マドンナの「Mind Tree」(2)- ハイスクール3年生の時のターニング・ポイント

継母ジョーンへの反抗

▶(1)からの続き:母の突然の死。嘆き悲しむマドンナは広場恐怖症になってしまいます。父も人付き合いを避け時間をとって家庭をまとめようとしますが、なかなかうまくいきません。マドンナは父親にしがみつくばかりだったそうです。6人の子供の養育は父一人では土台無理があります。父は家政婦を雇い入れますがどの家政婦も数ヶ月しかもちませんでした。しかし最後にやってきた躾(しつけ)に厳しいジョーン・ガスターブソンがチッコーネ家に杭を打ちます。半年後、父は家政婦ジョーンと結婚。マドンナは感情的になりジョーンに反抗的な態度をとりつづけます。ジョーンが皆のためにつくった家の決まり事も無視し、「ママ」と呼ぶことなど死んでもありませんでした。マドンナは後に継母ジョーンの存在を無視するかのように、「母にルールや規則など教わることはなかった。物怖じせずにずけずけ言うようになったの母がいなかったため」語っています。
母が亡くなって5年程たってチッコーネ家は、ロチェスター郊外に開拓された農場や野原が広がる地区に移り住みます。新しい家は松やポプラの木に囲まれた和む雰囲気で、広い庭がある大きなコロニアル式の建物の家でした。このエリアの住民もなんらかの自動車関連の仕事に就いていただけでなく、ほとんどの人が教会に通っていたので皆が顔見知りでした。チッコーネ一家は近所でも評判になるほどまじめに教会に通っていました。この頃、マドンナは自分から弟や妹たちの面倒をみるようになっていました。

オールAの優等生。チアリーダーになる

ウェスト・ジュニア・ハイスクール(中学校)に進学したマドンナは、いい成績をとるとお小遣いがもらえるという餌(えさ)につられ、勉強しオールAの優等生になっています。いい成績を取っていれば必ず見返りがくるというのがチッコーネ家の価値観でした。しかしマドンナの本音は、「まじめに勉強してるけど、好きでやってるわけじゃないの。やらなきゃならないからやってるだけよ」というものでした。しばらくすると服装のルールに反発したり、タップダンスとジャズダンスのレッスンに通い始めます。学校の学芸会では、「ザ・フー」のロックが流れるなか蛍光色の下着を身につけて踊り、観劇した父や父兄たちを唖然とさせています。保守的だった父は、母マドンナとあまりに対称的な娘マドンナの将来に不安を覚えざるをえませんでした。
14歳の時(1972年)、マドンナは中流階級で比較的裕福な家庭の生徒が多く通うアダムズ・ハイスクール(高校)に進学します。マドンナはチアリーディング・チーム(つまり勉強ができてかわいくて人気のある女の子たちの集団)に所属し、チアリーダーになりました。チアリーダーになることは学校という小さな社会で女性の頂点に立つことを意味します。ダンスが得意で、頭が良くて、チャーミングで、アクティブだったマドンナにとってチアリーダーになることは秘めた決定事項でした。体育会系男子の格好の恋の標的となったマドンナは、男子と活発に付き合い、夜の秘密のパーティーにも繰り出し、カトリックの空気に包まれた近隣では噂の的になります。当時、そうした付き合いでは飲酒だけでなくマリファナLSDマジックマッシュルームも大流行りでした。ただ、マドンナにとっては、チアリーダーになることは、明るく賑やかな女子のシンボルという「ペルソナ(仮面)」をかぶることでもあったようです。

高校3年の時、クラスメイトから浮いた存在になる

ハイスクール3年目(16歳)を境に、マドンナはそれまでのチアリーダーの「ペルソナ」を脱ぎすてます。いつも笑顔を絶やさない皆に人気のあるチアリーダーは、真逆に、クラスメイトから浮くようになり、皆、引いてマドンナをみるようになったほどだったといいます。笑顔も減り、いつも取り澄ました顔つきになり、友達とも一緒に遊ばなくなっていました。<超然>とした雰囲気になったようです。脚のムダ毛もワキ毛も自然のままになり体育会系男子と付き合うのもやめると、ボヘミアン的になりすぎ誰からもデートに誘われることもなくなります。
マドンナに何がおこったのでしょう。マドンナは大人の<自我>に目覚めたのです。「マインド・ツリー(心の樹)」の芯になる部分ができあがりはじめたのです。

夜間バレエ教室に通いだす。ゲイカルチャーが固定観念を打ち破る

マドンナは夜間バレエ教室に通いだしていました。その教室はロチェスターのメインストリートにあり、そこの講師クリストファー・フリン(30歳年上でした)が、ダンスの師であると同時に人生の師となっていたのです。フリンは学びたい意欲で満ち溢れていたマドンナを見込み、バレエの稽古に打ち込ませただけでなく、内面的にも成長するようあらゆる面から刺激を与えていました。アートギャラリーやコンサートに何度も連れていっただけでなく、ゲイクラブでも一緒に踊りました(そこはデトロイト屈指のゲイクラブ「メンジョーズ」で、かつてアル・カポネが愛人とともに訪れていた高級ナイトクラブでした。1974年に改装オープンし、ミシガンの「スタジオ54」とも呼ばれていました)。
マドンナがはじめて触れたゲイ・カルチャーが、マドンナの固定観念を打ち破ります。男女の役割と約束事があるチアリーディングの中で自分を表現することよりも、自由さと解放さがありました。ゲイ・カルチャーに触れることによって(師フリンもゲイでした)、マドンナは自らのセクシャリティの違和(真の姿)を感じとりはじめています。この時はまだ確かにはとらえきれない奇妙な感覚だったようです。後にマドンナは自分のセクシュアリティを明確に理解し、自らを「女の体の中に閉じ込められたゲイの男」だと語っています。「女の体の中に閉じ込められた男」でなく、「ゲイ」の男だ、という感覚。これが後の「セックス・アイコンーマドンナ」を解く重要なキーの一つになります。

一気に読書量が多くなる

マドンナは同級生よりも多くの時間を読書にさくようになっていました。実存主義に傾倒したり、D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』やオルドス・ハックスリーの世界に目を開かれたと思えば、フィッツジェラルドスタインベックシルヴィア・プラスバージニア・ウルフたちの作品を読み、自己探求や精神分析にも関心を向けました。いろんな世界に触れだすと、自分のことが未熟で欠点だらけだとも感じだしていました。その頃、演劇部に入ったのもそうした自己認識の反映でした。ゲイクラブにいけば落ち込んだ気分が吹き飛び、新しい自分に生まれ変わった気持ちになったといいます。▶(3)に続く