種田山頭火の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 山口・防府の大地主だった種田家。父の遊蕩三昧、女遊びで、母はノイローゼになり自殺。中学時代、俳句に熱中、「文芸同人雑誌」を発行


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はじめに:郷土からもがれた”根っ子”。型破りの俳句を生みつづけた「漂泊の生涯」

俳人種田山頭火には、「漂泊の生涯」という表現がよくついてまわります。わずかながら聞いた覚えもある「分け入っても分け入っても青い山」や「後ろ姿のしぐれてゆくか」といった季語も定型もない俳句は、どんな「漂泊」の人生から生まれたのか。そのじつ山頭火の生き様は、日本中を「漂泊」していたという以外、ほとんど知らないままでした(少なくとも私自身)。
じつは「マインド・ツリー(心の樹)」をつくりだしていく作業の一つは、こうしたなぜか知っているようでいて、どうやらまったく知らなかった(つまり「作品」の上でしか知らない)人物たちに近接していくことにあります。同時に、気になった人物(それぞれに言葉にはしえないような何らかの理由がある)の内面世界を、とくに「幼少期」の体験や環境を知ることは、単なる作品理解、人物理解を超えて、”自分”という存在への「謎」に跳ね返ってくるはずです。地球上の誰かが、「鏡」になってくれ、”自分”への<問い>を激励し促してくれるのです。
種田山頭火は、「定住」するしかなくなった私たち「昭和・平成人」が封印してしまったような、”漂泊する人生”を想起させてくれます。かつて映画『男はつらいよ』の”フーテンの寅さん”に皆がそれぞれに映し出していた熱い心も、その一端だったにちがいありません。ちなみに故渥美清さんは、人に見せなかった私生活では、種田山頭火や尾崎放哉らの俳句もよく詠んでいて、自身も熱烈な「俳人(俳号は「風天」)だったといいます(渥美清演じる種田山頭火のドキュメンタリーが企画されたことがあったが、最終段階で企画は不成立)。
当初、山頭火は五七五調の定型の俳句を詠っていましたが、31歳の時、萩原井泉水に師事し、季題も定型もない「自由律俳句」を開始しています。34歳の時に種田家は破産し、山頭火は妻子とともに熊本に至り、古本屋「雅楽多—ガラクタ」を開業しています。弟と父の自殺、妻との離婚。個人雑誌『郷土』を創刊していた山頭火の「心の樹」の”根っ子”は郷土からもがれていきます。客観的写生をしていた俳句が、内面の実感を重んじる「自由律」に突きすすんだのも、故郷からもがれるようにして漂泊しはじめた山頭火の「心の樹」そのもののあらわれだったのです。
漂泊中、山頭火が僧衣に頭陀袋をさげた雲水姿をしていたのは一応曹洞宗に属していたからでしたが、実際には限りなく「フリー」に近い雲水だったといいます。
最初の自選句集『草木塔』の頭には、次の句がありました。
 「松はみな枝垂れて南無観世音」
それでは、「行乞(ぎょうこつ)流転」の旅を続け、酒をあびつつ型破りの俳句を詠みつづけた俳人山頭火の”根源”へと辿ってみましょう。30代半ばまでこだわった「郷土」には何があったのか、山頭火は何を体験し、何を内面に映し出していたのでしょう。

1キロ先の駅まで自分の土地を歩いていけた大地主の種田家

種田山頭火(本名:種田正一)は、明治15年(1882年)12月3日、山口県佐波郡西佐波令村(現・防府市八王子)に生まれています。佐波郡山口県南部に位置し、西に佐波川が流れ、南方からは周防灘(瀬戸内海)の潮の香が漂ってくる長閑な土地でした(現在は、三陽本線と三陽自動車道にはさまれたエリア)。生家のすぐ裏手には、「日本三大天神」の防府天満宮(最も古い天満宮。他は太宰府天満宮と京都の北野天満宮がありますが、学問の神様となる菅原道真が九州へ流転する手前の宿泊の地でした。後に山頭火は、九州に至り(34歳)、一時「古本屋」(後に額縁店)を営んだことがありましたが、おそらくは防府天満宮と地続きだった(住所は同じ宮市)大地主の許に生まれた山頭火の脳裏に、九州に流された学問の神様・菅原道真公のことが薄くとも潜在していたにちがいありません。
生家の種田家は、8百坪の土地持ちの庄屋で「大種田」と呼ばれていました。防府天満宮とは逆の南方にあった三田尻駅までの1キロ余を他人の土地を踏まずに行けたといわれます。広い土地には、大きな母屋に土蔵、納屋が軒を連ね、あちこちに黒松などの大樹が茂っていたといいます。

父の遊蕩三昧、女遊びで、母はノイローゼに

家は三代で一変するといわれますが、まさに種田家の場合、祖父・治郎衛門から孫の山頭火の三代で、大地主からものの見事に無一文となります。漂泊の俳人種田山頭火の句は、この「種田家」の事情を知ることなしに知りえることはありませんし、種田山頭火の「マインド・ツリー(心の樹)」もまた、11歳の春まで、宮市のこの土地に深く”根”を張っていたのでした(家の一大事で、後に山頭火の心身は根こそぎ東京に移されたかのようでしたが、神経衰弱に陥った山頭火は、再びその”根”を郷土に下ろすことになる)
いったい「大種田」の家に何が起こったのか。まず祖父・治郎衛門が早死に、父の種田竹治郎がわずか16歳の時に莫大な家督を相続しています。役場の助役に就いていた頃には、すでに地元・宮市の料亭・五雲閣に入り浸りはじめ(地主たちの社交場だった)、上客の遊蕩三昧、女遊びが派手になっていったのです。美人の妻をもらっても女遊びは止まることなく、妾(めかけ)を2、3人いつもかかえていたといいます(竹治郎は24歳の時、20歳の清水フサと結婚。長女フク、「山頭火」となる長男・正一、その後に3人の子をもうけている)。
田地永代売買の禁が解かれ、地租改正もおこなわれ、地主は地租を現金で納めなくてはならなくなるなど、地主にとっても波乱含みの時代でしたが、いったん火がついた父の遊蕩三昧、女遊びは止むどころか、仕事を通じて政友会伊藤博文が1900年に組織)と縁ができ魑魅魍魎の政治に手をだし、家計に飛び火するようになります。竹治郎が選挙運動に奔走しだすと、料亭の勘定も莫大になり、妾問題に加え家計も乱れ、妻フサは絶えきれずついにノイローゼに。種田家は負のスパイラルに突入します。そんな妻フサをさらに疎んじ、竹治郎は家に寄り付かなくなっていったのです。

「一家の不幸は母の自殺からはじまった」

少年山頭火、11歳の春の時のことです。少年山頭火は一生涯、脳裏から決して離れることのない「光景」を見てしまったのです。それは井戸に身を投げて自殺した母の姿でした。井戸から土間へと引き上げられた母の姿。親戚の者が引き離すまで少年山頭火は泣きじゃくってすがりついていました。母の突然の死後、少年山頭火の「心の樹」は、”根っ子”がざっくり切断されたような感じになったにちがいありません。少年山頭火は学校を欠席するようになります。小学校時代を通じ、平均すると3日に1日も学校を休んでいますが、母の自殺以降にかなりまとまった日数、学校を休んでいたようです。 
50歳を過ぎた時、山頭火は自叙伝を書くならば、「一家の不幸は母の自殺からはじまる」と冒頭に書かかなくてはならない、と語っています(現実に自叙伝が書かれることはなかった)。突然の嫁の死で、5人の子供の世話をまかされた祖母のツルは、「業やれ、業やれ」と口癖のように言っていたのを少年山頭火は聞いています。それは悲しいあきらめの気持ちを意味するものでした。一番下の子はまだ3歳で、翌年、山頭火の弟が養嗣子(ようしし)に出され、そのまた翌年には末弟が5歳で亡くなっています。母と弟たちとの相次ぐ別離、少年山頭火を、人間存在の哀しみで満たし、その哀しみは少年の心の内奥に深く深く折り重なっていったのです。種田家が哀しみのなか崩れようとしているのに、父・竹治郎の遊蕩生活はなんら変わることはなく、あまっさえ一人の妾を家に引き入れるのです。

中学時代、俳句に熱中。「文芸同人雑誌」を発行

母の死から3年後、14歳になった少年山頭火は、私立周陽学舎(当時は中学校。現在は周防高校となっている)に入学明治29年。成績はつねに上位にあったといいます。そしてこの中学時代に、少年山頭火は「俳句」に熱中しはじめ、学友たちと「文芸同人雑誌」を発行しはじめるのです。それは俳句を詠む仲間たちがそれぞれ持ち寄った原稿を綴じたもので、一種の回覧雑誌でした。少年山頭火の「俳句」づくりは中学時代にかなり本格化しはじめていたようです。
周陽学舎を首席で卒業した山頭火は、山口県下随一の名門校・山口尋常中学に編入することになります。この名門中学は、後に総理大臣となる岸信介佐藤栄作兄弟や安部晋太郎を輩出しただけでなく、山頭火が入学する10年余前には国木田独歩(千葉県生まれだが、司法省の役人だった父の度重なる転任で山口にも住んでいた)が、また25歳年後には詩人中原中也も学んでいます(ホンダF1の初代監督・中村良夫や、『定年ゴジラ』や『ビタミンF』の作家重松清も出身者)編入者だった少年山頭火は大人しくしているだけで、学友たちとあまり交わることができず、週末になると学校のある山口市から実家までいつも帰っていました。このことからも少年山頭火の心は、いまだ郷土の辺りを巡っていたようです。山頭火は故郷に、切断された「心の樹」—失われた「幻肢」のいうなものを感じていたのかもしれません。
最終学年の時でした。少年山頭火は学校のある山口市内の永楽座で、「国民教育論」と題された演説会を聞いています。それは早稲田大学の初代学長になる高田早苗(さなえ)の演説会でした(文部省告示で明治35年に大学部が開設されることに。高田早苗は大学設立の基金を募るために各地を回っていた)。この演説会が、少年山頭火の方向定まらなかった「心の樹」を鼓舞したのです。”偉い人”になれという、幼少期から山頭火の心の裡に埋め込まれた教訓と方向が一つになったのです。
そして少年山頭火が中学を卒業した春に、父・竹治郎が、妾と入籍しています(妾は、母フサが亡くなった後に種田家で生活していたという。この妾以外にも家を一軒買い与えていた別の女性がいた)。その入籍は、生まれた女児を私生児にしないためのもので、少年山頭火の父への嫌悪を決定的なものにしました。種田家内部に「新たな家族」が生まれてしまったのです。父から、そして「家」から離れるしかありません。少年山頭火は上京を決意します。
▶(2)に続く-未
・参考書籍:『山頭火—漂泊の生涯』(村上護著 春陽堂)/『種田山頭火』(新潮日本文学アルバム)/『山頭火—徹底追跡』(志村有弘編 勉誠出版)/『種田山頭火—行乞記』(作家の自伝35 日本図書センター)ほか

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マーティン・スコセッシの「Mind Tree」(3)- 「リトル・イタリー3部作」はマーティン自身の「映し鏡」。記録映画『ウッドストック』を編集。両親に自分たちの幼少期のことを語らせたドキュメンタリー『イタリアン・アメリカン』


映画『タクシー・ドライバー』へとつながることになる初期映画『ミーンストリート』と合わせ鏡(一対)になるドキュメンタリー映画『イタリアン アメリカン』(1974年製作)。両親が暮らすリトル・イタリーのアパートで、両親に幼少期のことやイタリア・シシリー島の先祖のことを語る。そしてイタリアンアメリカンとしてのスコセッシ家のリアルな映像が語るもの。
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「映画は個人的であるべき」という考え

