サン-テグジュペリの「Mind Tree」(2)-20歳前後、連鎖する不運

10代後半、哲学や文学に関心が向かっていく

▶(1)からの続き:10代後半になると、バルザックボードレールマラルメドストエフスキーなどの文学にくわえてアントワーヌの関心は哲学に向かっていきました。とくにドイツの哲学者カントやフランスの哲学者ベルグソン、イタリアの神学者トマス=アクィナスを貪るように読みだしました。弟フランソワは病を患っていました。弟を気遣いながらも、「貴族」魂をどうまっとうさせるか、アントワーヌは考え抜きます。そして軍人になろうと決め、一心不乱に勉強に励みだします。1917年、一緒に寄宿校に転校していた弟フランソワが死去。アントワーヌは悲嘆に暮れます。

海軍受験に失敗。第一次大戦後に召集され民間パイロットに

それでもアントワーヌは難関の海軍兵学校に入学を果たそうと(当時まだ空軍は組織されていなかった)名高い受験校に通い続けます。しかし受験資格のある20歳までに試験を突破することはできませんでした。念願だった空軍の第二航空連帯に召集されたのは、第一次世界大戦終戦後のことでした(アントワーヌ、21歳)。アントワーヌは、フランス東部ストラスブールの飛行場(民間と軍が共同利用)で飛行訓練を受けます。まず民間パイロットのライセンスを取得。そしてモロッコカサブランカに転属、つづいてマルセイユ近郊のイストルに配置換えされます。空軍パイロット試験に合格し、少尉に昇進。翌22歳の時、パリ近郊のル=ブールジェの第34航空連隊に配属。この時期、外出許可はかなり自由に取れ、アントワーヌはパリに遊びました。

着陸に失敗し頭蓋骨骨折。婚約破棄。連鎖する不運

パリでアントワーヌは恋に落ちます。旧友の仲介でヴィルモラン家に出入りし、詩を書くのが好きな2人姉妹の妹ルイーズに出会いました。この時、アントワーヌは遺伝による若ハゲがはじまっていて(この時代はまだフランス女性にも男性のハゲはモテなかったようです)、同じ娘に恋していた旧友も2人の恋が理解できなかったようです。ところがルイーズの家族は危険な飛行機乗りとの結婚に反対すします。ロミオとジュリエト現象-2人はその障害を乗り越え婚約しました。一難去ってまた一難。その直後、エンジントラブルで着陸に失敗。アントワーヌは頭蓋骨骨折で意識不明となり、病院に担ぎ込まれます。

瓦・タイルの製造販売から、トラック販売会社に転職

23歳の時、航空連隊を除隊。アントワーヌはヴィルモラン家の知り合いの瓦・タイルの製造販売会社に就職します。人生うまくいきません。否、人生とはそうしたもの。2カ月後にルイーズから別れの言葉。整理整頓がまったくできない性格のアントワーヌは、瓦・タイルの製造販売会社の事務がまったくこなせず失敗続き。トラック販売会社に転職します。ところが営業も苦手なアントワーヌ。15カ月にたった1台しか売れず。それでも給料が入れば浪費し、月末は母に無心。この時期依然と、飛行機乗りへの愛着と文学の二つがアントワーヌの心の中を巡回していました。トラック販売会社を辞職します。

死と隣り合わせの郵便飛行の仕事に就く

アントワーヌ27歳。第一次世界大戦中に戦闘機を製造していたラテコエール社で働きはじめました。アントワーヌはカサブランカダカール間の郵便飛行(2850キロ)の担当です。ラテコエール社は飛行機を利用した郵便事業を考え、まずはフランスと北アフリカの植民地間の郵便輸送を開拓していた時でした(後に南米のアルゼンチンにまで空路を開拓していきます)。この危険極まりない仕事に、戦時中に戦闘機パイロットだった若者を雇うことを考えたわけです。当時の飛行機(ブルゲ機)では郵便飛行はまさに死と隣り合わせでした。灼熱の砂漠上空でエンジンがオーバーヒートしやすかったからです。不時着でもすれば砂漠の民ムーア人に襲撃されます。実際、事業発足から半年で5人が殉職していました。その後にいたるまでのラテコエール社の歴史では、なんと100人以上の若者が殉職しています。それほど危険な仕事でした。

社会への不適応、世渡りの下手さが、プラスに発揮された時

アントワーヌはサハラ砂漠に面した中継基地キャップ-ジュビーの責任者となりました。そしてその任務期間中の1年半の間に、最初の小説『南方郵便機』を書き上げます。また仕事の方ではアントワーヌは不思議な力を発揮しました。もともと交渉力も外交能力もまるでなく、朴訥でぎこちない性格がムーア人には誠実と映り、逆に彼らの信頼を勝ち得たのです。アントワーヌはムーア人たちをパリに招待するほどになりました。社会への不適応、世渡りの下手さという短所が、逆にプラスに発揮されたわけです。

「夜間飛行」-生死が紙一重の飛行を貫くことができるわけ

会社の新規航路の開拓に伴いアントワーヌは、南米アルゼンチンのブエノス・アイレスに派遣されました。その滞在中にアントワーヌは二作目の『夜間飛行』を執筆しました。母の又姉従が旧知のアンドレ・ジッドが、自ら序文を書くことを申し出ました。自身の体験と仲間たちの体験を重層的に追体験する複眼的ルポルタージュの方法で書かれた『夜間飛行』は、フェミナ文学賞を受賞します。そこでは「空の世界」の永遠性が-だからこそ仲間との連帯のなか生死が紙一重の飛行を貫くことができる-見事に描きこまれました。後に『人間の土地』を書き終えた時、「飛ぶことと書くことはまったく一つなのです。肝心なのは行動すること、そして自分のいる位置を自分自身のなかで明らかにすることです」という言葉は、すでにこの時期にあてはまっています。

◉成年期:Topics◉29歳、アルゼンチン航空郵便会社の空路開発営業主任としてのブエノス・アイレスへの赴任は、サン-テグジュペリは一夜にして高級取りに(現在の日本円に換算し2000万円以上)。もともと浪費癖のあるサン-テグジュペリは、毎月豪遊し高級レストランやキャバレーで皆に驕って使いまくり、月末に足りなくなると人から借金までして遊びまくったそうです(母には毎月20万円仕送り)。フランスの知り合いの文学者が、船の中で出会ったうら若き黒髪の未亡人コンスエロ(中米のサン=サルバドル出身)をサン-テグジュペリに紹介。コンスエロの夫はマドリッドやパリで活躍し南米の政界にも顔を効いた50歳過ぎの有名なジャーナリストだった。フランスに転勤になったサン-テグジュペリは、31歳の時、黒髪のコンスエロと結婚しました(サン-テグジュペリは本当は金髪好きだったが)。この年、上司が解雇され抗議したサン-テグジュペリたちは一介のパイロットに格下げされ再びカサブランカ-テチエンヌ路線に配属させられる。
◉1933年にフランスの航空事業は一本化され、航空4社他が統合されエール=フランス社が誕生。フェミナ文学賞受賞が逆に社内政治がらみで、サン-テグジュペリは新しい会社エール=フランス社から不採用に。翌年、エール=フランス社は態度を変えサン-テグジュペリを採用するがパイロッではなく宣伝部での採用だった。給料5分の1に減額、飛行機にも乗れずサン-テグジュペリは同じく浪費癖の妻コンスエロと憂さ晴らしにさらに浪費。気前の良い夕食への招待、高級スポーツカーの購入で一時家賃も払えなくなるほどに。

▶(3)へ続く

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