ニーチェの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)-牧師館の子供に生まれて

牧師一家に生まれて。父の早過ぎる死

フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)は、1844年10月15日、当時のプロイセン王国(現在のドイツ連邦共和国;東西統合前は東ドイツに属す)の統治下ザクセン地方のライプチヒ近郊の町リュッツェン、そこから少し離れたレッケン村に誕生します。父カール・ルートヴィヒは、ルター派プロテスタント)の牧師で、祖父も同じく牧師、さらに母も牧師の娘という完全なる牧師一家でした。牧師館で寝起きする家庭環境、それがイコール宗教的環境だったことは、ニーチェの重要な”根っ子”の一つであることを示します。
つけ加えると、父カール・ルートヴィヒは、ただの牧師館の牧師ではありませんでした。元教師とか家庭教師をしていたとしばしば記されていますが、家庭教師といってもザクセンのアルテンブルグの宮廷の3人姉妹(つまり王女となることを予定されている女性たち)の家庭教師をしていたのです。実際、後に姉妹たちは北ドイツ・オルデンブルクの大公妃や、ロシアのコンスタンティン大公の妃になります。3人姉妹は、父カール・ルートヴィヒが早世したと聞くや(ニーチェ4歳の時倒れ、翌年に他界。しばらく後、末っ子ヨーゼフも死去)、ニーチェの母フランツィスカにある程度の経済的な援助をし続けていたようです。
小さな村レッケンの牧師といっても、家庭教師時代にプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世の知遇を得てのもので、国王フリードリッヒの直々の指名でした。父の牧師館は、国王フリードリッヒの肝いりだったのです。ニーチェの名前が、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェというのも、父が恩人でもある国王の名前を息子に授けたいという希望が叶いつけられたものでした。そしてあまりにも偶然にも、ニーチェは、父のプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルムの誕生日(10月15日)と同じ日に生まれたのでした。ニーチェの誕生と成長の”土壌”は、当時のプロイセン国家の骨組みと土地と地続きでしっかりつながっている誉れあるものだったのです。
後年、ニーチェはその誉れと”土壌”から自らをひっこ抜きます! なぜそれほどの誉れと”土壌”を激しく嫌悪したのか。ニーチェの”魂”は、自己の良心によって神と向き合い、禁欲、勤勉、秩序を徹底するプロテスタントだったことで、ひりひりするほど研ぎすまされ、後に自身の宗教的環境に批判的になっていくのでした。

ギムナジウム時代、詩人ヘルダーリンを「発見」!

未亡人となった母フランツィスカは2人の子供と家中の婦人とともに、古い伽藍で知られるナウムブルグに移り住みました。母の選んだナウムブルグは堅苦しい道徳観が支配する町で、ニーチェは息苦しさを感じていたようです。小学校をでるとギムナジウムに通いはじめます。1858年(14歳の時)、ニーチェは知的に格段と目立ちはじめ、近郊のプフォルタにある寄宿制のギムナジウム(古いシトー会の修道院の建物を利用した校舎)の給費生に選ばれ転校します。そのギムナジウムはドイツ屈指の伝統のあるエリートギムナジウムギムナジウムとは「学院」とも訳される学校組織)として知られていたスクールで、ライプニッツ、大哲学者フィヒテ、歴史家のランケ、ロマン主義のシュレーゲル兄弟が卒業生として知られていました(ニーチェの年下ですが、ニーチェの著書『悲劇の誕生』をめぐってニーチェに論争を挑んできたヴィラモーヴィッツ=メーレンドルフ-ドイツ古典文献学の泰斗となる人物-も後に入学してきます)。後にインド学の泰斗となるパウル・ドイッセンはニーチェと同級生でした。
このプフォルタのギムナジウムで、ニーチェプラトンアリストテレスギリシア三大悲劇詩人やホラチウスなどのラテンの古典に親しんでいます。同時に、ゲーテやシラー、セルバンテスの『ドン・キホーテ』(騎士道物語を読みすぎて自らを伝説の騎士と妄想した下級貴族の話)やローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』(ジョイムズ・ジョイスマルセル・プルーストにも影響を与えた「意識の流れ」手法の先駆け)などの近代文学も熱心に読んでいます。
またドイツ詩の最高傑作を書きつづけ大きな影響を与えていくことになるヘルダーリンをこの時期に「発見」し、深く読みこんでいます。ニーチェヘルダーリンの詩の純粋さと繊細さ、そして自然性と根源性にうたれています。このヘルダーリンが、大いにドイツ人を批判していました。その批判は、「専門家」というドイツ人が深く陥る現象(偏狭さ)にありました。それはニーチェがプフォルタに入った翌年(16歳頃か)、フンボルトの影響で「普遍的教養」の重要性にすでに覚醒させられていたことが、ヘルダーリンのドイツ人批判を認識でき、感受しえたといえます。

あまりの”専門化”を批判

ニーチェの「マインド・ツリー(心の樹)」の特徴の一つは、たとえていえば、樹木の品種や葉や樹皮の化学的構造、樹木の利用価値と価格としてしかみない、つまり”専門化”の陥穽を批判するものでした(度した専門化は人間を歪めるとニーチェは考えていた)。樹木の姿全体や樹が奏でる風の音、見事な枝振りや果実の匂い。樹木がつくりだす木陰や涼やかな空気、眼をいたわる色合いや四季による変化の全体を感じとる感覚をこそ重視しました。「自然」と「芸術」が、”相互に響き合う”ような世界こそニーチェの探るヴィジョンで、専門化だけにつきすすむと相互に響き合わなくなってしまうと感じたのです。▶(2)へ続く



◉少年期:Topics◉当時のエリートギムナジウムでは、世俗を遠くはなれた修道院の壁の中、依然として多くの時間は厳格な古典語教育に費やされていた。ギムナジウムではキリスト教が精神を<定規>にように規定していた。朝5時起床すると、夜9時までギリシア語とラテン語が間断なく生徒たちに叩き込まれ、その間に祈祷と一般科目が幾らか配分されていた。食事や就寝前には必ず祈りが唱えられます。ギムナジウムでは、ゲーテ、シラー、フンボルトら前時代を奏でた「新人文主義」のスピリットに溢れていた。それはギリシア古典のなかに普遍的な人間の姿と調和ある絶対的な美の実現をのぞむもので、ニーチェに大きな影響を与える。この精神は現実の封建的支配に対し、古代ギリシアの民主政治を模範とし、政治革命によって真の人間性を実現しようとするもの。ところがドイツではそうした革命は起こり得ないとおもわれていた。それでも19世紀後半までは知的エリートの「知識・情報」として受け継がれていたのだ。

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