▶(2)からの続き:”映画的自由さ”の気運はさらに高まっていました。街には「自由」という感覚が溢れださんとしていました。”自由”と”解放さ”が映画でとことんあらわすことができることを知ると同時に、映像の「編集」についても鋭い意識をもつようになります。とくにアレン・レネ監督の映画『二十四時間の情事』や『去年マリエンバード』に何ものにも束縛されない「編集」の極意をみつけています。ゴダールの『女と男のいる舗道』でも伝統的なハリウッド映画の話法は崩されていましたし、ジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』の16ミリ・カメラでの方法は新たな水準にすでに達するものでした。学生の時にマーティンは、ロバート・シーゲル監督の短篇映画『イネシータ』(フラメンコダンサーを撮影)の撮影を担当しています。この時の編集方法は、後の自身の映画『ニューヨーク・ニューヨーク』を予感させるものになっていきました。
21歳の時(1963年)に撮影した『君みたいな素敵な娘がこんな所で何してるの?』は、実質的な処女作となりましたメル・ブルックスとアーネスト・ピントフ共作の短篇アニメーション『批評家』に刺激を受け製作)。写真や動画、ライブアクションが猛スピードでモンタージュされたもので、ナレーションががんがんかぶされた映像でした。
『マレー、それは君じゃない』は、大学時代に撮られた短篇映画の2作目で、「映画は個人的であるべき」との考えを反映させたものでした。マーティンは実際に”近所で巻き起こった様々な話や出来事”を取り混ぜてシナリオを書きあげています。”近所で巻き起こった様々な話や出来事”とはつまり、リトル・イタリーのストリートで起こった出来事のことでした。『マレー、それは君じゃない』はラスキー大学連合賞を受賞することになります。マーティンは、同映画を起点に、少年時代から暮らし育ったリトル・イタリーとそこに住む青年たちの”魂の成長”を3部作にして描こうと企てます。続いて、作品『ドアをノックするのは誰だ?』(マーティンの長編映画第1作目)、そして”魂の成長”3部作を絞めるものとしてマーティンの初期映画で有名なものとなる『ミーン・ストリート』を撮影することになったのです(「ミーン・ストリート」とは、うすぎたない通りという意味。レイモンド・チャンドラーのディテクティブ小説の一文からとられたもの)。それは「リトル・イタリー3部作」とも呼ばれるようになり、マーティンの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”としっかりと直に繋がるものとなったのです。

「リトル・イタリー3部作」は、マーティン自身の「映し鏡」

じつは「リトル・イタリー3部作」の前にすでに書かれていた台本「エルサレムエルサレム」には、マーティン自身が”投影”された「J.R」という人物が登場しています(映画ではハーヴェイ・カイテル演じる。当時彼は法廷速記者として働いていた)。台本にはマーティン自身の経験から教会と信仰の問題(キリストの受難の現代版)、セックスへのコンプレックスなど、マーティン自身の内面世界=「心の樹」そのものが映し込まれていました。それを担った「J.R」という人物が、その名前もろとも「リトル・イタリー3部作」の『ドアをノックするのは誰だ?』と『ミーン・ストリート』にも顔を出すことになるのです。「リトル・イタリー3部作」は、マーティン・スコセッシの「映し鏡」といっても過言ではないものでした(西海岸で上映された際には、映画館が勝手に『J.R』とタイトルを変更していた)
処女長編『ドアをノックするのは誰だ?』は、当初は卒業製作映画としてスタートしたものでしたが(23歳の時)、その可能性を感じ取ったニューヨーク大学のマヌーギアン教授がプロデューサーとして立ってくれました(マーティンの父が学生ローンから6000ドルを調達し制作費の一部にあててくれた)。同映画は、米国東部において、白黒35ミリで撮影されたおそらく最初の学生映画になっています。
ところが、すったもんだの結果、製作は中断の連続。なんとか製作を終え(65分に切り詰め「踊り子たちを連れて来い」という題で上映)上映会にかけてみたが、惨憺たる結果に終わります。24歳のマーティンは一文無しになり、働かずにはおられない状況になります(学生結婚していたが、帰宅恐怖症になり、結婚生活は破綻)。この頃、バグダッド出身でウェイターをしながら大学に通っていたマーディグ・マーティンと出会い(彼も妻からほとんど追い出されていた)、厳寒のニューヨークの路上、車の中に閉じこもり2人にとっては皮肉な「結婚の幸福を教えます」と題した台本を書くのでした。学生映画で幾つもの賞を獲ていたマーティンを応援する者たちのサポートを得ながら、なんとか処女長編映画の撮影を再開し、1969年のシカゴ映画祭などに出品されます(製作開始から6年たっていた。最終制作費は7万5000ドルに)

記録映画『ウッドストック』を編集。ロジャー・コーマンから監督を依頼される

処女長編はさらにニューヨークのカーネギー・ホール・シネマでも劇場公開されることになります。同1969年、27歳になっていたマーティンはニューヨーク大学の映画学科の助講師に推され、映画の基礎技術や映画批評を、さらには学生が製作する3分映画の指導教官も任されることになります(マーティンが製作監督をつとめ、学生たちが中心になって製作されたインドシナ戦争に関する政治色の濃い映画製作に、ベトナム空挺部隊に所属し除隊して入学してきた若きオリヴァー・ストーンも加わっていた。後に『プラトーン』や『7月4日に生まれて』を監督するオリヴァー・ストーンマーティン・スコセッシに師事。2010年には、オリヴァー・ストーン版「ミーンストリート」の『ウォール・ストリート』を監督)
またマーティンは、1969年に開催され時代を象徴するロングラン・ロック・フェスティバルとなった「ウッドストック」の記録映画『ウッドストック』の編集にも携わっています。『ウッドストック』の購入を決定したワーナー・ブラザーズの副社長は、すでに撮影済みの別のロック・フェスの編集を依頼、マーティンはロサンゼルスに向かいます。その地でマーティンはエージェンシーからB級映画の帝王ロジャー・コーマンに引き合わわれています(1971年)。そしてコーマンから、『血まみれギャング・ママ』の続編『明日に処刑を…』(大ヒット映画『俺たちに明日はない』のパロディーもの)の監督を依頼されます(仕事が開始するまで所持金が底をつきジョン・カサヴェテスに泣きついている)。マーティンはかつて監督を降ろされた経験から、『明日に処刑を…』の全シーンの絵コンテを描き、コーマンの信頼を勝ち得ています。
が、ジョン・カサヴェテスは『明日に処刑を…』をまったく評価せず、マーティンは再び、自身の”根っ子”を張っていたリトル・イタリーへと視線を移します。原点回帰から生まれたのが『ミーン・ストリート』でした。撮影スタッフは、『明日に処刑を…』で一緒に働いたコーマンの撮影クルーでした(ストリートはリトル・イタリーだが、屋内シーンはすべてロスで撮影)。マーティンの才能を買い、コーマンは『ミーン・ストリート』の西海岸への配給を引き受け、マーティンも同映画中にコーマンの映画『黒猫の棲む館』のシーンを挿入、オマージュを捧げています。

両親に自分たちの幼少期のことを語らせたドキュメンタリー『イタリアン・アメリカン』

コーマンと会った1971年のクリスマスで、運命の扉が開かれます。作家ジェイ・コックスが催したクリスマス・パーティで、同じような匂いを放つ「心の樹」をもった人物、ロバート・デ・ニーロと時を超えて出会うことになったのです。デ・ニーロは、俳優への道を走りだしていました。デ・ニーロは偶然にも、ロジャー・コーマンの『血まみれギャング・ママ』(マーティンが監督した『明日に処刑を…』の前篇)に出演していただけでなく、マーティンの『ドアをノックするのは誰だ?』を観ていました(デ・ニーロの伝記本『ロバート・デ・ニーロ—挑戦こそわが人生』—ジョン・パーカー著・メディアックス—には、デ・ニーロはマーティンが映画監督になっていたことも知らず、マーティンの映画も観たことはなかったとなっている。記憶の確かさはマーティンの方に分がある)
そしてマーティンはリトル・イタリーにあるスコセッシ家である撮影をはじめています(撮影資金は建国二百年記念奨学金。それは『イタリアン・アメリカン』(1974年製作)と題されたドキュメンタリーで、マーティンの両親に自分たちの幼少期のことやシシリーに暮らしていた祖先のことを語ってもらったものでした(デ・ニーロもマーティンと再開した3年程前に、先祖が暮らしたアイルランドとイタリアをひとり旅している)。マーティンはこのドキュメンタリー『イタリアン・アメリカン』は、『ミーン・ストリート』と合わせ鏡(一対である)になっていると語っています。つまり『ミーン・ストリート』は、マーティン自身の「マインド・ツリー」と響き合い、スコセッシ家代々の「マインド・ツリー(心の樹)」と木霊(こだま)するものであるかを告げるものだったのです。そのスピリットは、壊れはじめたニューヨークのストリートを目撃する、『タクシー・ドライバー』の主人公トラヴィス・ビックルに通底いくのです。
・参照書籍『スコセッチ・オン・スコセッシ—私はキャメラの横で死ぬだろう』編者/デイヴィッド・トンプソン、イアン・クリスティ フィルムアート社

マイケル・ジャクソンの「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- マイケルの声は、母、そして母方の曾祖父の美声を継いだもの。USスチールの製鉄所に職を求め北上した両親の家族。祖父の厳格な気質を継いだ父ジョー


ジャクソン5から、ソロ・デビュー時のマイケル、ミュージカル
映画「ウィズ」に案山子役で演じた20歳の時のマイケルほか、多
くのインタビューを交えた映像バイオグラフィーになってます。
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はじめに:「This is it!—これだ!」と叫ぶまで、無我夢中になって「完璧」さをめざす

わずか5歳からステージに立ち、兄弟で結成されたジャクソン5のリードボーカルとして子供時代から脚光を浴び、「キング・オブ・ポップ」として頂点にのぼりつめたマイケル・ジャクソン。とくに『スリラー』『Beat It』『ビリー・ジーン』などのミュージック映像は、音楽シーンを新しい次元を生み出し、史上最高のレコードセールスを叩き出しました。
あまりにも早熟だったマイケルでしたが、奇怪で不可解な行動や噂が飛び交いだした大人になっては、真逆に心の中の「ピーター・パン」を、巨大な「ネバーランド」に遊ばせ、それがまた「変人マイケル—Wacko Michael」のイメージを増幅させました。幾冊もの伝記やドキュメンタリー映像にくわえ、自伝『ムーンウォーク(1988年刊 30歳の時)も出版されるなか、今では多くの秘密も露呈されることになっています(情報が飛び交い余計見えにくくなったものも多い)
自伝『ムーンウォーク』から伝わってくるのは、「This is it!—これだ!」と叫び、徹底的に納得するまで、無我夢中になって「パフォーマンス」と「クリエーション」を永遠に繰り返すマイケルの姿です。その「完璧」さは、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井壁画のように「完璧」なものでなければならないんだと、マイケルは生前語っています。後のすべてにわたるヴィジュアル・センスの源流の一つは、幼い頃から「絵」を見ることが大好きだったことにあるようです。そして歌やダンス、パフォーマンスへの絶えざる追求の上に、「映画」(とくにホラーやSF、ファンタジーなどの映画—B級映画も含む)や「写真」への関心と好奇心がそこに加わり、『スリラー』などのミュージックビデオ(マイケルはそれをショート・フィルムと呼んでいた)に合流していったのです。またディズニーランドのアトラクション「キャプテンEO」の製作に参加した時には、ウォルト・ディズニーの伝記本を何冊も読んでいたり、玩具やゲーム、コミック類への熱中だけでなく、興味が惹かれるものに関する読書もつねにかかさなかったようです(日本公演終え帰国後、古代日本が中国と陸続きになっていたことを、おそらく本を通して知って驚き、知人に電話で確認している)
さてマイケル・ジャクソンの「マインド・ツリー(心の樹)」は、ジャクソン・ファミリー抜きに存在することはありません。ジャクソン・ファミリーは、まるで一つの”惑星”のようでした。その”惑星”が、間違いなくマイケルの”土壌”になっていますが、その独特の”美声”は、母方の祖父から星を継いできたといわれています。「ムーンウォーク」の原型はすでにこの世に存在していましたが、研ぎすまされた感性でそれを吸収したマイケルが、”アレンジ”しながらつくりだしていったものでした。
それではまず、ジャクソン・ファミリーという一つの”惑星”に着陸してみましょう。そこはシカゴの東部、ミシガン湖に面した鉄鋼都市、アフリカ系アメリカ人の割合が全米で最も多く、犯罪発生率が全米でも最も高い場所の一つに数えられた白煙で煤けた土地です。大人になったマイケルの歩幅で、玄関を入って5歩も歩けば通り抜けてしまう(マイケルの言葉)小さな「家」、それがマイケルの”惑星”でした(まさにムーン・ウォークすればたちどころに外の空へと抜けでてしまうほどの小さな家だった)

