シド・ヴィシャスの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- バッキンガム宮殿の近衛兵の父に捨てられる

はじめに

ロンドン・パンク・ムーブメントの中核的存在となり、その後の世界のユース・カルチャーに圧倒的な影響を与えることになったパンク・バンド「セックス・ピストルズ」のベーシストだったシド・ヴィシャス。薬物の過剰摂取で21歳にして夭逝しますが、もとは薬物中毒だった母からスピードの味を覚えています。シド・ヴィシャスの場合も、たんに好きだったから過激な音楽の道にはいっていったわけではありませんし、旧友のジョニー・ロットンがふるってつけた凶暴さをイメージさせる「シド・ヴィシャス」というネームも、本来の姿とは異なるものでした。
シド・ヴィシャスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、若い頃イギリス空軍に入隊した母アンと、バッキンガム宮殿の近衛兵だった父リッチーの出会いからはじまります。そしてイビサ島になかば捨てられた母アンと息子サイモン(シド・ヴィシャス)の2人は、ともに薬物中毒になりながらロンドンで激しく生きたのです。母の生き方そのものがすでにパンクでした。息子サイモンは、デビッド・ボウイがつくりだしたエイリアンのキャラクター「ジギー・スターダスト」に夢中になり、エドガー・アラン・ポーの小説を読み、人知れず覚えた街の歴史を母に教えます。

シド・ヴィシャスの「マインド・ツリー(心の樹)」は、わずか21年にして倒れますが、そのパンク・スピリットは、21世紀の今日も、世界中に、継がれています。この地球上で最も激しく高く飛び上がっている「マインド・ツリー」を見つけたら、それはきっとシド・ヴィシャスの「マインド・ツリー」です。なぜなら彼こそがパンク・ステージでマサイ族のダンスのように垂直に飛び上がる”ボゴ・ダンス”の生みの親だからです。Youtubeで「セックス・ピストルズ」のサウンドをかけながらシド・ヴィシャスの「マインド・ツリー」を読みつつ、一緒に”ボゴ・ダンス”をしてみましょう。うまくいけば、地平線の向こう側がちょっとばかり見えるかもしれません。

母アンは中退し、英空軍へ入隊

シド・ヴィシャス(Sid Vicious/本名:ジョン・サイモン・リッチー/出生証明書には、Simon John Ritchie)は、1957年5月10日に誕生しました。母アン・ジャネット・マクドナルドは当時25歳でした。母アンは、女性は主婦として生きるのが当然とされていた時代に、学校を中退し英空軍に入隊しています。アン・マクドナルドは少女期から学校が嫌いで、当然成績も悪く、若くして結婚、そしてすぐに離婚。結果、家では言い争いが絶えなかったといいます(家は4人家族で妹がいた)。学校を辞め、英空軍に入隊したのも家を早くでたかったためだったようです。この英空軍時代に、アンはバッキンガム宮殿の近衛兵ジョン・ジョージ・リッチーと知り合いました。リッチーは楽しいタイプではなかったもののカッコいい男だったようです。近衛兵同士のなかでは浮いた存在だったようで、そんなリッチーはアンに心を奪われ、追いかけ回したという。空軍の訓練は辛く、リッチーとの出会いは心弾むものだったようです。
未婚でも出産する道を選んだアンは父リッチーの苗字をつけ、サウス・イースト・ロンドンにある半地下のフラットに住みはじめました。近衛兵を辞めたリッチーは、ロンドンの出版社に就職(営業担当)しますが、長期間家を空けるようになります。。赤ん坊をかかえ収入もないアンは、義理の親類からたびたび施しを受けています。経済的には困窮していましたが、将来がまだその手に感じられる時期でした。

