アルチュール・ランボーの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 12歳の時、屋根裏で「発見」した父の残したもの

20歳で「詩」を捨てて旅立ったランボー

齢37歳にして断ち切れた「ランボーの樹」。蒼穹にいたるまで伸びんとする、この心眼でしか見ることができない巨きな樹は、世紀を2度にわたってまたいで、スピリチャルな花粉を青き星に撒きつづけています。骨肉腫から切断したランボーの右脚の代わりとなるかのように、世界中の多くの人を未知の国に歩ませます。自身の「生」と「魂」を磨くよう誘われて。そして完璧に磨きあげた<言の葉>で覆われたランボーの「心の樹」は、まるで全体が「鏡」で出きあがっているかのように、それを見る人の姿を、そして魂を映しだすのです。
わずか17歳にして『酔いどれ船 Le bateau ivre』(1871)を、19歳に『地獄の季節 Une Saison en Enfer』(1873)を、20歳の時、『イリュミナシオンIlluminations』(1874)を書き上げ、躊躇なく詩を捨て、独りアラビアへ、そしてアフリカに旅立っていったランボーランボーを知ることは、翻って、自身の「魂」に向うことになります。ではこれから霧の向こう、大海原の向こうにみえる「ランボーの樹」に少しづつ近づいていってみましょう。

父は陸軍大尉で家に帰らず。6歳の時、両親は離婚

ランボー(ジャン・ニコラス・アルチュール・ランボー:Arthur Rimbaud )は、1854年10月20日、フランス北部のシャルルヴィルで誕生しています(同年にオスカー・ワイルドもダブリンで誕生しています)。父フレデリックランボーは歩兵連隊の陸軍大尉(1832年、兵卒として入隊。45年に陸軍中尉としてアラブ局に転属)、母ヴィタリ・キュイフは小地主の娘でした。ランボー6歳の時、両親は離婚しています。もっともその頃までに、ランボーは父を1、2度見たきりか、まったく見た記憶がないのかもしれません。父はランボーの誕生以降、たった2度しか家に帰ってきていないからです(結婚後に両親が会ったのは休暇の間だけ、ほぼ子供をつくった回数しか会っていないといわれている)。そのためかつてのランボーの伝記では、父のことはほとんど触れられず(事実、資料がまったく無かった)、信心深いが狭量の母のことだけが、少年ランボーに影響を与えた家庭環境として語られてきました。あるいは映画『太陽と月に背いて』(レオナルド・デカプリオ主演)で描かれたように詩人ヴェルレーヌとの関係ばかりに影響関係が偏りすぎるきらいもありました。でなければランボーの言語感覚の天才性に始終するばかりです。
このランボーの「マインド・ツリー(心の樹)」では、これまであまり光があてられてこなかった側面、つまり直接会うこともなかった父フレデリックランボーがいかに息子ランボーに影響を与えたのか、その心的、知的影響を取り上げます。それは詩を捨てたランボーのアフリカへの旅立ちにも深く影響を与えていました。ランボーは、砂漠の向こう側に父フレデリックランボーの「心の樹」を幻視していたのです。

母に支配された日常

ランボーが言葉を「発見」するまでは、母ヴィタリがランボーの日常を支配します。母は離婚した後、労働者街だったブルボン街から引っ越します。しかしランボーは庶民的な街が好きで、引っ越してからもその街にわざわざ行って友達と再会して遊んでいました。母は貧相な服を着た労働者の子供と遊んでいるところを見つけると叱りつけたようです。母はランボーにいつも糊のついた白いカラーと上着を着せていて、ブルボン街ではランボーだけがまるで坊ちゃんの身なりだったといいます。母は子供たちが言うことをきかない時、しばしばひっぱたき、罰として部屋に閉じ込め食事にはパンと水だけしか与えなかったとある伝記には記されています。

広大な砂漠や太陽、旅、冒険への想い

またこの頃、ランボーは広い砂漠の生活に想いをはせたり、太陽や岸辺や草原を思い描いていたようで、後に書いた詩「7歳の詩人たち」の中でうたっています。「太陽を浴び、どこまでも散策し、時に休み、旅に出、冒険し、放浪生活を送る、そして本を読む」ことが当時のランボーの夢でした。もっとも10代半ばから数年の間は、詩人になろうと熱く欲しますが、そうしたおもむくままの行動が、「詩」であればいい、と”感覚”していたのかもしれません。

12歳の時、屋根裏部屋で父の残したものを「発見」

そして12歳の時、ランボーは母に閉じ込められた自宅の屋根裏部屋(ロッシュにあった時の家)で、「世界」を知ります。そこにあったのはアラビア語の文法書やアルジェリアに関する資料や研究書、『コーラン』の翻訳書類、覚書きや記事などの山でした。それらは父フレデリックランボーのもので、ひっそりと取り置かれたままになっていたものでした。アラビア語の文法書や『コーラン』の翻訳書類は、父自らが手がけていたものでした。
ランボーに優れた資質があらわれたのは中学2年生の頃だといわれています。ちょうどランボーが屋根裏部屋で、父が残したものを「発見」した頃からです。理科はこの時期まだ関心がまったく向かずそっちのけだったようですが、ラテン語の作詩・作文で優秀な成績をとりだし、その分野ではクラスで最優秀の生徒になっています。本好き、「言葉」好きだったところに、ランボーが「発見」し「気づいた」何かがさらにくわわったのです。

物静かな優秀な生徒がかかえた反乱の精神

高校に入るとランボーの知力はさらにあがり、学年で8つの一等賞を獲得するほどになります。校長先生も「悪の天才か、善の天才かどちらかになるだろう」と、ランボーの頭脳に驚いているほどです。樹木でいえば、交合性能が高い「早生樹」だといえるかもしれません。内面のその早過ぎる伸長は、外部の環境との軋轢を引き起こします。「一体、なぜギリシア語、ラテン語を勉強しなきゃならない。僕には分からない。結局そんなもの必要ないじゃないか! 試験に合格したってなんだっていうんだ。僕は地位なんて欲しくない。年金生活者になってやる!」。この魂の反乱の予兆は、周りにはいっさい感知されていません。周囲には物静かで従順で優秀な生徒だと映っていたほどです。しかもこの頃はまだランボーは背が低く、よく「チビ」と呼ばれていて、ランボーはそういわれるのを嫌っていた頃のことです。学業の成績とは裏腹に、ランボーの内面には強烈な反順応主義的な精神が芽生えていました。▶(2)に続く

ランボー全詩集 (ちくま文庫)
ランボー全詩集 (ちくま文庫)Arthur Rimbaud

おすすめ平均
starsすべて。
stars注が面白い
starsどのくらいの人が・・・
starsこの宇佐美訳で、10代の頃ランボーに出会いたかった!
starsいい訳ですね

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
帝政パリと詩人たち―ボードレール・ロートレアモン・ランボー
帝政パリと詩人たち―ボードレール・ロートレアモン・ランボー
河出書房新社 1999-05
売り上げランキング : 949639


Amazonで詳しく見る
by G-Tools