南部から北上した両親のファミリー、栄枯盛衰の人工鉄鋼都市に生まれる

マイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson)は、1958年8月29日、ミシガン湖に面したインディアナ州の製鉄の町ゲーリー(Gary—ゲイリーとも)に生まれています。シカゴのダウンタウンから南東に40キロ程で、シカゴ・メトロポリタン・エリアに属し、「Magic City of Steel 」とか「City in Motion」をニックネームにするゲーリー(人口10万人程)は、つぎの5点で全米にもよく知られる町となっているようです。まず最初に圧倒的な「黒人の町」(人口の84パーセント余)であること、そして全米で最も早く黒人市長が誕生した町であること(1967年)、USスチールの巨大製鉄工場や煙突が林立していること—その凋落、そしてジャクソン5やマイケル・ジャクソンが誕生した町であること(全米ツアーを故郷ゲーリーからスタートしたことがある)。そして"デンジャラス”極まりない町、ずっと高い犯罪率です。2000年に入ってから犯罪率が2年連続で全米トップだったこともある程です(年間の殺人は70人余で全米の他の地方都市の8倍を超える)。
じつは製鉄の町ゲーリーの急激な隆盛と衰退が、「ジャクソン・ファミリー」を生み出す重要な背景となっているのです。なぜゲーリーが全米にも聞こえる「黒人の町」になったか。それは巨大鉄鋼カンパニーのUSスチールがこの地に製鉄所を建設し、安い賃金で使える大量の労働者を必要としたからです。なんとUSスチールが製鉄所を設立する前は、ゲーリーという町は存在しなかったのですゲーリーという町名は当時のUSスチールの社長の名前です!)
マイケル・ジャクソンの父方の先祖も、母方の先祖も、それぞれ南部のアーカンソー州アラバマ州に暮らしていました。そして奴隷解放後、各々の一家は職を求め南部から北部へと流れ、米国製鉄業が沸騰しはじめたイースト・シカゴに向ったのでした(実際の町名イースト・シカゴは、ゲーリーの西隣の町のこと)
マイケルの父ジョゼフ・ウォルター・ジャクソン(通称ジョー)は、実際USスチールの関連会社インランド製鉄でクレーンの操縦士をし、マイケルの母キャサリンの父も同地で製鉄工場の仕事に就いています(後にイリノイ・セントラル鉄道で特別客車のボーイの仕事に就く)

父ジョーは、子供たちを戸外で遊ばせないような祖父の厳格な気質を継いでいた

まずはマイケルの父方のジャルソン家を少し辿ってみます。よく知られるマイケルの父ジョーの鉄拳制裁をいとわないその厳格な気質は、じつはジョーが父サミュエル・ジャクソン(マイケルの祖父)から受け継いでしまったものだった気質そのものだっただけでなく、父ジョーがマイケルだけでなく兄弟姉妹全員を同年代の子たちと家の外で会ったり、遊んだりするのを許さなかったりしたのは、祖父サミュエルが息子のジョーら子供たち(ジョーは5人兄弟の長男)にしていたことだったのです。
子供たちを口喧しく躾けた祖父サミュエル・ジャクソンも父ジョーも、自身の恋愛面にはゆるく、高校教師だった祖父サミュエルの妻は教え子クリスタルでしたし、ジョーも再婚で、キャサリンと結婚してからも浮気心が静まることはなかったようです(別の女性と一児をもうけている)。また繊細だったけれどもよそよそしく近寄りがたい性格だったこと、家族に滅多に愛情を見せなかったこと、など祖父と父は瓜二つなのです。
祖父サミュエルや父ジョーが、なぜ子供たちが家の外で友達と会うのを好まなかった(あるいは許さなかった)のか。それは「悪い奴とつき合うと、若者の性質が台無しになる」という『聖書』の言葉によっていたともいわれています。もともと南部は「バイブル・ベルト」と呼ばれる程、『聖書」はよく読まれていました。しかし、女性関係だけは、祖父サミュエルや父ジョーだけでなく、キャサリンが以前属していたバプティスト派とルーター派の牧師も同じだったのです(キャサリンは牧師たちが外で女性たちと付き合っているところを目撃している。自身の家族の失敗から異性関係に潔癖性だったキャサリンは、さらに厳格な「エホバの証人」に向うことに。「エホバの証人」は白人中心だったが、精神的な行き場が失われた低所得者層の黒人にも強くアピールすることとなり、かなり多くの黒人たちが入信している)

きつく低賃金の仕事をしていた父は、「音楽」—ショービジネスに乗り出した。

 弟たちとバンド「ザ・ファルコンズ」を結成。家での練習を見ていた子供たち
ジョーが北部のイースト・シカゴにまで来たのは、仕事ではなく父サミュエルの女癖のせいでした。長男ジョーだけを連れてオークランドに移り住んでいたサミュエルは、3度目の結婚をし、厄介者になったのを感じたジョーはイースト・シカゴに移り暮らしていた母と弟妹たちの許へひとり向ったのでした(その時期、母の実家がイースト・シカゴにあった)。そしてハイスクール2年の時、学校を中退、ゴールデン・グローブスのボクサーになったのです。高校を中退してボクサーになったということは、自身の内から湧き上がるエネルギーの放出と現状を打破していこうとする強い意志のあらわれです。製鉄場で埋没していたジョーが、好きだった「音楽」に乗り出そうとした企ても、ボクサーになった時のように、潜行する”何か”への訴えの答えでした。
60年代に入ると製鉄の町は衰退しはじめています。ジョーは何度も首切り(レイオフ)にあい、溶接工の仕事に就いたり、ジャガイモの収穫の仕事をしたり、再び製鉄の仕事をみつけたりしていたといいます。ジャガイモの収穫の仕事をしていた時は、家族の食卓はいつもジャガイモ料理ばかりになったといいます。
そんな苦難に甘んじていた元ボクサーのジョーが、「音楽」という別のリングに上がろうとしたのです。かつてリングの上でスポットライトを浴びたように、新たなリングの「ステージ」でスポットライトを浴びたかったのです。ジョーは弟ルーサーを呼び込み、リズム&ブルースのバンド「ザ・ファルコンズ」を結成しました。地元やシカゴのクラブやバーやカレッジでも演奏したため、「ザ・ファルコンズ」はジャクソン一家にも僅かながら臨時収入になりました。リハーサルがジャクソン家のリビングでおこなわれたので、年長の兄弟ジャッキー、ティト、ジャーメインは夢中になって父たちの演奏に見入っていたといいます(とくにティトは学校でサックスを習っていて音楽的感性も高く、後に父ジョーは音楽的才能を継ぐ者としてティトに目をかけていた。またマイケルは年齢的に「ザ・ファルコンズ」のことは覚えていない)
が、「ザ・ファルコンズ」は、ショービジネスの世界でジョーが目論んだようにはうまくいかず、結局、解散してしまいます。ジョーはギターをベッドルームの押し入れに隠すように押し込み、以降子供たちの前でギターを演奏しようとはしませんでした。子供たちにギターに指一本触れさせることなく、また子供たちも父を怖れ、ギターに触れようとはしませんでした。ある日、ジャッキーとティト、ジャーメインが母がキッチン仕事をしている間に、こっそりとギターを取り出し、ラジオのボリュームを上げてギターの音がわからないように演奏しだしたのです。その頃、マイケルも母に喋らないことを条件に彼等の演奏を見ることを許されます。が、母は気づいてしまいます。最初は怒った母でしたが、治安の良くない戸外でワルな少年たちに誘い込まれるより、子供たちが仲良く部屋で過ごす方がよいだろうと判断し、ジョーに内緒にするからギターを大切に扱うようにはからってくれたのです(自伝『ムーンウォーク』より)。この辺りの事情は、父ジョーが子供たちが同年代の子たちと家の外で会ったり、遊んだりするのを絶対許してもらえなかった、同世代の子たちと一緒に遊べたのは学校だけだったと語るジャッキー(上から2番目)の言葉を載せている『マイケル・ジャクソンの真実』とは少し異なっています。しかし同著には、鉄鋼の町ゲーリーが衰退しだし、治安がさらに悪化し物騒になり、ストリートにはワルな連中が増え、ジョーもキャサリンも子供たちがいつ何時巻き込まれないかいつも心配していたという記述もあるので、親の心配性と子供たちの外で遊びたいという気持ちが裏腹だったことがわかります。どうやら子供たちを戸外になるべく出させないようにしていたのは、『聖書』の教条的な文句や厳しい躾から同世代の子供たちと接触させたくなかったため、というのではないようです(まま伝記にはこうした記述があるが、実際にワルな連中に感染させたくなかった思いと、ジョーが父から受け継いだ子供たちに対する気質的な厳格さが相乗して結果そうなったようです)
母キャサリンはジョーが仕事中に、こっそりそのギターを取り出し、リビングルームに子供たちを集め、喜ぶ子供たちのために弾き、一緒に歌いだしたのです。リズム&ブルースではなく、キャサリンが好きなカントリー&ウェスタンの曲でした。もともとジャクソン家には「音楽」がいつも満ち溢れていたので、子供たちは大喜びでした。

マイケルの声は、母、そして母方の曾祖父の美声を継いだものだった

ギターなど「楽器」を弾けたように、父ジョーだけでなく母もまた大の音楽好きで、ギター以上にクラリネットやピアノを巧みに弾きました。しかもジョーよりもうんと前にバンドに属していたのです。キャサリンは姉妹で教会のジュニア・バンド、さらには高校のオーケストラに所属し、聖歌隊のメンバーでした。「音楽」とのつながりは、おそらく父ジョーよりも長く、しかもキャサリンの家系数世代にわたっていたのです。マイケルは後に語っています。「自分の声は、母から受け継いでいる」と。そして自身も美声をもっていた母もまた思っていました。「やはり血なんだ」と。それは以前に、曾祖父ブラウン・スクリュースが素晴らしい「美声」の持ち主だったことを聞いた時もまた感じたことだったのです。曾祖父ブラウンの声は、他の誰よりも朗々と響き、教会の建物を通り抜け、教会のある渓谷中に木霊(こだま)したといいます。
曾祖父ブラウンは、南部アラバマ州の綿花の小作農でした(姓のスクリュースは、奴隷として仕えていたスクリュース家の名をつけたもの)。ブラウンは毎週日曜日にラッセル郡の教会に集い、賛美歌を歌っていたのです。その美声は一帯に知れ渡っていたそうです。祖父もまた綿花の小作農として働き、キャサリンの父となるプリンス・スクリュース(マイケスの母方の祖父)もまた綿花の小作農でしたが、セミノウル鉄道でも働くようになっていました。3世代にわたってずっとアラバマ州に暮らしていました。
1930年にキャサリンが誕生します。が、生後18カ月の時、キャサリンはポリオ(小児麻痺)に罹っています。まだワクチンがなく、罹患した者は亡くなるか、脚が不自由になるかという時代だったといいます(キャサリンは脚が不自由に。その障害は生涯続く)。そして父プリンスがなんとか定職を求めようとして移り住んだのが、マイケルらジャクソン兄弟が誕生したインディアナ州ゲーリーだったのです。キャサリンの父プリンスは、ジョー・ジャクソンと同様、USスチールの製鉄工場の仕事に就くのです(その後、まだ若かったプリンスはイリノイ・セントラル鉄道で特別客車のボーイの仕事をみつけている)
ゲーリーに住み着いてわずか1年たらずで、キャサリンの両親は離婚します(キャサリンの母マーサは子供とゲーリーにとどまりまる)。キャサリンは16歳になるまで脚が不自由だったため松葉杖をつき、歯に矯正用ブレスもつけていたこともあり、よくからかわれたため引っ込み思案になってしまったといいます。入退院を繰り返えしながら学校に通いましたが結局、高校は卒業できませんでした(大人になってから高校資格取得クラスを受講し卒業証書を得ている。また脚の不自由さは大人になってからも残ることに)