イビサ島へ。バッキンガム宮殿の近衛兵の父からはなしのつぶて

リッチーはアンと子供をロンドンから追い出すかのように、やり直すためにイビサ島行きの話しをもちかけ、2人を先に行かせました。リッチー自身は約束通りにイビサ島には行かず、翌月からお金も振り込まず、手紙も出さなくなります。当時は何もない漁村だったイビサ島で、途方に暮れた母アンは生き抜くためにあらゆることをします。不定期のタイピストアメリカ人観光客に出来合いのマリファナを売り、違法クレジットカードを使用したり、なけなしのお金でハッパを買っては巻いて、海から戻った漁師に売ったり、漁師たちと性的関係ももったりしたようです。ボヘミアン仲間もでき母アンは1年半イビサ島で暮らしています。
シドは4歳に満たない頃からコップに入ったリキュールを舐めて陽気になるだけでなく、覚えたてのスペイン語の罵り言葉で漁師たちを嘲(あざけ)るので、「こいつはろくでもない社会の落ちこぼれになるか、イングランドの首相になるかのどっちかだ」と皆からからかわれたようです。
1961年(シド4歳の頃。母アンは、息子のことをずっと「サイモン」と実際のファースト・ネームで呼んでいます)、母アンは友人から教えてもらったとおり英国高騰弁務官事務所に行き、無職なので英国に戻る旅費がないと泣きつき、母と妹のいる実家に戻ります。サウス・ロンドンの狭苦しいフラットをみつけ、シドと一緒に暮らしはじめます。シドは姿を消した父に顔がだんだん似ていったといいます。すでにどこか大人びた様子があって、母のモダン・ジャズのレコードを聴いていればご機嫌だったといいます。

ファッションに凝った母。「薬物依存症」に

母アンは、後にシドがそうだったように、ファッションに凝り、そのセンスは時代の先を行っていました。この頃、ロンドンでイビサで焼けた小麦色の肌に、短く刈りあげたボーイッシュなヘアスタイルをする女性はそうはいません。まもなくチェルシー・ルックが沸き起こりますが、まだ斬新な『ノヴァ』誌(1965年創刊)は存在せず、ユース・カルチャーをとらえたミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望(Blow-up)』が公開されたのは1966年のことでした。テリー・リチャードソンの父ボブ・リチャードソンがロンドンとパリに来て、セクシャリティたっぷりの写真と短篇映画を撮るのも1966年で、まだまだ先です。
アンはシドを預けて外出できる部屋を見つけ(体が悪く外出できない大家の女性がベビーシッターをしていた)、ソーホーのジャズ・クラブ「ロニー・スコッツ」に夜の仕事をみつけます。かなり自由に働くことができアンにとって最高の仕事でした。
ところが、アンは自身の人生と息子シドの将来を狂わせるほどの大きな判断ミスをしてしまいます。「薬物常習者」と認定されれば、ロンドンにタダで部屋を手にいれることができると聞きつけ、近くのクリニックで「薬物依存」の認定を受けたのです。前夜に一睡もしないでハッパを吸い続け、針を腕にたくさん射して注射跡をつくったようです。晴れて「薬物依存症」になったアンを落胆させたのは、なんなく手にいれた住居でした。設備は何一つない究極のボロ・アパートでした(共同トイレ付き)。シドの面倒をみるベビー・シッターがいなくなったため、アンはせっかくのクラブの仕事を辞め狼狽(うろた)えます。あとはウェスト・エンドのドラッグ・ディーラーの餌食になるのを待つばかり。アンの妹ヴェロニカもこの場所ですでに餌食になっていました。アンのドラッグの量は増え、もはや抜け出すことはできなくなっていました。

いじめられ、からかわれる。転校ばかり

シド5歳、小学校に入学します。晴れやかな登校初日にシドはひとりで登校します。指導員が不審におもい家を訪問すると、母は酒を飲み、薬を射って朦朧となっていたと記録されています。すでに小学校にあがる頃から、シドの「マインド・ツリー(心の樹)」は、母アンの薬物依存に翻弄される運命にありました。シドは気質的には利発で明るい子でしたが、授業中にしょっちゅう居眠りし、クラスの他の生徒たちとはほとんど交わることもななかったといいます。学校外でも一人っ子で育ったためか、すべてに自分中心でいようとするため、おもちゃも独り占めし他の子供と何度もトラブルになったといいます。そのため他人と交わるのが苦手になり、他の生徒からいじめにあい、からかわれるようになりました。
母アンはシドに対するいじめに学校側は何もしてくれないと判断し、一年生の終了前に転校させました。でも結局はどこでも同じで、その後何度も小学校を転校します。どの学校でも「授業中に集中力がないが、利発で音楽に強い興味がある」とみられていたようです。▶(2)に続く