ルイス・キャロルの「Mind Tree」(2)- 手づくりの「牧師館雑誌」の制作・編集

精緻につくりあげた機関車ごっこ

▶(1)からの続き:チャールズ11歳の時(1843年)、ヨークシャー州クロフトに建つ伝統ある牧師館に移ります。3階建てのジョージア風建築の牧師館とその向かいには赤い屋根瓦のゴシック風教会があり、デアズベリーの牧師館とは雲泥の差でした。牧師館から6キロ程にあるダーリングトンには蒸気機関車が走っていて、チャールズをすっかり虜にします。1840年代の子供にとって蒸気機関車(1804年リチャード・トレビシックが史上初となる蒸気機関車を走行させた。有名なジョージ・スティーブンソンの「ロコモーション号」(1825年製造)は、公共鉄道で走行した最初の蒸気機関車)は、当時の人々をとてもワクワクさせていて、少年チャールズが特別だったわけではありません。ただ、手押し車や樽を持ち込んで大きな列車を組み立てただけでなく、切符や鉄道規則を念入りにつくる熱心さは、蒸気機関車に夢中になった他の子供たちにはないものでした。チャールズは運転手と駅長を兼任し、手作り列車はきっちり幾つもの「駅」に停車し、「乗客(兄弟姉妹)」を乗り降りさせ、運行時刻通りに発車したといいます。

手品と操り人形劇、異様な熱心さ

ただ、もし数学への興味と鉄道ごっこだけでしたら、チャールズは後の「ルイス・キャロル」は生まれていません。『不思議の国のアリス』の登場人物や動物や草花たちを描き込むだけでなく、動かす「物語る」力が欠かせないのです。それがチャールズが数学者とは別次元の「大樹」に成長するための大切な”根っ子”になります。その大切な”根っ子”のおそらくほんの先っぽは、手品でした(少し成長してからは、操り人形劇がそれに代わりました)。チャールズは茶色のかつらと白い服装で正装し手品師になりきって演技し、兄弟姉妹を楽しませるのがうまかったようです。しかも異様に熱心だったようです。牧師館は人里離れていたので自ら楽しみを見つけたり、つくりだすのがドジソン家の遊びや生活の方法になっていたのです。

物語やイラスト満載の「牧師館雑誌」の制作

手品と操り人形劇の後に、チャールズがその念入りさを発揮したのが、「牧師館雑誌」でした。この雑誌は、機知に富んだ物語や韻文、随筆やイラストなどを満載した手づくりの雑誌で、執筆者はチャールズを中心に家族の人たちでした。コールリッジ、ディケンズシェイクスピア、テニソン、ワーズワース、グレイ、クーパー、ゴールドスミス、オシアン、トムソンなどがあちこちに引用され、空想に満ち充実した内容のものでした。チャールズはこの雑誌上で「鞄語」をつくりだしています。後の『シルヴィーノとブルーノ』の原形もここにあらわれているといわれています。

地獄のラグビー校の寄宿舎生活

14歳の時、父と祖父が通ったロンドンのウェストミンスター校がその環境の悪化で人気が凋落していたため(産業革命のあおり)、チャールズは長閑な環境にあり、かつ当時英国で最も優秀と噂されていたラグビー校に入学します。ところがジェントルマン養成校の名の下で、寄宿舎生活は年長組のしたい放題、荒っぽい悪戯やいじめ、お仕置きは日常茶飯事で、チャールズもぞんぶんに被害にあいました。体験した者しか知りえない地獄のラグビー校でした。チャールズは忍耐をしつつ勉強では数学と古典で突出した成績をおさめ、牧師館の長男らしく神学賞も受賞しました。18歳の時、クロフツに戻りオックスフォード大学への入学準備の一年間に、再び充実した2冊の「牧師館雑誌」を制作・編集しています。うち1冊はチャールズひとりの手になる作品で構成され、編集になんと1年もかけているほどのものです。テーマは多彩で、例えば「一日はいつからはじまるのか」といった一文もありました。まだグリニッジ標準時が無かった時代でした。チャールズはこの問題で新聞社に手紙も送っています。