学校に良い思い出のない母。「音楽」だけが楽しみだった母

学校ではほとんど良い思い出もないキャサリンにとって、当時「音楽」だけが楽しみだったようです。妹ハティと、ラジオのカントリー&ウェスタン番組を聞くのが唯一の楽しみだったといいます(ちなみにカントリー音楽は、キャサリンの家族が代々暮らしていた米国南部で発祥した音楽で、ヨーロッパの民謡やケルトの音楽に南部の教会の霊歌のゴスペルや賛美歌が混じり合って生み出されたものです。カントリー&ウェスタンと「ウェスタン」がつくことがあるのは、後にハリウッド映画やブロードウェイ・ミュージカルの影響で、カントリー・ミュージシャンが当時人気を博していた西部劇風の小道具や演出—カウボーイハットやブーツ—を取り入れたためでした)
キャサリン姉妹が好きだったカントリー&ウェスタン音楽が、白人ミュージシャンの奏でる音楽だったことは、母親っ子だったマイケルが、”白人”へのオブセッションを持ち続けただけでなく、その音楽も、黒人と白人のサウンドを”融合”したものだったことを考えれば、すでにその源流の一筋が母の「心の樹」に宿っていたことに気づかされます。キャサリンはハンク・ウィリアムズやアーネスト・タップスカントリーミュージックの熱狂的ファンで、幼子マイケルを腕の中に抱いてよく歌ったのもまた白人ミュージシャンのジミー・デイビスとチェールズ・ミッチェルが歌った「ユー・アー・マイ・サンシャイン」(1940年公開の映画「Take Me Back to Oklahoma」の挿入歌)や「コットン・フィールズ」だったのです。学校にも充分に通えず引っ込み思案だったキャサリンが、そんな大好きなカントリー・ミュージックに酔いしれるようになったとき、うっすらとあった女優への夢や憧れは、歌手になる夢へと変じていったのです(キャサリンシアーズでパートタイムをしていた)。そしてその夢は別のかたちをなして芽吹いていくのです。自身と曾祖父の声が継がれて。
▶(2)に続く-未
・参照書籍『ムーンウォークマイケル・ジャクソン自伝』河出書房新社/『マイケル・ジャクソン・レジェンド』(チャス・ニューキー=バーデン著 AC Books/『マイケル・ジャクソンの思い出』坂崎ニーナ・眞由美著 ポプラ社/『マイケル・ジャクソン—孤独なピーター・パン』(マーク・ビゴ著 新書館)/『マイケル・ジャクソンの真実』J.ランディ・タラボレッリ著 音楽之友社)/『マイケル・ジャクソン The King of POP 1958-2009」青志社

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ジャック・ケルアックの「Mind Tree」(2)- 小学校時代についた渾名は「メモリーベイブ(記憶の天才)」。11歳「日記」を書きだし、自らつくった「新聞」を発行。15歳、父の印刷所が破産。作家への夢、諦める。アメフトに熱中

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小学校時代についた渾名は、「メモリーベイブ(記憶の天才)」だった

▶(1)からの続き:6歳の時、ジャックは、教会付属の聖ルイと聖ヨセフ校というキリスト教系の小学校に通っています。教会付属の両小学校ではバイリンガル教育が行われていました。午前中は英語で主要科目が講義され、午後はフランス語でフランスの文化と歴史が教えられていたのです(ジャックは『聖書』もフランス語で初めて読んでいる)。ジャックは家庭で話されるフランス語に愛着を感じすぎていて、英語で話すときは言葉が完全に分からないこともあり言葉少なになったといいます。聡明だったにも拘らず早逝し、なかば神格化されていた兄ジェラールと比べれば、ジャックは目立たぬ存在だったといいます。しかしじょじょにジャックは、皆の注目を集めはじめはじめるのです。ついた渾名(あだな)は、「メモリーベイブ」つまり、「記憶の天才」でした。ジャックは、見聞きした言葉や出来事を誰しもが驚くほどに記憶することができたのです。家族やいつも一緒にいる友人たちは早くから気づいていたといいます。
ジャックは、幼少期からひとりで空想にふけることがよくありました。その空想のなかでスポーツの新しいルールをつくったり、一人で大リーグの試合を戦ったり、さまざまな物語をつくっていたといいます。またインクの匂いのする父の仕事場に行っては、印刷用のキーボードで遊んだりしていました。後の「打鍵の達人」とも「数百万語の男」とも呼ばれることになるケラワックは、この頃のキーボード遊びの早業からきているようです(手書きの原稿やメモをタイプするときに、思考と連動した驚くべきスピードで文字を打つことができた)

書いたショート・ストーリーを女性の図書館司書に読んでもらった

公立中学のバートレットスクールに入学する11、12歳頃には、友達と同様にコミック少年になっていました。皆で挿絵入り週刊誌の発売日の木曜を心待ちにしていたといいます。少年ケラワックは、掲載コミックの「ザ・シャドウ」(TV化、ラジオ・ドラマ化、映画化された最大級のパルプ・マガジン・ヒーロー)や「グリーン・ホーネット」(武道のマスターでアジア人助手カトーとともに悪と闘う)、「幽霊探偵」の大ファンでした。「シャドウ」の主人公ラモント・クランストンに夢中で、黒いマントをはおり裏通りでショウドウごっこをして遊んでいたようです(その光景はローウェルを舞台にし、幼少期を描いた自伝的小説『ドクター・サックス』に描かれた)。その一方で、「シャドウ」の作者、ウォルター・ギブソンが毎週30万語執筆することを知って、そのスピードと生産力に刺激を受け、コミックを基に時自分なりの「物語」を書きはじめていました。それを父の印刷工場に持ち込んで、リノタイプ印刷しています。
バートレットスクールに入学した年の秋(ケルアックは3月生まれなのでその時点では12歳になっていた)、少年ケルアックは図書館司書ミス・マンスフィールドと知り合い、文学にさらに触れ、幾つか書いていたショート・ストーリーを学校の外でミス・マンスフィールドに渡して読んでもらうようになります(後にジャック・ケルアックのトレードマークにもなるノートブックに走り書きしたものだったようです)。その一編が、「Jack Kerouac explores the Merrimack」と題された短篇でした。 「ジャック・ケルアックが、メリマック地方を探検する」というものだったのです(『孤独な旅人』にある著者の序文には、初めて小説を書いたのは11歳の時とある。同じくマサチュセッツ州生まれのデビッド・ソローが1849年に自費出版した処女作の題名は、『コンコード川とメリマック川の一週間』だった)。「メリマック地方」は、ローウェルの北方、メリマック川の上流にある町ナシュアもおそらく含まれたはずです。前述したようにナシュアはジャックの祖父の大工ジャン・バティスト・ケルアックが辿りついた土地であり(自らの腕で家を建てている)、母ガブリエルも育った場でもあったのです。ほとんど最初に書いた短篇にして、父のように「自己」にスポットライトをあて、自分が「探検、体験したこと」を書いていたのです。しかも<ケルアック家の源流>を探索するかのような「ロンサム・トラベラー(孤独な旅人)」となって。

11歳、「日記」を書きだし、自らつくった「新聞」を発行

この年(11歳の時)、コミック少年だったケルアックは、「日記」を書きはじめています。さらに自分で考案した競馬とフットボールの試合についての記事を自ら書き(ケルアックは以前から空想のなかでスポーツの新しいルールをつくって、ひとり物語っていた)、それを自らつくった「新聞」に載せて「発行」したのです。「メモリーベイブ」と渾名されていた少年ケルアックの「マインド・ツリー(心の樹)」が、一気に樹勢を高めたのが、公立中学にちょうど入学した年からだったといえるでしょう。
少年ケルアックの短篇を読んだ図書館司書ミス・マンスフィールドは、ものを書く才能があるわねと、ケルアックを激励し勇気づけています。英語が依然負い目だった少年ケルアックは、生来の内気さもあり、クラスでは周りと距離ができるほど静かな少年だったようです。友達も少なく、お高くとまっている優等生として周りからみられていたようです。そんな控え目な少年の裡に、担任女性教師ミセス・ディネーンもまた、物書きとしての天分に気づき励ましています(宿題の提出物が中学生レベルをはるかに超えていた)。この頃から、少年ケルアックにとって週一回、図書館から本を借りるのが「行事」のようになっていました。
しかしケルアックは授業をさぼることに抵抗感はなく、自室や友達の部屋でラジオ放送局920クラブを聴きまくっています。流れてきたのは、トミー・ドーシー楽団、フランク・シナトラがメインボーカルをとっていたグレン・ミラーのビッグバンド、バディー・リッチやジーン・クルーパのジャズでした。ケルアックの「リズム」への関心の嚆矢で、旅の友にいつもボンゴを持ち歩くようになったのもこの時の影響からでした。クラスでは小さくなっていましたが、外では頭角をあらわしだし小さなグループのリーダーになっていきます。

15歳の時、父の印刷所が破産。家族から働きに出るよう懇願される。作家への夢、諦める

14歳の時(1936年)、父の印刷所「Spotlight Print」が、氾濫したメリマック川に飲み込まれてしまいます。川の氾濫の補償は無く、社会や政府に対する不満を蓄積させた父は、鬱憤をはらすように酒をあび、翌年、ついに父の印刷ビジネスは完全に破産してしまいます。雇われ印刷工として働いていたものの、もはや一家の家計も破綻寸前、父は息子ジャックに物を書くことを辞め、製粉所で仕事を探して欲しいと懇願したのです。ケルアックはサロウヤンとヘミングウェイを理想に、文章力をつけようとしていた矢先だったこともあり、大きなショックを受けます。
母は、ジャックにゆくゆくは大学に行くようにと諭しましたが、作家やアーティストの道に入ることは承知しませんでした。将来のことを励ましながらも、とにかく仕事を考えて欲しいと告げたのです。こうして15歳の時、少年ケルアックは、家の経済的事情から、作家(writer)になることを諦めています。ヘミングウェイゲーテH.G.ウェルズやウィリアム・サロウヤンといった一流作家になる「夢」はもちろん、三文小説や探偵小説の作家になることもこのとき諦めたといいます(母は再び靴工場で皮はぎをはじめ、父は印刷屋に就職し、一家は苦境を乗り越えようとしましたが、ケルアックは家計の状況から、近い将来大学の学費は無理だろうと、察していたという)

「スポーツ」への熱中。プロのアメフト選手になろうと夢見る

10代半ば、ケルアックが夢中になっていたのは、「小説」だけではありませんでした。もともと短距離走に秀でたケルアックは「スポーツ」にも熱中しはじめていました。逞しい筋肉質の身体はアメリカンフットボール向きで、俊敏さとタックル力は中学生ばなれと噂され、中学後半にはハイスクールのチームに誘われプレイしていたほどでした。入学したハイスクールでは小説家になることを諦めたからには、プロのアメフト選手になろうと夢み、真剣に練習に取り組んでいます(野球の試合もよくしたが、野球に関してはケルアック自身の考案によるカードをもちい、8チームによるシーズン全154試合の全試合を記録し続けた「野球ゲーム」が、生涯にわたった趣味だった)。しかし、ケルアックはいつも指導者と衝突してしまうのです。諦めた作家への夢、アメフト選手への道で繰り返される衝突。少年ケルアックはジレンマに陥ります。
そんな時、足が向うのは図書館でした。ゲーテヴィクトル・ユーゴー、エミリー・ディッキンソンと、再びケルアックは読書にはまり込んでいったのです。座右の書は、『ブリタニカ国際大百科事典』だったといいます。また映画の魅力にも取り憑かれ映画館にも足繁く通っています。父が映画のポスターやプログラムを印刷していたこともあり、タダで入場できたのです(姉のニンとかなり小さな頃から二人して映画館に通っていた。映画館でのアトラクションに出演していた喜劇俳優W.C.フィールズやマルクス・ブラザーズを、少年ケルアックは直に見ている。映画を通してニューヨークに憧れをもつようになる。ニューヨークに出てからは労働者階級のヒーロー、ジャン・ギャバンがケルアックのヒーローに)
それまで異性に対しては奥手だったケルアックでしたが、女性たちは美男子ケルアックの虜になっていきます。16歳の時、ノスタルジックにすらおもえる恋愛をし、翌年別の女性とも付き合いだします(一生涯、ケルアックは複数の女性や、時に男性の間を彷徨うことになる)

