し、戦後イタリア文学で最初に輝いた作品となります。その2年後に刊行された『ローマの女』は、『無関心な人々』以来の反響となり、新聞や週刊誌に多く寄稿するようになっていきました。1949年頃(42歳)には、有識者と目されるようになったモラヴィアは各メディアから発言を求められることが多くなり、戦後イタリア民主主義のスポークスマン的役割を担うようになっていきます。大戦後はすっかり価値が転換し、実際多くの知識人たちが宗旨替えしていったなか、モラヴィアイデオロギーや運動との距離の取り様や、組織に属さない見方、イズムのない生き方が「賢者」に見立てられたともいえます。
1952年になると今度はローマ教皇庁モラヴィアの全作品を「愛欲の書」として禁書リストにピックアップするのですが、その一方、1959年にはモラヴィア国際ペンクラブの会長になっています。禁書リストの常連が、国際ペンクラブの会長になるあたり、一筋縄ではないヨーロッパを知るにはモラヴィアはうってつけです。モラヴィアが取り組んだ「性」と「階級」の2つの視点からだけでも、ヨーロッパの精神の遍歴のかなりをつかみとることができます。
愛を唄い恋愛至上主義のようにみえるイタリアですが、その一方カトリックの良識が隠然たる力をもっています。『深層生活』(1978年)は、カトリック夫人グループによって”ポルノ作家”のレッテルをはられる好材料となり、イタリア全土で発禁処分となるほどでした。ペニスを主人公とする『わたしとあいつ』(1971)ですら、業としてもつ人間の性衝動をどう昇華させ知恵とするかというすぐれた観点から書かれたものでした。良識派はそうした”視点”すら堪忍できないのです。

チェ・ゲバラと共に戦ったレジス・ドブレの救出

環境と内面の両面から、モラヴィアは鋭い眼光をもった行動する作家になっていきます。チェ・ゲバラの最後のゲリラ戦をともにしたフランスが誇る知識人レジス・ドブレを救うために南米ボリビアに行った唯一のヨーロッパ人となったり(1967年)、パレスチナ問題で積極的な活動した唯一のイタリアの作家となり、文化革命時の中国を訪問したのもイタリアの作家ではモラヴィアただ一人でした(紀行文『中国の文化革命』)。また戯曲を書き、劇団をつくり、劇場の運営も計画します(資金難で頓挫)。1968年には三島由紀夫氏のように、ローマ大学の学生集会で体制に造反する学生と討論し連帯してもいます。1982年には再び日本を訪れ(広島原爆記念館も見学)、その体験をもとに『視る男』を上梓し、原爆について科学者や政治家とインタビューを重ねエッセイを書いています。そして核兵器廃絶のため欧州議会議員にまでなっています。
かつてギブスを嵌められサナトリウムに”隔離”されただけでなく、自らも家族全員から乖離していったモラヴィアは、心のギブスを取り外し、自身の「心の樹」を拡げていきました。それはサナトリウムで養った「観察する眼」を、まずは美しいイタリア女性たちに、キャンパスで反乱する若者たちの心に、映画や劇場に、そして南米のボリビアの山中、中国、広島とその「観察する眼」を世界に拡げていった結果でもあったようです。
1990年、自宅のバスルームで倒れ亡くなっているのを発見されました。享年83歳。


◉映画になったモラヴィアの作品◉『軽蔑』(1963; 監督ジャン・リュック・ゴダール;小説はまさにモラヴィアの自画像的作品といえるもので、主人公が映画の脚本書きを天職か食べるための方便かでうじうじ悩み、美人との妻との関係も挫折し悩む)、『順応主義者(邦題:「暗殺の森」)』(監督ベルナルト・ベルトリッチ)、『無関心な人々』(1964; 監督フランチェスコ・マセッリ)、『二人の女』(監督ヴィットレア・デ・シカーカ)『ローマの女』(監督ルイージ・ザンパ)、『深層生活』(監督ジャンニ・バルチェッローニ)、『倦怠』(1998; セドリック・カーン)、『田舎女』(監督ソルダーティ)など。

レジス・ドブレとは◉フランス・パリ16区生まれのラディカルなマルクス主義者。20代半ばにしてキューバに渡り、カストロチェ・ゲバラと革命運動をともにし、ボリビアチェ・ゲバラとともにゲリラ戦をするが投獄され死刑判決を受ける(チェは裁判なしで射殺される)。4年後に釈放後、チリの「アジェンデ政権」に参加。レジス・ドブレは武力革命を放棄する著書を書き、合法的選挙による平和的な社会主義に至る歴史的実験に参加。チリその試みは、ニクソン政権下のCIAが工作したピノチェト将軍によるクーデタであえなく崩壊。帰国後、ミッテランの顧問となり「左翼連合」の理論的リーダーに。ミッテラン政権では政治外交顧問となった。