18歳の時、母の突然の死

18歳の時(1850年)、チャールズはオックスフォード大学に入学しますが、翌年に母が脳に炎症を起こし突然亡くなってしまいます。ドジソン家は母が中心になってまわっていただけに中心点を失い、チャールズも大きな喪失感を受けます(一番下の子供はまだ4歳でした)。ドジソン家の子供たちの面倒みることになったのは、亡き母の未婚の妹ルーシーでした。ルーシーは生涯にわたって子供たちを支えています。

叔父さんが教えてくれた望遠鏡や顕微鏡のこと

法廷弁護士で大好きなラトウィッジ叔父さんの家に滞在中、冷蔵庫や地図の上で距離を測定する携帯用小道具にはじまり望遠鏡や顕微鏡もはじめて体験します。叔父さんと一緒に望遠鏡では月や木星を観察し、顕微鏡で生きている極微動物を観察しています。20歳の時でした。叔父は多くの発明品や新しいものに興味をもっていた人でした。このラトウィッジ叔父さんがいなければ、ラトウィッジ叔父さんが新しい光学機器に関心がなければ、『不思議の国のアリス』は誕生していなかったかもしれないのです。もちろんそれらの光学機器がもたらした斬新な体験をチャールズが関心を持ち、「マインド・イメージ」として心と記憶に映し込んだことを忘れてはいけませんが。ただこの時は、ラトウィッジ叔父さんは「写真」はまだ未体験だったようです。チャールズの手紙に「写真」の体験がみられるのはこの3年後のことでした。
「写真」が正式に発明されたとされるのが、1839年のことで、まだ11年しかたっていませんが、急速にこの光学装置は人々の関心を惹き付けはじめます。同時に、カメラ機器や現像にかかわる改良もなされていた頃です。ただまだ気楽に写真撮影ができる時代ではなく、露光した感光板をすぐに現像できる暗室がすぐ近くになくてはならない時代で(感光板もコロジオンを自ら注いだり、定着溶液も調合しなくてはならなかった)、まだ写真の黎明期からほんの少し改良がなされた頃なのです。ラトウィッジ叔父さんが次にチャールズに会った時に、新しもの好きの面目躍如で、ようやく「写真」をなんとかものにし、チャールズに披露したのです。この年、チャールズは数学と古典で優れた成績を上げ、栄えある「特別研究員」に推挙されます。オックスフォードのクライスト・チャーチの教師(マスター)となり個人指導教授(チューター)にもなりました。文学士号すらまだ取得していなかったにもかかわらず、給与も支給され最高の待遇を得ることになったのです。

「写真」への関心の芽生えはいつだったのか?

そして23歳の時、最後の「牧師館雑誌」を制作します。想像力とユーモアに溢れ、テニスンの詩をパロディにした愉快なものが幾つかありました。ここに後の『不思議の国のアリス』に表現される予兆のようなものがあらわれはじめます。最後の「牧師館雑誌」の制作編集から、『不思議の国のアリス』が物語られるまで、まだ7年余りたたなくてはなりません。その間にチャールズは何をしていたのでしょう。キャンパスではを送っています。じつはこの7年間の間、論文執筆や数学教師としての勤務外は、チャールズは「写真」にのめり込んでいたのです。イメージとしては、『不思議の国のアリス』の制作の頃か、後になってから大量の少女「写真」を撮り出したように思われますが、事実はまったく異なります。その写真の腕前と「写真」を通じて子供たちとの間に生まれた信頼関係(同時に子供たちの親御さんとの信頼関係)があってはじめて『不思議の国のアリス』に至るわけです。そしてチャールズが「写真」に関心を寄せはじめたのは、ちょうど最後の「牧師館雑誌」を制作編集し終えた頃でもありました。この年の終わりの頃クリスマスに帰省していたチャールズは、近くの商業写真家に一度写真を撮られていますが、翌年の9月になるまで「写真」との深いかかわりはありませんでした。
1855年の秋、チャールズは、新たに手に入れた光学機器「写真機」をもってきた叔父のラトウィッジのお供をしてリッチモンドまで行き、そこでチャールズは叔父に手ほどきをしてもらって写真を数枚撮っています。そして翌1856年(チャールズ24歳直前)早々、特別研究生仲間で一足早く写真に魅了されていたサウジーが、チャールズを写真の世界へ誘い出します。すでに叔父から写真に眼を開かされていたので、好奇心旺盛なチャールズはこれを良い機縁とし「写真」の世界に乗り出しました。▶(3)へつづく 

地下の国のアリス
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