ニューヨークの私立高校時代、学校新聞や学校の文芸誌に小説を発表する

なんとかハイスクールに通えたものの突破口が見つからなかったケルアックでしたが、得意だったスポーツが扉をあけることになります。同16歳(1938年)の時に出場した試合で連続して大活躍、その存在はボストン大学やてニューヨークにあるコロンビア大学のアメフトチームのスカウトマンにまで知れ渡ることになったのです(実際、ボストン大学のスカウトから父の印刷会社を通してはたらきかけがあった)。その結果、大学に行くための唯一の手段だった奨学金が確実なものとなったのです(両親にとってアメフト選手は大学へ入るためのきっかけに過ぎず、将来は保険会社のエリートサラリーマンになることを望んでいたという)。そしコロンビア大学のアメフトの有名コーチだったルー・リトルの知るところとなったのです。
ニューヨークの名門私立高校ホレスマンでの大学入学前の補修コースに通っている間、ケルアックはジャズ、映画、ストリート、セックスとニューヨークそのものと”交合”していきます。またホレスマン校の学校新聞や学校の文芸誌に小説を発表していきました(この高校にはコロンビア大学のアメフトの下部チームに相当するチームがあり、ケルアックはそこに参加していた)。この時期、ジャズへの関心は一気に深まり、学校新聞のインタビュアーとしてグレン・ミラーにインタビューしたり、生涯レスペクトしつづけるレスター・ヤングカウント・ベイシー楽団のテナーサックス奏者)を聞きまくっています。このジャズがケルアック流「writing—執筆」の”リズム”となっていくのです。
コロンビア大学の入学が決定的になったケルアックが一時帰郷すると、地元新聞は「ローカルヒーロー」としてケルアックを迎えます。ケルアックはその後も生涯にわたってことあるごとに、故郷ローウェルに帰郷しています。故郷ローウェルは何度もケルアック作品の舞台として登場することになりますす(第一作品『街と都会』から、『ドクター・サックス』『マギー・キャシディ』『ジェラールの幻想』の自伝的4作品がローウェルを舞台にしている)。故郷ローウェルは、ケルアックの「マインド・ツリー(心の樹)」の”樹芯”にある土地であり、”奇妙で憂鬱”な町だとつぶやきながらも、自身の”心根”が深く強く張り巡らされた場所だったのです。
ケルアックにとって、子供時代は記憶の中で何度も”帰郷”する場所であり、時間でした。『ドクター・サックス』では、”子供時代最期の日々”を描き、『ジェラールの幻想』ではケルアックが4歳の時に亡くなった兄を記憶の果てまで追想し、『街と都会』では故郷ローウェルの幼友達のキャラクターを使って、ローウェルに大ファミリーを創りだしたのでした。

大学入学前、ジャック・ロンドンについての「伝記」を読み、冒険・旅人に魅了される

スポーツ選手として奨学金対象になったものの、ケルアックの気持ちはプロのアメフト選手ばかりにフォーカスされていなかったようです。さすがに両親には告げることはなかったものの、戦死した若き詩人セバスチャン・サンパスの影響まぬがれがたく、「17歳の時、作家になろうと心に決めた」とケルアックは記しています(『孤独な旅人』:著者序文)
そして大学入学前の地元ローウェルでの休暇中、ケルアックは強烈な刺激と大きな影響を受けることになる作家に出くわしています。ジャック・ロンドンでした。ケルアックはジャック・ロンドンの小説だけでなく、ジャック・ロンドンについての「伝記」を読み、深く魅了されています。冒険、そして<孤独な旅人—Lonesome Traveler>への思いが止み難くなります。ちょうどこの頃、図書館司書ミス・マンスフィールドが主宰する読書会「三文文士会」のメンバーだった大学生サミー・サンパスが、ケルアックに社会主義やオズワルド・シュペングラー、ウィリアム・サロイヤン、トマス・ウルフ(『クール・クールLSD交感テスト』や『虚栄の篝火』『ライトスタッフ』の著者で、ニュージャーナリズムの旗手トム・ウルフではない)を教えています。
『天使よ、故郷を振り返れ』や『時と川について』などを書いた自伝的作家トマス・ウルフの作品を通し、ケルアックの「Mind Tree(心の樹)」に、故郷ローウェルなみならず、「アメリカ」が<一篇の詩>として映り込んできたのは、大学入学後、アイビーリーグ対抗戦で脚を骨折し、思わぬ状況にひとり読書を深めていったときでした。
▶(3)に続く-未

柳田国男(1)父と母の立場が逆転していた生家

毎晩「お化けの話」など話を聞かせた父。父と母が逆転していた生家松岡家。儒学者、神官、医師、教員と転職を繰り返した父。残された祖母の蔵書 

はじめに:80歳を過ぎた晩年、自ら「柳田国男の誕生」の謎、「幼年期」に向った

遠野物語』『先祖の話』『蝸牛考』『桃太郎の誕生』『海上の道』で知られる「日本民俗学」の創始者・開拓者、柳田国男
昔話を解析し日本の文化人類学にも大きな刺激を与えた「桃太郎の誕生」を探求した柳田国男は、80歳を過ぎた晩年、なんと自ら「柳田国男の誕生」の謎に向かいました。

青年時代の「叙情詩人」、大学卒業後の「農政」への問題意識と取り組み、「農村」や「穀物倉庫」のこと、「山人」研究や「郷土研究」、名もなき庶民「常民」文化、民間伝承の歴史研究、「魂の行方」や「霊魂」のこと、「先祖の話」など、そのすべてへの好奇心と探求の源流にあったのは、「故郷・兵庫県神東郡辻川村」での暮らしと体験(13歳の時に一家は関東へ移住)にあったのです。

柳田国男自身、自分の「幼年期」に”特別な重要性”をもたせていました。自ら解析した「柳田国男の誕生」は、自伝『故郷七十年』となりましたが、故郷に住んで70年ではなく、故郷(にいた13年余)が、後の70年をいかに形成したか、そのことを深く自覚し問うた題名だったのです。

それでは一緒に、柳田国男の<根の国>へと向いましょう。そこには柳田家はなく、「日本一小さな家」の生家「松岡家」がみえてきます。
「日本一小さな家」とはどういう意味なのでしょう。それは物理的な家屋の小ささではなく、それが後に柳田流の民俗学の一端に映しだされるだけでなく、柳田国男の「マインド・ツリー(心の樹)」に深く刻み込まれ、柳田国男を生み出す”球根”の一つとなるのです。

柳翁は次のように記しています。
「じつは、この家の小ささ、という運命から私の民俗学への芯も源を発したといってもよいのである(自伝『故郷七十年』1957年より神戸新聞連載初出)
柳田国男の「マインド・ツリー(心の樹)」に触れえた時、私たち一人ひとりが無意識の内に「日本民俗学」の”継承者”になっていることとおもいます。

「道の国」播磨、道が交差する「辻川」の地に生まれる

柳田国男(柳田家の養嗣子となる27歳までの姓名は「松岡国男」)明治8年(1875年)7月31日、兵庫県神東郡辻川村(現在の福崎町)に松岡家の6男として生まれています(男子ばかりの8人兄弟。うち5人が成人、国男はその3番目)。辻川村は姫路城のある姫路市の北方(10キロ弱)、姫路平野の北端に位置していますが、姫路街道、丹羽街道、但馬街道、京街道をはじめ古来より「道の国」でもあった播磨の国播州をまさに映し出すような土地柄でした。

辻川村は、姫路から豊岡、城崎、丹後、銀山で有名な丹馬国生野の方へ北上する道と、畿内と西国とをつなぐ東西に走る道の重要な交差地点でした(出雲から京に向うルートにもなっていた)。長い歴史をになってきた東西・南北の2つの古い街道が、まさに十字を切って走り、多くの物資や人、情報が往来する要所だったのです。

また、国男の出生当時の地名「神東郡田原村辻川」の「田原」は、農耕に因んだ名で、「田原村辻川」とは、まさしく<定着型農耕社会>と<交易社会>とが歴史的に折り重なる象徴的な名前でした。
そしてこの”土地柄とその環境=郷土・原郷”が、後に柳田国男自身も発言しているように柳田国男の「民族学」を生み出し、形づくる上で重要なバックグラウンドになるのです。


父と母が逆転していた松岡家。
毎晩「お化けの話」やいろんな話を聞かせた父

柳田国男のまるで楠(クス)の老樹のように深く枝葉を繁らせた「心の樹」の”土壌”は、郷土「田原村辻川」であり、父・母、そして祖母、兄弟たち(それにともなう「家」の構造)、そして後述するように地元の大庄屋・三木家でもありました。
国男13歳の時、一家は関東に移住したにもかかわらず、柳田国男という”大樹”は、”郷土の土壌”にこそ根を張っていたことは、柳田国男の自伝『故郷七十年』からも伝わってきます。膨大な学問研究を成し遂げていった”根気”すら、原郷への想いや、郷土での暮らしや幼少期の体験こそが”核”になっていたようです。

柳田国男の”根っ子”は何処にどのように張り巡らされ、”根気”は何に由来しているのか、まずは、父親の松岡操柳田国男の生名は松岡国男。「松岡」は27歳までの姓)へとつながる”根っ子”からです。


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松岡一家においては、父と母が逆転していました。夜には父・操が、国男に添い寝をしてくれる母親のような存在だったのです。
毎晩のように枕元で父は国男に、子守り唄代わりに「お化けの話」などいろんな話を聞かせていたといいます。その父・松岡操ですが、一般的に、儒学者、神官、医師、教員ウィキペディアでは儒者のみ)と、幾つも職(あるいは職歴)をもつ、いっけん多能な才をもつ人間のように紹介されることがあります。が、実際には国男が生まれた時、父は職業不定でした。

また、ウィキペディアでは、松岡家は「代々の医家」となっていますが、これは肩書きだけ揃えればそうともとれるだけの表現で、松岡家の元来の職業は「農業」であり、実際にも江戸時代の身分制では「士農工商」のうちの「農」の身分だったのです(後に、国男が東京帝国大学で農政学を専攻し、農商務省の官僚になって農政問題に取り組み、全国の農山村を歩き、「郷土研究」を創刊したり、『遠野物語』などを著してく、その”根底”にあるのは「農業」への視線であり、そこから「日本人」とは何であるか、という問題意識が生まれていくことになる。
代々の医家だけであったらこうした視線や問題意識はまずでようもない)

「第一の開国」となった「明治維新」で、松岡家に何がおこったか

なぜ、父は職業不定の状態になってしまっていたのか。「第三の開国」ともいわれる今日からみて、「第一の開国」だった「明治維新」前後に、「農業」を家業にしていた柳田国男の言葉)一家に何が起こっていったのか知ることは、本題でないにしてもかなり意義深いものがあります。そしてその時代のうねりのなかから「柳田民俗学」が芽吹いていくのです。江戸中期まで辿れる松岡家初代は、田原の土地を開墾、分家しています(松岡家初代は播磨赤松氏の後裔で、室町時代の末期に兄弟で辻川に移住してきたといわれる。松岡家は弟の方の数の多い分家—しかもどこも家が小さい—、その本家は赤穂家老大石氏と縁つづきだった)。江戸後期に入ると飢饉や米市場の激変をこうむり代を追うごとに農地は縮小し、松岡家の農業の営みは完全に行き詰まるのです(国男が誕生した時は、なんと農地は皆無だった)。「医家」としての松岡家は、手放してしまった農地に代わり、一家の生計をたてる策だったのです。
江戸後期の松岡家3代目(医者となった長男が死去し、兄の志を継いだのが二男、また松岡家2代目は博打打ちの渡世人ですでに一度家産がすっかり傾いている)が、京都で漢方医学を習得し、帰郷し辻川で開業しています。松岡家5代目の父・操は、漢方医学で身を立て、儒学(や国学も学び、明治維新を迎えるまでは辻川村の知識人として尊敬を集め、姫路の町学校の塾監として町人に儒学を教えていました。

儒学者、神官、医師、教員と、転職を繰り返した父

ところが「明治維新」で西洋式の教育方法が導入され、姫路の町学校は廃止。松岡操は職を失い、故郷辻川に戻り漢方医儒学者の仕事を再開しましたが、医師制度の大改革に巻き込まれてしまいます。医家には西洋医学の習得が義務づけられたのです漢方医は一代に限って開業が認められた)。辻川村の知識人であり医師であった父の社会的な信用は数年の間に一気に失墜してしまったのです。
家計の必要に迫られていた父・操は、幾つかの小学校で教職に就き「修身」を担当しますが、どの学校でも任期は一年前後の短期に限られていました師範学校卒が教員の必要条件となる。例外規定があり、「修身」科目だけはしっかりした儒学の知識があれば、正式の教員免許がなくとも教壇には立てたが)。この頃、父・操はかなりの神経衰弱に陥っています。時に鳥取県まで出向き漢学塾に勤めることもありましたが望郷への想いがつのり、帰郷し神社の神官の職に就くのです。しかし神官の職も1、2年程の短期でした(今日でいう短期派遣型か契約社員型)。こうして転職を繰り返した柳田国男の父・松岡操の職業欄には、儒学者、神官、医師、教員と幾つもの職が記されることになったのです。

祖母が残していった『南総里見八犬伝』や百科事典の『三世相』からの影響

柳田国男の2つ目の大きな”根っ子”は、父の母・小鶴(国男の祖母)につながっています。小鶴は、医師となった松岡3代目に子供ができなかったため、隣村の医師中川家からもらい受けた養女でした。この小鶴が息子・操に、孫の国男に影響を及ぼするのです。
幼少より聡明だった小鶴は、儒仏・和学・文学に通じ、とくに「作詩」に秀でていました。しかし13歳から神経症の病に罹り、その後も完治することなく過ごしています。小鶴は、今度は同族の中川家より養子をもらい受け、子供をもうけています。そして松岡家を継いだ小鶴は、息子・操に、自己流の教育を施していきます(養子となった中川至は漢学に秀でていたが、養父と不和となり松岡家から逐われる。後に他家に入り明倫館の教授になり、生野の変で檄文を書き活躍。その功績が後に認められ士族にとりたてられた)。それは毎日一篇の詩をつくることでした。
また国男が物心つき、文字が読めるようになった時に、最も国男少年の心を虜にしたものは、小鶴が所蔵していた「本」でした。その本とは、滝沢馬琴著の『南総里見八犬伝』、昔の百科事典の『三世相』『武家百人一首』『蒙求和解』の4冊だったといいます。とくに『南総里見八犬伝』は、国男は暇にまかせていつも頁を繰って、何度も読んだといいます。この4冊は、国男が生まれる2年前に亡くなった祖母・小鶴の数多(あまた)あった蔵書のうち(祖母は晩年は自宅で寺小屋も開いていた)、家計に困った父が書物を大量に処分した後に僅かに残されたものだったのです。


小鶴は息子・操を、学があり詩を好む医者のもとで修業させ、一人暮らしの身となった自らは、息子を想う気持ちを詩集『南望篇』として纏めている。頼山陽も学んだ郷学の場・仁寿山校に通っていた頃には、この詩集が姫路藩儒学者の目にとまり藩が経済的に苦しい操の学資を支給することになり、操は藩学の好古堂に迎え入れられることになったのです。後に小鶴は請われ近村の子女に漢学を教えています。篤い法華経の信者だった小鶴は、後に国男が大いに世話になる辻川の旧家で大庄屋の三木氏と儒仏論争もしている才女でした。


せっかくの蔵書を売り払わざるをえなかった父・操は、以降「本」は<借りるもの>だと考えるようになり、それが国男少年に受け継がれていくのです。「生家に本が少なかったことが、かえって私を本好きにした」と後に柳田国男は回想していますが、そのまま父が本を借りることもなく、国男も4冊のまま止まっていたら、国男少年の好奇心はたちまち根腐れしていたにちがいありません。母も「父さんはお前のようじゃなくて、もっと勉強家だった」と国男少年をつねに刺激していました。後に国男が高校時代に「新体詩」を『文学界』に発表したり、田山花袋国木田独歩ら5人からなる『叙情詩』(民友社 1897年刊)の同人となったり、イプセン会を設けたりしていくのも、父・操や祖母・小鶴、さらには母たけの詩や文学、学問への深い関心と志向が幾重にも国男に影響してのことだったのです。
あらためて一人の「マインド・ツリー(心の樹)」は、とくに”根っ子”でつながる何本もの「マインド・ツリー」が折り重なり、木霊し、映し出され、影響し、形づくられていることが、柳田国男の例はよくあらわしているとおもわれます。その意味で、すべての「マインド・ツリー」は、つねに複数形の「マインド・ツリーズ」であるのが本来なのです。

「神社仏閣」と「自然」の中で育つ。樹木や草に「名」をつけて遊んだ

国男少年の「心の樹」をかたちづくることになるのは、生家・松岡家の人々や書物だけではありません。国男少年の幼少期の重要な舞台は、生家の周囲の此処かしこにある「神社仏閣」であり、一帯の「自然」でした。生家のすぐ裏手にある産土(うぶすな)の社・鈴の森神社や、生家から400メートル程の所にある神積寺(同寺鎮守の岩尾神社には文殊菩薩が祀られている)の大門があり、文殊祭りや「鬼追い」の行事は国男の幼心に強い印象を与えていきます。農耕神や先祖の霊として考えられていた歳(とし)(歳は古くは「米」のことを意味していていたといわれる)を祀る大歳神社もあちこちにありました。
そして鎮守の森や、庭先の八重桜や白桃、路傍の草木が国男少年の心をとらえることも日常的なことで、国男は気になった樹木や草に「名」をつけて遊ぶ子供でもありました。後に柳田国男はこうした自らの体験から、「ものに名をつける行為は昔から子供の特権である」という持論を披瀝しています。ところが樹木や草が大好きだった国男少年に、気難しい気性の母は口うるさい禁止事項を告げるのでした。その一つが、「木登りをしてはいけない」(体が弱かった国男を思ってのことかもしれないが理由は不明)でした。
▶(2)に続く-未
・参考書籍『柳田国男伝』(柳田国男研究会編著 1988年 三一書房)/『日本人の自伝ー故郷七十年』(柳田国男平凡社)/『評伝日本の経済思想—柳田国男』(藤井隆至著 日本経済評論社)/『柳田国男 その原郷』(宮崎修二朗著 朝日選書)

ロバート・デ・ニーロの「Mind Tree」(3)- 映画、舞台の端役でも役柄の徹底した調査・研究をつづける。オフ・ブロードウェイの舞台で評価を獲る。キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映っていた 


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内気で話すのが苦手、オーディションではパニックに陥る

▶(2)からの続き:オーディション用の<扮装写真>ファイルを編み出したのも、裏返せばデ・ニーロがあまりにも内気だったため、「扮装」せざるをえなかったためだったといえます。その内気さは、深く”内面”を抉(えぐ)り、役柄にあらわし、役柄の人物の秘めた怒りや苦悩、不安感を観客に伝える「役者」(とくに性格俳優)にとって、むしろプラスにはたらくことは世の東西問わず様々に語られます。
デ・ニーロの事実上の映画デビュー作『御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ』の監督、あのブライアン・デ・パルマ(なんと、彼もこの映画が長編映画デビュー作だった。この時、ブライアン・デ・パルマはユニヴァーサルの親会社MCAから奨学金を獲て、サラ・ローレンス大学に通っていた。映画は大学の教授と出資者と共同製作・共同監督したもの。映画は2年間お蔵入りだった)は、オーディションにあらわれたデ・ニーロを次のように語っています。「非常に内気で話すのが苦手だったが、何とかうまくやろうと必死だった」と。紙に書かれていたセリフなのに、まったくうまく言えなかったデ・ニーロは、パニックに陥り、部屋から外にでてもう一度入り直し、もの凄いエネルギーでセリフを吐き出したといいます。即興的な撮影、演出方法などあらゆる面から実験的な作品を撮ろうとしていたブライアン・デ・パルマに、デ・ニーロのパニックに陥りながらも、猛然とかつ執拗に成し遂げようとする姿がアピールしたのです。デ・ニーロはオーディションに合格したのです(出演料50ドル)。デ・ニーロ、20歳の時でした。

アクターズ・スタジオの参観メンバーになる。オフ・ブロードウェイで幾つもの端役で出演

映画がお蔵入りしたこともあり、その後、デ・ニーロに出演以来がくることはありませでした。が、21歳の時、デ・ニーロのガールフレンドだったサリー・カークランド(当時アクターズ・スタジオの生徒。後に『スティング』や『プライベート・ベンジャミン』などに出演)が、知り合っていた女優シェリー・ウィンタースと引き合わせたのです。シェリー・ウィンタースは、デ・ニーロの可能性を感じ取り、リー・ストラスバーグアクターズ・スタジオのオーディションを受けるよう促しましたが、デ・ニーロは頑として聞き入れません。ならばとウィンタースは、顔が効いたアクターズ・スタジオに参観メンバーとして出席できるようかけあっています。
デ・ニーロは参観メンバーとしてアクターズ・スタジオのメソッドを観察し、家に戻ればルームシェアをしていたガールフレンドのサリー・カークランドとドラマ仕立て(キッチン・シンク・ドラマ)で何時間でも稽古をつづけたといいます。この時も、デ・ニーロは心の動きや内面の心理の変化に関しては、よく読んでいた手持ちの何十冊ものペーパーバック小説から「インスピレーション」を獲つつ演じていたようです。扮装服で外見をつくりだしても、内面の世界が重要度を減らすことはありませんでした。外ではいたって物静かで自分の意見も決して言わず、個性が薄いように映り、つねに謙虚(その代わり「観察」をしていた)だったデ・ニーロでしたが、家では感情を昂(たかぶ)らせ爆発して繰り返し演技の稽古をするのでした。役作りへの執拗なまでのこだわりが顕著になっていった時期でした。
この頃、デ・ニーロは巡回劇団が催していたチェーホフの『熊』や、『シラノ・ド・ベルジェラック』『欲望という名の電車』などオフ・ブロードウェイの小さな劇場での端役をあちこちでこなしています。

イースト・ヴィレッジのオフ・ブロードウェイの舞台で評価を獲る。

22歳の時、マルセル・カルネ監督の『マンハッタンの哀愁』(1965年)に端役で出演していますが、この時期は舞台へ集中していきます。同じ年、オフ・ブロードウェイのある舞台のオーディションに合格します。アンディ・ウォーホリのファクトリーで名を成していくキャンディ・ダーリングが出演した「Glamour, Glory and Gold」というオフ・ブロードウェイ劇の脚本を書いたトランスジェンダーのジャッキー・カーティスの次回作「Vain Victory」のオーディションでした(East VillageのLa Mamaで上演。East Village Drug Starsが出演。すぐ後に若かりしパティ・スミスが役者として出演した「Femme Fatale」の脚本も書いている。この時ジャッキー・カーティスは若干18歳、デ・ニーロよりも4歳若い才能だった)。そうした極めつけのヴィレッジの連中をさしおいて、デ・ニーロは5人ものキャラクターを演じ切った才能ある新人として一部の劇評でかなりの評価を受けています。この年(1968年)、ウォーホル・ファクトリーの監督ポール・モリッシーは、ジャッキー・カーティスとキャンディー・ダーリンをキャスティングした映画『Flesh』を製作しています。デ・ニーロはオフ・ブロードウェイのメッカ、イースト・ヴィレッジで頭角をあらわし、デニス・ホッパーらを通じドキュメンタリックな実験映画に向ったウォーホル・ファクトリーの圏内に充分入りこむ”名声”を獲たのですが、デ・ニーロの「マインド・ツリー(心の樹)」にはポップなアイコンの実は似つかわしくなかったのです。ウォーホルからしてもステージ上とはうってかわって地味なデ・ニーロに<ポップスター性>を感じることはなかったということです。
イースト・ヴィレッジでの一時の名声から逃れるようにデ・ニーロは、自身の「ルーツ」に向き合おうとします。デ・ニーロは飛べるだけの旅費を貯め、アイルランドとイタリアへの放浪の旅に出ます。最初、祖父母の故郷アイルランドに向かい、次いでヨーロッパに渡るとヒッチハイクで曾祖父母の故郷イタリア・ナポリ近くあるカンポバッソ県フェラッツァーノ(Ferrazzano)に向っています。4カ月の旅でした。

キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映っていた

1960年代後半にピークを迎えるカウンターカルチャーやヒッピー文化は、映画の都ハリウッドにも激震を走らせていました。極めつけは、1969年に公開されたデニス・ホッパーピーター・フォンダが主演した映画『イージー・ライダー』の衝撃的なヒットでした。この頃から、従来のハリウッド映画手法とは異なる自主製作のインディペンデント映画の作品が増えだし、映画を取り巻く環境が様変わりしていきます。『ゴッドファーザー(F.フォード・コッポラ監督)は、そうした変化を引き入れながらハリウッドがつくりだした最初のメジャー映画だともいわれています(『ゴッドファーザー Part 2』には、デ・ニーロも登場することになる)
そうした新たな潮流にいた監督の一人が、すでにデ・ニーロの秘めた才を感じとっていました。再びブライアン・デ・パルマは、デ・ニーロ(25歳)に声を掛けます。『ブルーマンハッタン2/黄昏のニューヨーク』(1968年)と、2年後の『ブルーマンハッタン/哀愁の摩天楼』に出演します(『ブルーマンハッタン1』のプロデューサーのランソホフはロマン・ポランスキーに『吸血鬼』(ポランスキーの妻になるシャロン・テート出演するパロディー満載のホラー映画)を監督させてもいたことからも、「時代の水脈」をキャッチするのに長けた人物だったようです)。どちらも低予算映画でしたが、セックスやバイオレンスもふくめ時代の空気をまさに「鏡」のように映しだしたものでした。デ・ニーロはのぞき趣味の青年の役でしたが、内に籠(こも)った暴力を爆発させる人間を演じさせたら、デ・ニーロの右に出る者はいないだろうと一部の批評家たちをうならせています。
自身の演技についてはほとんど語ることのないデ・ニーロは、この頃次のように語っています。
「キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映る。その答えがスクリーンに映し出されたキャラクターなんだ」
デ・ニーロは、スクリーン上の「解」を導きだすため、方程式の数値や「数式」そのものをあれこれ当てはめるように、コンマ幾つまでキャラクターを生み出しているメモリを動かすことができるのです(例えば、扮装面でいえば映画『ミーン・ストリート』の主人公ジョニー・ボーイが被る帽子の種類やツバの傾け方、ネクタイの柄や結び方などからはじまり、今で言えば緻密な3Dモデリングでキャラクターの外面をつくりあげながら、内面もそれに相対して併行してつくりだしていくことになるわけです)
別様に言えば、役柄というレンガを一つ一つ積み重ねていくレンガ職人ともいえます。デ・ニーロにとって俳優は、カリスマ性とセックス・シンボルとしてのスターではなく、「職人」となって生み出されるものだったのです。創造性には妥協することを知らないこの資質と気性は、まさに父親ゆずりでした。
何かを「創造」する時にこそ、デ・ニーロの「心の樹」の全てが動員され、スクリーン上の「解」として、驚くべきキャラクターの「個性」となって映しだされるわけです。まさにそこがデ・ニーロにとって人生をかけた「問題」であり、一般的にいわれる自分の「個性」については、デ・ニーロが全力をあげて取り組むような対象にならないのです(つまり、そうした場合の「個性」はすでに備わっているものであり、「問題」として取り組むものとして措定できないのです)

映画、舞台の端役でも、役柄の徹底した調査・研究をつづけた

ハリウッドのB級映画製作の帝王ロジャー・コーマンにデ・ニーロを引き合わせたのは、アクターズ・スタジオにデ・ニーロを参観させた女優シェリー・ウィンタースでした。デ・ニーロをテストしたコーマンは、デ・ニーロに、モルヒネ中毒で殺されるサディスティックな人物の役を与えました。映画は『血まみれギャング・ママ』というコーマン流B級映画だったにもかかわらず(しかもコーマンの早撮りは有名で、1週間から長くても3週間で撮影終了)、デ・ニーロは、映画の舞台となるアーカンソー州にまで、地元の訛(なま)りとしゃべり方を記録するためテープレコーダーとノートを持って一人向ったのでした。地元の訛りやアクセントを完璧にマスターし、短期間で13キロも痩せ、本当の薬物中毒患者のようになってロケ現場にあらわれたデ・ニーロに、コーマンらは度肝を抜かれます。演じる役に関する徹底的なアプローチは、カリスマ性とセクシーアピールで観客を虜にするハリウッド・スターには必要のない作業だったのです(どこが舞台、ロケ地であろうと、その土地の訛りやアクセントで喋り方を変えたハリウッド・スターはまずいなかった)。いつも決まってこき下ろされる役まわりだったコーマンB級映画でしたが、デ・ニーロの演技には批評家たちも注目せざるをえませんでした。
ここから一気に映画界に進出したかといえばまるで逆で、デ・ニーロは再び舞台に立つようになります。映画界と演劇界に通じたシェリー・ウィンタース(すっかりデ・ニーロの庇護者的存在になっていた)のアドバイスでした。26歳から2年間、デ・ニーロは、シアター・カンパニー・オブ・ボストンのレパートリー・シーズンに参加しています。シェリー・ウィンタースの庇護から離れようとしていたデ・ニーロでしたが、彼女が企画するニューヨークでの舞台に呼び戻されてもいます。他に、ブロードウェイではありませんでしたが、レパートリー・シアターが上演した『KOOL-AID』(モロフスキー作/リンカーン・センター)、名門アメリカン・プレイス・シアターのステージにも上っています。
28歳の年は、再び映画の端役の年でした。ニューヨークのマフィアを主人公にした3本目の映画『まっすぐ射てなかったギャング』(1971年)では、『ゴッドファーザー』出演のため役を降りたアル・パチーノが演じるはずだった役をまかされるようになります。役柄はイタリアから来たギャング。しかもロケ地はニューヨークのリトル・イタリーです。デ・ニーロの血が騒ぎます。デ・ニーロは、イタリア訛りの英語をマスターしただけでなく、イタリアの下層階級の殺し屋のアクセントを身につけるために、テープレコーダーと扮装するための数枚の服を持参しイタリア南部に飛んで調査したのです。この時も映画はまったく評判にならなかったものの、デ・ニーロの演技だけは高評価を受けることになったのです。その年の終わりには、批評家からだけでなく、映画監督からも「ロバート・デ・ニーロ」の名と存在は、認知されるようになっていましたた(大手の映画会社の賃金台帳に名前が載る)

28歳、少年の時以来、マーティン・スコセッシとの久しぶりの出会い

同年1971年(デ・ニーロ、28歳)のクリスマスの夜。デ・ニーロの人生を大きく左右する重要な出来事が起こります。作家のジェイ・コックスのクリスマス・パーティで、マーティン・スコセッシと久しぶりに出会ったのです。少年の頃リトル・イタリーのストリートで会って以来のことでした。デ・ニーロはスコセッシが映画監督への道にすすんでいたことは知らず(長編劇場映画はまだ1本も撮っていなかった)、スコセッシの方もデ・ニーロの近況も知らず、出演した映画もまったく観ていませんでした。
2人の間で、ある映画のことが交わされました。それはまだ映画になる前の企画段階のもので、スコセッシが実現しようとしていたものでした。映画『ミーン・ストリート』でした。ロケ地は、2人が少年期を過ごしたリトル・イタリーの路上。セットでつくられたものでなく、リトル・イタリーのまさにストリートそのものをステージに、ドキュメンタリータッチで、リトル・イタリーの若者そのものをリアルに表現しようとした映画でした。2人で執念のように取り組むことになる問題作『タクシー・ドライバー』(1976年公開)は、お互いにとってもこの『ミーン・ストリート』が大きな礎石となったのです。
▶(4)に続く-未

滝沢(曲亭)馬琴の「マインド・ツリー(心の樹)」(1)- 5、6歳の頃、母が物語る「浄瑠璃」「草双紙」の筋を諳んじた。9歳の時、家老の父が死去、一家貧窮へ。14歳、主家から「逃亡」、江戸放浪。俳諧に染まる


南総里見八犬伝』は、関東平野の南方、「安房(千葉)」の国が
ユートピアとして描かれます。
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はじめに:日本初の本格的職業作家だった「滝沢馬琴

滝沢馬琴は、ほぼ原稿料だけで生計を立てることができる、つまり日本初の本格的職業作家とも言われています。筆名は「曲亭馬琴」で、滝沢は本名の姓で、馬琴は10代につけた「俳号」でした。曲亭馬琴の名を広く轟かせることになったのは、大出世作椿説弓張月葛飾北斎・画)で、琉球王国建国の秘史に迫った今で言う「歴史小説」でしたが、その荒唐無稽さは庶民の拍手喝采と絶大な支持を得たのでした。『椿説』フィーバー中の曲亭馬琴の仕事量は凄まじいもので、一年間に60冊以上もの読本を著し(絵師は、北斎や歌川豊国、豊広、栄泉ら一流どころと組むこともあった)、師だった山東京伝をうわまわる超人気作家にのしあがっていったのです。
そうした膨大な読本を生み出していたのは、曲亭馬琴の空想力や想像力がずば抜けていただけではありませんでした。
荒唐無稽さの一方で、馬琴は史実や伝承の考証、中国小説の典拠にことごとくあたり、その研究力や調査力が、想像力を支えていたといわれます。 
江戸・戯作文学の代表作の一つとなる超大作『南総里見八犬伝(98巻106冊)を28年かけて完結した時、馬琴は75歳になっていましたが、その「持続力」もまた驚くべきものでした。「持続力」といえば、馬琴はまた一日も休むことなく精緻な『馬琴日記』を書き残しています。
この「曲亭馬琴」が著したものの奥底には、歴史上の「敗者」天皇家ならば廃帝南北朝なら南朝への想いが貫いていました。それは滝沢家が代々続いてきた武士身分(先祖は三河武士)であったにもかかわらず(貧窮する下級武士に転落)、戯作者、町人となった馬琴の自らを重ね合わせたものだったにちがいありません。
それでは戯作者「曲亭馬琴」の「マインド・ツリー(心の樹)」に少しばかり分け入ってみましょう。馬琴の「心の樹」を通じて、江戸時代の不条理と、そこに生きるしかなかった家族の風景もまた見えてきます。

江戸深川・旗本松平家の「家老」の職は、安定したものではなかった

滝沢馬琴は、明和4年(1767年)、6月9日、江戸深川・松平家屋敷内で生まれています。しばしば下級武士の家に生まれ育ったとありますが、実際には私たちが藤沢周平の時代小説などでイメージするような下級武士然とした武士の家ではありません。主家は深川の旗本・松平家(当主・松平信成の通称は、五代続く鍋五郎)でした。この松平家は、河越(川越)藩7万石の領主になった松平伊豆守信綱(三代将軍家光と四代将軍家綱と二代にわたって幕府老中を務めた)にまで遡る、徳川幕府創建の功臣の家柄だったのです。その松平伊豆守の6男が深川の河越藩下の屋敷に移ったのが、松平信成家のおこりでした。旗本・松平家は千石あったので、大名にも準ずる三千石級の旗本と比べれば落ちるものの、100〜200石が小禄の旗本と言われているので(旗本の9割は500石以下)、まずまずの家格であったようです。
滝沢家は代々、深川の旗本松平家の「家老」で、「殿様」の松平家の家政・財政を切り盛りしていました。滝沢家の子は代々、松平家の屋敷内で生まれたというのも、滝沢家伝にあてがわれた玄関付きの居宅が屋敷内にあったためでした。旗本の家老となれば、たいそうな暮らしぶりを想像しますが、それもじつは私たちに染み込んだイメージで、江戸中期から後期にすすむにつれ、武家の経済が逼迫しはじめ、旗本たちは家臣の譜代たちを「リストラ」しはじめていたのです。雇いの用人や徒士も季節に応じた臨時雇い(今日でいえば一時的な契約スタッフ)をするようになっていたといいます。下層の旗本では、幕府成立後のわずか30年余後にすでに「旗本の貧窮化」が問題視されはじめていますが、いよいよ中級の旗本クラスにも「財政健全化」がまったなしとなってきていました。
最も旗本松平家の「家老」といえども、主家の(上席)用人であり、「殿様」の虫の居所一つで、クビになる立場だったのです。そして実際に、馬琴の父・滝沢興義(おきよし)は、「殿様」松平”鍋五郎”に容赦なくクビを言い渡されているのです。まだ若かった(馬琴がまだ生まれる前で、馬琴の祖父・興吉が家老だった)滝沢興義は、当時の言葉でいえば、「渡り奉公」「渡り用人」となり、後に馬琴の母がいた松沢家に知人の世話で養子に入っています(後に、滝沢興義の代わりに雇い入れた家老が多額の金を横領し、「殿様」”鍋五郎”は非礼を詫び興義を再び招き入れている)。旗本の「家老」は武士としては中級の立場ではあったようですが、いつ何時整理解雇されるかわからない奉公人でもある立場は、一日にして「下級武士」に転落することも現実だったのです。つまり「中級武士」と「下級武士」レベルを行ったり来たりすることが日常的になってきていたのです。馬琴の父が経験した「渡り奉公」「渡り用人」という生活の仕方は、当時かなり一般化しはじめ、馬琴もそうした生活や経済が不安定化した時代に生まれ、幼少期を過ごしたのでした。

5、6歳の頃、「浄瑠璃」や「草双紙」「俳句」を諳んじはじめる

馬琴の幼名は、倉蔵(くらぞう)でした。倉蔵は幼い頃から相当の腕白坊主だったといいます。馬術にも秀でた剛胆な面もあった父も、その腕白さには肝を冷やすこと度々だったようです。何をやらかすか分からない気性で、兄を敬うこともせず、兄にくってかかるだけでなく、意地っ張りで、それでいて執着心の強い性格だったといいます。腕白かと思えばその一方、「記憶力」に優れ、早くから文字を覚えはじめています。「草双紙(くさぞうし)」をぽつぽつ拾い読みして楽しんでいたといいます。次第に母が物語る「浄瑠璃」や「草双紙」などの筋を諳(そら)んじることができるようになっていったのです。5、6歳になると、倉蔵は母が日頃よく読んでいた「絵双紙」(浮世双紙の類)を手にすれば、飽くことなく次から次へと読んでいたといいます。
「草双紙」や「絵双紙」だけでなく、「俳句」も次から次へと暗誦していったといいます。そのきっかけは、父が催していた俳席で、幼な心に父の傍らで読まれる俳句をいつも聴いていたのでした。父は可蝶という俳号をもつ「俳諧に遊ぶ人」でもあったのです。そうして鋭気を養うと、今度は儒書に親しみ、兵書の『孫子』『呉死子』『司馬法』『三略』『六韜(りくとう)』なども学んでいました。それらは父の座右の書でもあったのです。武具や刀剣への関心もひとしおで、馬琴兄弟は父から厳格な武士道的訓練も受けていました。父は兄弟たちを深川門前の儒者小柴長雄の私塾へ通わせています(『四書五経』の講義などがあった)。倉蔵がその私塾へ通いはじめたのは、7歳の時でした。兄たちに連れられ通ったようです。

9歳の時、父が突然、死去。主家の冷淡な仕打ちで、一家は一気に貧窮しはじめる

9歳の時、父が突然、大量に吐血し病に倒れ、死去してしまったのです(父51歳没)。朝酒をよくするようになっていたことが原因だったようです。滝沢家に暗雲が垂れ込めます。主家松平家は亡くなった父の棒禄を直ちに停止。長男が家督を相続しますが、17歳だったこともあり給禄が激減してしまうのです。しかも滝沢家の居宅も強引に取りあげられ一家は小さな宿所に移されてしまったのです。「下級武士」まっしぐらでした。主家の冷淡な仕打ちに、母お門は激しく怒りをあらわしています(母38歳の時)
結局、長男も給禄を取り上げられ、翌年、兄は松平家を去り、従兄の家に世話になった後に、大旗本・戸田大学忠諏(ただとも)の用心として仕えはじめます。今度は次兄が、長男の代わりに無給同然で使われることを察知した母は、次兄を滝沢家から離れさせ、養子入りさせたのです。主君の傍若無人な仕打ちに対する母の返り討ちでした。その結果、家督を継ぐものは倉蔵(馬琴)ばかりとなったのでした。主家は最低限の給禄を与え、「殿様」松平”鍋五郎”の孫の童小姓として倉蔵を出仕させたのです。
母は下の妹2人を連れて戸田家の邸内の小宅に移っていったため、倉蔵は一人っきり松平家邸内にある次の間で暮らすようになります。寝る場所は畳廊下で、人が枕元をつねに通り過ぎていくような状況だったといいます。その間も、時間があれば浄瑠璃や草双紙を読みふけり、好きな「俳諧」に遊んでいます。

浄瑠璃本」を多読。14歳の時、主家から「逃亡」する。俳諧に染まる

11、12歳までに、倉蔵少年は、当時読むことができうる「浄瑠璃本」はことごとく読み終えていたといいます(さらりと読むだけでなく”熟読”していた)。大量の「草双紙」はもちろん、父の蔵書の「兵書」「儒書」に加え、「軍書」「実録」の類に至るまで乱読しています。それもただ読み漁るのではなく、自身の名のように、記憶に「蔵」するような読みだったと後に語っています。
松平邸内の遠侍になり、主家の愚鈍な幼君の相手役にされたことで、反発心が”マグマ”のように溜まっていきます。倉蔵少年にとって、堪え難いことだったのです。少年倉蔵が、荷物を風呂敷に包んで家を飛び出したのは、14歳の冬の日のことでした。その時、障子紙に「木がしらに 思いたちたり 神の供」という句を書きなぐっています。要するに、少年倉蔵は、松平家を「逃亡」したのです。この時代、主家を逃亡した者は、「渡り奉公」は難しくとも、「渡り用人」としてなんとか生きていけるようになっていましたが、別様に言えば、もし「渡り用人」として受け入れられなければ、もはや「用無し」として、下級武士の「浪人」になるしかありませんでした。家老の子としては、「堕ちる」ところまで落ちるというイメージでしょうか。
家出に驚いた心優しい兄は、弟を迎え入れ、翌年の冬に、戸田家に徒士(かち)として仕えさせています。当初、足軽の槍かつぎの役割を倉蔵は反発し受け入れませんでしたが母に叱られ、いやいや仕えています。この頃、少年倉蔵の心は俳諧に染まっていました。徒士の職に抵抗感を感じ、反発したりしています。行動は次第に抑制を欠き、素行も不良となり、「あぶれ者」予備軍と化し、反抗的若者=「無頼人」になっていったといいます。それは一心に燃えたいものがあったがためでした。この頃に左七郎と改名していた倉蔵は、和漢の書を濫読しています。「弔鶯(うぐいすをとむろう)の辞』など俳諧を読んだのは、15歳の時のことでした。自己の境遇を鳥籠に入れられた鶯に見立てたのでしょうか。倉蔵改め少年左七郎は、はちきれんばかりのエネルギーをかかえながら、籠に入れられた鶯のような暮らしをつづけるしかありませんでした。最も少年左七郎の体もぐんぐん大きくなり(六尺=180センチ)、肥満していもいたので、周りからは(鳥は鳥でも)相撲取り(鳥)になれと囃し立てられたようです。
また戸田家に徒士として仕えている間にも、叔父の誘いで、小石川療養所勤めの官医(山本宗洪)に入門したり、駿河(黒沢右仲)に行っては「論孟」を学んだり、再び叔父の家にあって医術をのべ2年間程学んでいます。が、医術は少年倉蔵の「マインド・ツリー(心の樹)」にその関心の”芽”も"根”もまったくなく、倉蔵のように物覚えがよい者でも、あえなく撃沈(挫折)しています。

俳人になった兄の連衆の会に遊ぶ。17歳、「馬琴」の「俳号」をもつ

少年左七郎が、「俳諧」に深く遊ぶようになったのは、まずは父の、次いで長兄の影響でした。長兄(興旨-おきむね)は、俳人・越谷吾山(こしがやごさん)に入門し、東岡舎羅文という俳号をもつ俳人となっていました。この越谷吾山は、諸国の方言を集め編集した『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』を刊行した文化人だったことは、おそらく後に馬琴(36歳の時)が、『俳諧歳時記』(近世の歳時記の決定版とも言われる)を一人で編集してつくりあげてしまったことにおそらく木霊(こだま)しています。
東岡舎羅文(長兄)は、下層武士だけからなる俳諧を詠み合う連衆(れんじゅ)の会の中心人物として催しています。もちろん少年左七郎も何度も俳席に加わり多いに楽しんでいます。そこに希望の光を見たようです。越谷吾山の撰集になる『東海藻』には、「馬琴」という<俳号>で、「長兄よりも1句多い3句が掲載されています。少年左七郎(馬琴)、17歳の時でした。ここに「馬琴」の名がはじめて登場したのでした。
18歳の時、元服した左七郎は「興邦」と名乗ります。興邦は、<俳号>の「馬琴」だけでなく、「亭々亭」という<雅号>や「山梁貫淵」という<狂名>も名乗るようになっていきます。

多くの書物を「筆写」するも、江戸市中を放浪

巨漢にして、素行も放埒の興邦(馬琴)を兄は押しとどめることはできなくなります。戸田家の出仕を辞めたことは、「世を渡る」術を失ったことでもありました。興邦(馬琴)は、無頼の徒となって江戸市中を放浪するようになっていきますが、その胸には「馬琴」「亭々亭」「山梁貫淵」という「号」が宿っていました。興邦(馬琴)は、当面俳友たちの家をねぐらにし、多くの書物を「筆写」していきます。「筆写」は江戸時代の読書方法であり、筆写することで精読もでき、その書物を自分で所蔵することもできるのです。興邦は、筆写したものを他の書物と交換したり、「写本」として売り暮らしの足しにもしたようです。
黄表紙や洒落本・滑稽絵本・図案集・美人画集など八面六臂に著し、版元蔦屋重三郎に目をかけられ、戯作者として江戸の通俗文壇の綺羅星となっていた山東京伝(馬琴と同じく深川出身)の門を叩くのはこれより5年後のことでした。翌19歳の時でした。一家を死にもの狂いで支えてきた母が病に倒れます。その時、興邦(馬琴)は、居所を転々とし放浪生活を送っていたため、兄妹に看守られながらも衰弱していく母の病状を興邦だけが知らないままでした。
▶(2)に続く-未
・参照書籍:『滝沢馬琴—百年以降の知音を俟つ』(高田衛ミネルヴァ書房 2006刊)/『滝沢馬琴』(麻生磯次吉川弘文館 2006刊)

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